真空ベータの最強執事は辞職したい~フェロモン無効体質でアルファの王子様たちの精神安定剤になってしまった結果、執着溺愛されています~

水凪しおん

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第3話「猛獣使いの才能」

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 王城の裏手にある訓練場は、もっぱら第二王子レオナルドの縄張りだ。
 そこは芝生がめくれ上がり、岩が砕け、訓練用の人形が無残な姿をさらしている場所である。
 レオナルドは「戦場の赤い獅子」と渾名される武闘派で、身体能力もフェロモンの出力も規格外だ。彼が本気で剣を振るえば、その興奮に伴って放たれる攻撃的なフェロモンで、弱い兵士なら気絶してしまう。

「おい! 次はどいつだ! かかってこい!」
 上半身裸で、汗に濡れた筋肉を誇示するようにレオナルドが吠えた。
 その赤銅色の髪が、燃える炎のように逆立っている。
 周囲の騎士たちは青息吐息で、地面に這いつくばっていた。誰も彼に近づけない。近寄るだけで本能的な恐怖に支配されるからだ。

「……困りましたね」
 俺はタオルの山と水の入ったピッチャーをトレイに乗せ、戦場の跡地のような訓練場に足を踏み入れた。
 メイド長から「誰も行きたがらないから」と泣きつかれたのだ。
 俺が歩くと、騎士たちが「おい、やめろ、死ぬぞ」「正気か?」と小声で囁いてくる。
 だが、俺にはレオナルドの咆哮も、ただの大声にしか聞こえない。

「レオナルド殿下」
 俺は彼の背後、剣の間合いギリギリまで近づいて声をかけた。
 瞬間、レオナルドが振り返り、木剣が俺の鼻先数センチで止まる。
 風圧で前髪が揺れた。

「……あ?」
 獣の瞳だ。金色の瞳孔が細まり、俺を獲物として見定めている。
 普通なら腰を抜かす場面だろう。
 しかし俺は表情一つ変えず、目の前の木剣を指先でそっと押しのけた。
「危ないですよ、殿下。それと、汗をお拭きください。風邪をひかれます」
 差し出された純白のタオル。
 レオナルドは狐につままれたような顔で、俺とタオルを交互に見た。

「お前……怖くねぇのか?」
「何がでしょう。剣なら止めてくださると信じておりましたので」
 嘘ではない。彼は野蛮だが、無益な殺生はしないタイプだ。
「そうじゃなくて……俺の、この圧だよ。周りを見てみろ。全員伸びてんだぞ」
「私は鼻炎気味ですので」
 適当な嘘をついて、俺は彼の手に無理やりタオルを握らせた。
 そして、コップに冷たい水を注ぐ。

 レオナルドはタオルで乱暴に顔を拭くと、俺に顔を近づけてきた。
 スンスン、と鼻を鳴らす。
「……なんだ、お前」
 彼は俺の首筋に鼻先を押し付け、匂いを嗅ぎ始めた。
 大型犬か、この人は。
「変な匂いがする」
「失礼な。無臭のはずです」
「いや、匂いはねぇんだけど……なんていうか、ひんやりする。雨上がりの森みたいな、すげぇ静かな……」
 レオナルドの瞳から、殺気と興奮の色が急速に引いていく。
 高揚していた筋肉の緊張が解け、彼の体全体が弛緩していくのが分かった。

「……すげぇ、落ち着く」
 ドサッ、という音と共に、レオナルドが俺の肩に体重を預けてきた。
 筋肉の塊のような巨体だ。重いなんてものではない。
「殿下、重いです。離れてください」
「やだ。動くな。……なんか、お前の近くにいると、頭の中の火が消えるみてぇだ」
 彼はそのままズルズルと座り込み、俺の腰にしがみついたまま目を閉じた。
 周囲の騎士たちが、顎が外れそうなほど口を開けて見ている。あの暴君レオナルドが、一介の執事に懐いている光景は、歴史的事件に見えるだろう。

「おい、名前」
「ルシアンです」
「ルシアン。お前、俺付きになれ。今すぐだ」
「私は王城全体の管理係ですので、専属にはなれません」
「あぁ? 兄貴の許可なら俺がもぎ取ってやる」
 レオナルドは俺の腰を抱きしめる腕に力を込めた。
 骨がきしむ音がする。
 どうやら、こっちの王子にもロックオンされたらしい。
 俺は遠くの空を見上げた。今日はいい天気だ。
 俺の平穏なモブライフは、どこへ行ってしまったのだろうか。
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