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第1話「銀薔薇の公爵と路傍のハーブ」
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土と緑の匂いがする。それが僕が生まれた村の匂いだ。
王都アストリアから馬車で何日も揺られた先にある、地図にも載っていないような小さな村。そこで僕は薬草採りの仕事で日々の糧を得ながら、育ての親であるおばあさんと二人で静かに暮らしていた。
『リアム、お前は特別な子なんだよ。自分の力を決して人に見せてはいけないよ』
亡くなる前のおばあさんの言葉を、僕はいまもお守りのように胸に抱いている。
特別な力。それが何を指すのか僕にはよく分からない。ただ僕が祈りを込めて触れると、弱った草花が元気を取り戻したり、怪我をした小動物の治りが少しだけ早くなったりすることはあった。
そしてもう一つ。僕が『Ω(オメガ)』であることも、この村では誰にも知られていない秘密だった。
この世界には支配階級である『α(アルファ)』、大多数を占める凡庸な『β(ベータ)』、そしてごく稀に生まれ子を成すことができる男性である『Ω(オメガ)』という三つの性がある。オメガは希少な存在でありながら、定期的に訪れる発情期(ヒート)のせいで蔑まれることも少なくない。だからおばあさんは僕の素性がばれないよう、特殊な薬草で作った匂い消しの香油を毎日僕に塗ってくれていた。
その日も僕はいつものように森へ薬草を採りに出かけていた。瑞々しい香りのする癒やし草を籠いっぱいに摘み、村への道を急いでいたときだった。
地響きとともに土煙が上がる。道の先から現れたのは、見たこともないほど立派な馬が引く豪華絢爛な馬車の行列だった。先導する騎士たちの鎧は陽の光を反射してきらきらと輝いている。
こんな田舎道で貴族の行列なんて。僕は慌てて道の端に寄り、深く頭を下げた。貴族様に関わるとろくなことがない。それが平民の常識だ。
やり過ごせるはずだった。でも運命のいたずらなのか、行列が僕の真横を通り過ぎようとした瞬間、先頭を走っていた馬の一頭が突然いななき暴れ出したのだ。
「うわっ!」
驚いた僕の手から薬草の入った籠が滑り落ちる。地面に散らばる癒やし草。そのうちの一本が暴れる馬の蹄に踏みつけられてしまった。
まずい、と思った時にはもう遅かった。
行列がぴたりと止まり、騎士の一人が鋭い視線で僕を射抜いた。
「平民風情が、公爵閣下の御前を汚すとは何事だ!」
公爵、閣下?
その言葉に僕の心臓は氷水で冷やされたように凍りつく。この国で『公爵』と呼ばれるほどの高位貴族は数えるほどしかいない。そしてこんな辺境の地まで足を運ぶ物好きとなると、一人しか思い浮かばなかった。
『銀薔薇の公爵』アシュレイ・フォン・ヴァインベルク。
銀の髪に夜空を閉じ込めたような瞳を持つ、この世のものとは思えないほど美しいアルファ。しかしその性格は冷酷無比で、逆らう者は容赦なく切り捨てる氷の貴公子。そんな恐ろしい噂だけが遠い村にまで届いていた。
「申し訳ありません……!」
僕は震える声で謝りながら、散らばった薬草を拾い集めようとした。その時、凛とした、けれどどこか温度のない声が頭上から降ってきた。
「待て」
顔を上げると、馬車の中から一人の青年が降りてくるところだった。
陽の光を浴びて輝くプラチナブロンドに近い銀髪。寸分の隙もなく仕立てられた黒の軍服風の上着。そして噂に違わぬ、人形のように整った顔立ち。
アシュレイ公爵、その人だった。
彼の紫水晶のような瞳が僕を――いや、僕が落とした薬草をじっと見つめている。その視線はあまりに冷ややかで、僕は蛇に睨まれた蛙のように動けなくなった。
『どうしよう、殺されるかもしれない』
貴族の機嫌を損ねれば平民の命など塵芥同然だ。
恐怖で頭が真っ白になる僕を無視して、アシュレイ公爵はゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。一歩また一歩と彼が近づくたびに、周囲の空気が張り詰めていくのを感じた。そして僕の目の前で足を止めると、彼は端麗な顔をわずかにしかめた。
「……何の匂いだ」
匂い?
毎日欠かさず塗っているオメガのフェロモンを隠すための香油のことだろうか。知られてしまったらどうなるか分からない。
僕が恐怖で黙り込んでいると、公爵は焦れたように舌打ちをした。
「そうではない。この……甘い、香りだ」
甘い香り?
