8 / 16
第7話「身体が刻む不協和音」
しおりを挟む
植物園での一日を境に、俺の心は確実に蓮へと傾いていった。
彼が店に来ると、自然と顔がほころぶようになった。彼と話す時間は、一日のうちで何よりの楽しみになっていた。
アルファへの恐怖が消えたわけではない。灰都にされたことの傷が癒えたわけでもない。でも、蓮だけは違う。そう思いたかった。
心の変化とは裏腹に、身体は奇妙な悲鳴を上げ始めていた。
長年、強力な抑制剤を服用し続けたせいだろう。周期が完全に狂ってしまっていた。本来なら、とっくにヒートが来ていてもおかしくない時期なのに、その兆候は一向に現れない。
その代わり、微熱や頭痛、原因不明の倦怠感が続くようになった。
『身体が、薬に慣れきってしまってるんだ』
無理やり自然の摂理を捻じ曲げてきたツケが、今になって回ってきている。
専門の医者に行くべきなのは分かっていたが、怖かった。オメガであることを改めて突きつけられるのが。そして、まともな身体ではないと診断されるのが。
その日、俺は朝から酷いめまいに悩まされていた。視界がぐにゃりと歪み、まっすぐ立っているのさえ辛い。それでも、店を開けないわけにはいかなかった。
「藍沢さん、顔色が……」
閉店間際にやってきた蓮は、カウンターに凭れかかる俺を見て、すぐに駆け寄ってきた。
「大丈夫です。いつものことなので」
「いつものこと、で済ませていい問題じゃないだろう」
彼の声には、鋭い非難の色が滲んでいた。こんなに強い口調の彼は初めて見る。
「病院には行ったのか」
「……行っていません」
「なぜだ」
答えられなかった。本当の理由なんて、彼に言えるはずがない。
俺が黙っていると、蓮は深いため息をついた。
「すまない、責めているわけじゃないんだ。ただ、心配で……」
彼はそう言うと、俺の額にそっと手を当てた。ひんやりとした大きな手が、熱っぽい肌に心地いい。
その瞬間だった。
くらり、と世界が揺れた。
蓮の指先から、彼のフェロモンが流れ込んでくるような錯覚。深い森の香りだ。いつもは心を落ち着かせてくれるその香りが、今日に限っては、俺の身体の奥底に眠っていた何かを、暴力的に揺り起こした。
「……っ!」
腹の底から、熱いものがせり上がってくる。身体中の血液が沸騰するような、抗いがたい衝動。
これは、ヒートの前兆だ。
今まで薬で押さえつけてきた本能が、蓮のフェロモンに触発されて、無理やり目を覚まそうとしている。
「藍沢さん?」
心配そうに俺をのぞき込む蓮の顔が、やけに艶めかしく見えた。彼の唇、首筋、その全てが俺を誘っているように感じる。
まずい。このままでは、理性が保てなくなる。
「触らないでください!」
俺は蓮の手を、力いっぱい振り払っていた。
蓮は驚いたように目を見開いている。彼の優しい瞳を、俺は酷い形で裏切ってしまった。
「すみません……今日は、もう、帰ってください」
声が震える。彼をこれ以上、ここにいさせてはいけない。俺が、俺でなくなってしまう前に。
「藍沢さん、一体……」
「お願いです、帰って!」
ほとんど叫ぶような声だった。
蓮は、何か言いたそうに唇を開きかけたが、結局、何も言わずに黙って店を出ていった。
ドアが閉まる音を聞きながら、俺はその場に崩れ落ちた。
「はっ……はぁ……っ」
呼吸が荒くなる。身体の内側から、業火に焼かれるような熱が込み上げてくる。
なんで、今なんだ。
よりにもよって、彼の前で。
俺は震える手で、バックヤードに置いてある鞄を探った。中には、緊急用の、特に強力な抑制剤が入っている。もう何年も使っていない、最後の切り札だ。
シートを破り、錠剤を口に放り込む。水もないまま、無理やり嚥下した。
薬が効くまで、どれくらいかかるだろう。
床に蹲り、自分の身体を抱きしめる。
蓮を傷つけてしまった。彼の優しさを、踏みにじってしまった。
自己嫌悪で涙が滲む。
身体が刻む不協和音は、俺の心をもバラバラに引き裂いていくようだった。
蓮の悲しそうな顔が、瞼の裏に焼き付いて離れない。
もう、彼はここに来てくれないかもしれない。
そう思うと、身体の熱よりも、心の凍えるような寒さの方が、ずっと辛かった。
彼が店に来ると、自然と顔がほころぶようになった。彼と話す時間は、一日のうちで何よりの楽しみになっていた。
アルファへの恐怖が消えたわけではない。灰都にされたことの傷が癒えたわけでもない。でも、蓮だけは違う。そう思いたかった。
心の変化とは裏腹に、身体は奇妙な悲鳴を上げ始めていた。
長年、強力な抑制剤を服用し続けたせいだろう。周期が完全に狂ってしまっていた。本来なら、とっくにヒートが来ていてもおかしくない時期なのに、その兆候は一向に現れない。
その代わり、微熱や頭痛、原因不明の倦怠感が続くようになった。
『身体が、薬に慣れきってしまってるんだ』
無理やり自然の摂理を捻じ曲げてきたツケが、今になって回ってきている。
専門の医者に行くべきなのは分かっていたが、怖かった。オメガであることを改めて突きつけられるのが。そして、まともな身体ではないと診断されるのが。
その日、俺は朝から酷いめまいに悩まされていた。視界がぐにゃりと歪み、まっすぐ立っているのさえ辛い。それでも、店を開けないわけにはいかなかった。
「藍沢さん、顔色が……」
閉店間際にやってきた蓮は、カウンターに凭れかかる俺を見て、すぐに駆け寄ってきた。
「大丈夫です。いつものことなので」
「いつものこと、で済ませていい問題じゃないだろう」
