真空ベータの最強執事は辞職したい~フェロモン無効体質でアルファの王子様たちの精神安定剤になってしまった結果、執着溺愛されています~

水凪しおん

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第4話「知謀家の誤算」

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 王城の図書室は、静寂を守るべき場所だ。
 だが、その一角にある特別閲覧室だけは、常に張り詰めた緊張感に包まれていた。
 第三王子ウィリアムの領域である。
 彼は兄弟の中でも最も知的で、最も陰湿……いや、慎重な性格をしていた。
 常に策を巡らせ、情報を収集し、王国の行く末を案じている彼は、極度の不眠症を患っていた。神経が過敏になりすぎて、安らぐ暇がないのだ。

 俺は頼まれていた古文書を探し出し、閲覧室へと向かった。
「失礼します。ウィリアム殿下、ご所望の『南方の交易史』をお持ちしました」
 薄暗い室内。本の山に囲まれたデスクで、ウィリアムは眼鏡の奥の瞳を光らせた。
 目の下には濃いクマがある。彼の放つフェロモンは、ねっとりと湿度が高く、絡みつくような不快感を与えるらしい。
 らしい、というのは相変わらず俺には無関係だからだ。

「……遅い」
 ウィリアムは本を受け取らず、冷ややかな視線を俺に向けた。
「頼んでから十分が経過している。私の時間は貴重だ」
「書庫の整理が乱雑になっておりまして、検索に時間を要しました。申し訳ありません」
「言い訳は聞きたくない」
 彼は立ち上がり、ゆっくりと俺に近づいてきた。
 俺を壁際に追い詰める。
 ドン、と壁に手をつく「壁ドン」の体勢だが、そこにときめきは皆無だ。彼は俺を尋問しようとしている。

「お前、名をルシアンといったな」
「はい」
「最近、兄上たちが妙にお前に執着しているようだが……何をした?」
 疑り深い瞳が俺の顔を覗き込む。
「テオドール兄上の頭痛を消し、レオナルド兄上の暴走を止めた。ただのベータにできることではない。お前、どこの手の者だ?」
「ただの執事です」
「嘘をつくな」
 ウィリアムが顔を寄せてくる。
 俺の吐息がかかるほどの距離だ。彼は俺の反応をつぶさに観察しているのだろう。動揺、発汗、瞳孔の開き、それらから嘘を見抜こうとしている。

 だが、俺は真顔だ。
 やましいことは何もないし、彼のフェロモンも効かない。
 ウィリアムは不審そうに眉を寄せ、さらに顔を近づけ――そして、動きを止めた。

「……っ」
 彼のまぶたが、ピクリと震える。
 緊張で張り詰めていた糸が、プツンと切れたような音がした気がした。
 ウィリアムの体がふらつき、そのまま俺の胸にコテン、と額を預けてきた。

「で、殿下?」
「……なんだ、これは」
 ウィリアムの声は、夢遊病者のように微睡んでいた。
「眠い……。お前の匂いを嗅いだ瞬間、意識が泥の中に沈んでいくようだ……」
 彼の身体から力が抜け、俺が支えなければ床に崩れ落ちそうなほどだ。
 数日前まで三日三晩眠れないと嘆いていた男が、今は立ったまま寝息を立て始めている。

「まさか、これが兄上たちが言っていた……」
 ウィリアムは俺のベストの布地を弱々しく掴んだ。
「お前は……歩く睡眠薬か……」
「人聞きの悪いことを言わないでください」
「静かにしろ……このまま、あと三時間……いや、朝までこのままで……」
 完全に寝落ちした。
 俺は白目をむきそうになった。
 重い。
 男一人を支えて立ち続けるのは、執事の業務内容に含まれているのだろうか。

『あの……本はどうすれば?』
 心の中で問いかけるが、返ってくるのは規則正しい寝息だけだ。
 結局、俺は彼が起きるまでの数時間、文鎮の代わりとしてその場に立ち尽くす羽目になった。
 起きた後のウィリアムの執着が、他の二人以上に粘着質なものになることを、俺はまだ知らなかった。
 知性派は、一度「効く」と分かった薬を手放さないのだ。
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