僕が首をかしげると、彼は屈み込み、馬に踏みつけられた癒やし草を拾い上げた。潰れた茎から青々とした汁が滲み出ている。
まさか、この薬草の香りのこと?
それは僕が特別な祈りを込めて育てた、ただの癒やし草とは少し違うものだった。僕の持つ『浄化』の力がわずかに宿っている。
「この草……いや、この草から発せられる気配。これは……」
アシュレイ公爵は薬草を鼻先に近づけ、目を細めた。その瞬間、彼の周りに渦巻いていた威圧感がふっと和らいだ気がした。まるで張り詰めていた糸が少しだけ緩んだようだ。
彼は驚いたように目を見開き、今度は僕の顔をまじまじと見つめた。
「お前、何者だ」
「へ……? あ、いえ、僕はただの、村の薬草採りで……」
しどろもどろに答える僕を、公爵は意に介さず言葉を続ける。
「この草をお前が? 育てたのか?」
「は、はい。僕が種から……」
その言葉を聞いたアシュレイ公爵の紫水晶の瞳が、初めて強い光を宿した。それは興味か、あるいは何か別の、もっと飢えたような光だった。
彼は立ち上がると、有無を言わせぬ口調で騎士たちに命じた。
「この者を捕らえろ。屋敷に連れ帰る」
「えっ!?」
あまりに突然の命令に僕は素っ頓狂な声を上げた。騎士たちも一瞬戸惑いの表情を見せたが、主人の命令は絶対だ。すぐに二人の騎士が僕の両腕を掴んだ。
「な、なんでですか!? 僕は何も悪いことなんて……!」
「黙れ。お前は俺の『道具』として役に立つ可能性がある。それだけで十分だ」
道具。
その一言が僕の胸に冷たく突き刺さった。
抵抗しようにも屈強な騎士の力には到底かなわない。僕はなすすべもなく馬車へと引きずられていった。
遠ざかっていく見慣れた森の景色。僕が生まれ育った、あの小さな家。
これから僕の身に何が起こるのだろう。
豪華な馬車の扉が閉まる直前、僕は最後にアシュレイ公爵の顔を見た。彼は相変わらず無表情だったけれど、その瞳の奥にほんの一瞬だけ、長い間探し求めていた何かを見つけたような、そんな安堵にも似た色が浮かんだように見えた。
王都アストリアから馬車で何日も揺られた先にある、地図にも載っていないような小さな村。そこで僕は薬草採りの仕事で日々の糧を得ながら、育ての親であるおばあさんと二人で静かに暮らしていた。
『リアム、お前は特別な子なんだよ。自分の力を決して人に見せてはいけないよ』
亡くなる前のおばあさんの言葉を、僕はいまもお守りのように胸に抱いている。
特別な力。それが何を指すのか僕にはよく分からない。ただ僕が祈りを込めて触れると、弱った草花が元気を取り戻したり、怪我をした小動物の治りが少しだけ早くなったりすることはあった。
そしてもう一つ。僕が『Ω(オメガ)』であることも、この村では誰にも知られていない秘密だった。
この世界には支配階級である『α(アルファ)』、大多数を占める凡庸な『β(ベータ)』、そしてごく稀に生まれ子を成すことができる男性である『Ω(オメガ)』という三つの性がある。オメガは希少な存在でありながら、定期的に訪れる発情期(ヒート)のせいで蔑まれることも少なくない。だからおばあさんは僕の素性がばれないよう、特殊な薬草で作った匂い消しの香油を毎日僕に塗ってくれていた。
その日も僕はいつものように森へ薬草を採りに出かけていた。瑞々しい香りのする癒やし草を籠いっぱいに摘み、村への道を急いでいたときだった。
地響きとともに土煙が上がる。道の先から現れたのは、見たこともないほど立派な馬が引く豪華絢爛な馬車の行列だった。先導する騎士たちの鎧は陽の光を反射してきらきらと輝いている。
こんな田舎道で貴族の行列なんて。僕は慌てて道の端に寄り、深く頭を下げた。貴族様に関わるとろくなことがない。それが平民の常識だ。
やり過ごせるはずだった。でも運命のいたずらなのか、行列が僕の真横を通り過ぎようとした瞬間、先頭を走っていた馬の一頭が突然いななき暴れ出したのだ。
「うわっ!」
驚いた僕の手から薬草の入った籠が滑り落ちる。地面に散らばる癒やし草。そのうちの一本が暴れる馬の蹄に踏みつけられてしまった。
まずい、と思った時にはもう遅かった。
行列がぴたりと止まり、騎士の一人が鋭い視線で僕を射抜いた。
「平民風情が、公爵閣下の御前を汚すとは何事だ!」
公爵、閣下?
その言葉に僕の心臓は氷水で冷やされたように凍りつく。この国で『公爵』と呼ばれるほどの高位貴族は数えるほどしかいない。そしてこんな辺境の地まで足を運ぶ物好きとなると、一人しか思い浮かばなかった。
『銀薔薇の公爵』アシュレイ・フォン・ヴァインベルク。
銀の髪に夜空を閉じ込めたような瞳を持つ、この世のものとは思えないほど美しいアルファ。しかしその性格は冷酷無比で、逆らう者は容赦なく切り捨てる氷の貴公子。そんな恐ろしい噂だけが遠い村にまで届いていた。
「申し訳ありません……!」
僕は震える声で謝りながら、散らばった薬草を拾い集めようとした。その時、凛とした、けれどどこか温度のない声が頭上から降ってきた。
「待て」
顔を上げると、馬車の中から一人の青年が降りてくるところだった。
陽の光を浴びて輝くプラチナブロンドに近い銀髪。寸分の隙もなく仕立てられた黒の軍服風の上着。そして噂に違わぬ、人形のように整った顔立ち。
アシュレイ公爵、その人だった。
彼の紫水晶のような瞳が僕を――いや、僕が落とした薬草をじっと見つめている。その視線はあまりに冷ややかで、僕は蛇に睨まれた蛙のように動けなくなった。
『どうしよう、殺されるかもしれない』
貴族の機嫌を損ねれば平民の命など塵芥同然だ。
恐怖で頭が真っ白になる僕を無視して、アシュレイ公爵はゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。一歩また一歩と彼が近づくたびに、周囲の空気が張り詰めていくのを感じた。そして僕の目の前で足を止めると、彼は端麗な顔をわずかにしかめた。
「……何の匂いだ」
匂い?
毎日欠かさず塗っているオメガのフェロモンを隠すための香油のことだろうか。知られてしまったらどうなるか分からない。
僕が恐怖で黙り込んでいると、公爵は焦れたように舌打ちをした。
「そうではない。この……甘い、香りだ」
甘い香り?
僕が首をかしげると、彼は屈み込み、馬に踏みつけられた癒やし草を拾い上げた。潰れた茎から青々とした汁が滲み出ている。
まさか、この薬草の香りのこと?
それは僕が特別な祈りを込めて育てた、ただの癒やし草とは少し違うものだった。僕の持つ『浄化』の力がわずかに宿っている。
「この草……いや、この草から発せられる気配。これは……」
アシュレイ公爵は薬草を鼻先に近づけ、目を細めた。その瞬間、彼の周りに渦巻いていた威圧感がふっと和らいだ気がした。まるで張り詰めていた糸が少しだけ緩んだようだ。
彼は驚いたように目を見開き、今度は僕の顔をまじまじと見つめた。
「お前、何者だ」
「へ……? あ、いえ、僕はただの、村の薬草採りで……」
しどろもどろに答える僕を、公爵は意に介さず言葉を続ける。
「この草をお前が? 育てたのか?」
「は、はい。僕が種から……」
その言葉を聞いたアシュレイ公爵の紫水晶の瞳が、初めて強い光を宿した。それは興味か、あるいは何か別の、もっと飢えたような光だった。
彼は立ち上がると、有無を言わせぬ口調で騎士たちに命じた。
「この者を捕らえろ。屋敷に連れ帰る」
「えっ!?」
あまりに突然の命令に僕は素っ頓狂な声を上げた。騎士たちも一瞬戸惑いの表情を見せたが、主人の命令は絶対だ。すぐに二人の騎士が僕の両腕を掴んだ。
「な、なんでですか!? 僕は何も悪いことなんて……!」
「黙れ。お前は俺の『道具』として役に立つ可能性がある。それだけで十分だ」
道具。
その一言が僕の胸に冷たく突き刺さった。
抵抗しようにも屈強な騎士の力には到底かなわない。僕はなすすべもなく馬車へと引きずられていった。
遠ざかっていく見慣れた森の景色。僕が生まれ育った、あの小さな家。
これから僕の身に何が起こるのだろう。
豪華な馬車の扉が閉まる直前、僕は最後にアシュレイ公爵の顔を見た。彼は相変わらず無表情だったけれど、その瞳の奥にほんの一瞬だけ、長い間探し求めていた何かを見つけたような、そんな安堵にも似た色が浮かんだように見えた。
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