彼の声には、鋭い非難の色が滲んでいた。こんなに強い口調の彼は初めて見る。
「病院には行ったのか」
「……行っていません」
「なぜだ」
答えられなかった。本当の理由なんて、彼に言えるはずがない。
俺が黙っていると、蓮は深いため息をついた。
「すまない、責めているわけじゃないんだ。ただ、心配で……」
彼はそう言うと、俺の額にそっと手を当てた。ひんやりとした大きな手が、熱っぽい肌に心地いい。
その瞬間だった。
くらり、と世界が揺れた。
蓮の指先から、彼のフェロモンが流れ込んでくるような錯覚。深い森の香りだ。いつもは心を落ち着かせてくれるその香りが、今日に限っては、俺の身体の奥底に眠っていた何かを、暴力的に揺り起こした。
「……っ!」
腹の底から、熱いものがせり上がってくる。身体中の血液が沸騰するような、抗いがたい衝動。
これは、ヒートの前兆だ。
今まで薬で押さえつけてきた本能が、蓮のフェロモンに触発されて、無理やり目を覚まそうとしている。
「藍沢さん?」
心配そうに俺をのぞき込む蓮の顔が、やけに艶めかしく見えた。彼の唇、首筋、その全てが俺を誘っているように感じる。
まずい。このままでは、理性が保てなくなる。
「触らないでください!」
俺は蓮の手を、力いっぱい振り払っていた。
蓮は驚いたように目を見開いている。彼の優しい瞳を、俺は酷い形で裏切ってしまった。
「すみません……今日は、もう、帰ってください」
声が震える。彼をこれ以上、ここにいさせてはいけない。俺が、俺でなくなってしまう前に。
「藍沢さん、一体……」
「お願いです、帰って!」
ほとんど叫ぶような声だった。
蓮は、何か言いたそうに唇を開きかけたが、結局、何も言わずに黙って店を出ていった。
ドアが閉まる音を聞きながら、俺はその場に崩れ落ちた。
「はっ……はぁ……っ」
呼吸が荒くなる。身体の内側から、業火に焼かれるような熱が込み上げてくる。
なんで、今なんだ。
よりにもよって、彼の前で。
俺は震える手で、バックヤードに置いてある鞄を探った。中には、緊急用の、特に強力な抑制剤が入っている。もう何年も使っていない、最後の切り札だ。
シートを破り、錠剤を口に放り込む。水もないまま、無理やり嚥下した。
薬が効くまで、どれくらいかかるだろう。
床に蹲り、自分の身体を抱きしめる。
蓮を傷つけてしまった。彼の優しさを、踏みにじってしまった。
自己嫌悪で涙が滲む。
身体が刻む不協和音は、俺の心をもバラバラに引き裂いていくようだった。
蓮の悲しそうな顔が、瞼の裏に焼き付いて離れない。
もう、彼はここに来てくれないかもしれない。
そう思うと、身体の熱よりも、心の凍えるような寒さの方が、ずっと辛かった。
13
あなたにおすすめの小説
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
愛していました。待っていました。でもさようなら。
彩柚月
ファンタジー
魔の森を挟んだ先の大きい街に出稼ぎに行った夫。待てども待てども帰らない夫を探しに妻は魔の森に脚を踏み入れた。
やっと辿り着いた先で見たあなたは、幸せそうでした。
【完結】あなたに知られたくなかった
ここ
ファンタジー
セレナの幸せな生活はあっという間に消え去った。新しい継母と異母妹によって。
5歳まで令嬢として生きてきたセレナは6歳の今は、小さな手足で必死に下女見習いをしている。もう自分が令嬢だということは忘れていた。
そんなセレナに起きた奇跡とは?
冷遇妃マリアベルの監視報告書
Mag_Mel
ファンタジー
シルフィード王国に敗戦国ソラリから献上されたのは、"太陽の姫"と讃えられた妹ではなく、悪女と噂される姉、マリアベル。
第一王子の四番目の妃として迎えられた彼女は、王宮の片隅に追いやられ、嘲笑と陰湿な仕打ちに晒され続けていた。
そんな折、「王家の影」は第三王子セドリックよりマリアベルの監視業務を命じられる。年若い影が記す報告書には、ただ静かに耐え続け、死を待つかのように振舞うひとりの女の姿があった。
王位継承争いと策謀が渦巻く王宮で、冷遇妃の運命は思わぬ方向へと狂い始める――。
(小説家になろう様にも投稿しています)
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
【完結】精霊に選ばれなかった私は…
まりぃべる
ファンタジー
ここダロックフェイ国では、5歳になると精霊の森へ行く。精霊に選んでもらえれば、将来有望だ。
しかし、キャロル=マフェソン辺境伯爵令嬢は、精霊に選んでもらえなかった。
選ばれた者は、王立学院で将来国の為になるべく通う。
選ばれなかった者は、教会の学校で一般教養を学ぶ。
貴族なら、より高い地位を狙うのがステータスであるが…?
☆世界観は、緩いですのでそこのところご理解のうえ、お読み下さるとありがたいです。
(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」
音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。
本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。
しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。
*6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる