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第2話「氷の公爵邸と囚われの小鳥」
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豪華な馬車に揺られ、僕は生まれて初めて王都アストリアへと足を踏み入れた。
村の石畳とは比べ物にならないほど整備された道。見たこともないほど高く美しい建物が立ち並び、行き交う人々は皆きらびやかな服を身にまとっている。何もかもが僕の知っている世界とは違っていた。
しかし、そんな華やかな景色を楽しむ余裕は僕にはなかった。
『道具として役に立つ可能性がある』
アシュレイ公爵が言った言葉が頭の中で何度も繰り返される。
これから僕は一体どうなってしまうんだろう。不安と恐怖で心臓が今にも張り裂けそうだった。
馬車は王都の中でもひときわ壮麗な建物が並ぶ貴族街へと入り、やがて巨大な鉄門の前で止まった。門の上には絡み合う銀の薔薇をかたどった見事な紋章が掲げられている。ヴァインベルク公爵家の紋章だ。
門が開かれ馬車は広い庭園を抜けて、まるでお城のような屋敷の正面玄関へと着いた。
馬車から降ろされた僕を待っていたのは、白髪を綺麗に撫でつけた初老の執事だった。彼は僕の汚れた服装を見て一瞬眉をひそめたが、すぐに穏やかな表情で深々とお辞儀をした。
「アシュレイ様、お帰りなさいませ。長旅お疲れ様でございました」
「ああ、ギルバートか。客人を連れてきた。部屋を用意しろ」
アシュレイ公爵は僕を『客人』と言ったが、その声音にもてなす相手への敬意など微塵も感じられない。
ギルバートと呼ばれた執事は僕を値踏みするように一瞥し、静かにうなずいた。
「かしこまりました。……それで、こちらの方は?」
「俺の新しい『所有物』だ」
所有物。
『道具』の次は『所有物』。あまりな言われように、僕は唇をきつく噛みしめた。反論したいが、この状況で公爵様に逆らえばどうなるか分からない。
悔しさに俯く僕を見て、アシュレイ公爵はつまらなそうに鼻を鳴らした。
「まずは身綺麗にさせろ。汚くて見ていられん」
その言葉を最後に、彼はさっさと屋敷の奥へと消えていった。残されたのは僕とギルバートさん、そして数人の使用人たちだけだった。
気まずい沈黙が流れる。
「……さあ、こちらへ。お風呂の用意をさせます。お名前は?」
最初に口を開いたのはギルバートさんだった。彼の口調は丁寧だが、どこか事務的だ。僕を人間として見ているというより、主人が拾ってきた面倒な荷物を片付けるといった雰囲気だった。
「……リアム、です」
「リアム様ですね。私は執事のギルバートと申します。以後、お見知りおきを」
僕はギルバートさんに連れられて、目が眩むほど広いお風呂場へと案内された。湯船は村の共同浴場よりも大きく、壁には綺麗な絵まで描かれている。
数人のメイドさんたちに囲まれ、僕は戸惑いながらも服を脱がされ丁寧に体を洗われた。彼女たちは僕がオメガであることに気づいたかもしれないが、何も言わずに黙々と仕事をこなしている。きっと公爵様から何か言われているのだろう。
お風呂から上がると、ふかふかの新しい服が用意されていた。村で着ていた粗末な麻の服とは比べ物にならない、滑らかな手触りのシャツとズボンだ。
身も心も少しだけさっぱりした僕は、ギルバートさんに案内されて一つの部屋へと通された。
「ここが本日よりリアム様のお部屋となります」
そこは僕が住んでいた家が丸ごと入ってしまいそうなほど広くて豪華な部屋だった。大きな天蓋付きのベッドに柔らかな絨毯、窓には美しい刺繍の施されたカーテンがかかっている。
呆然と立ち尽くす僕に、ギルバートさんは淡々と説明を続けた。
「アシュレイ様からのご命令です。許可なくこの部屋から出ることは許されません。食事は時間になれば運びます。何か御用があれば、そこの呼び鈴を」
壁に取り付けられた小さな鈴を指さし、ギルバートさんは言った。それはつまり僕がここに軟禁されることを意味していた。
やっぱり、僕は囚われの身なんだ。
ギルバートさんが部屋から出て行き、扉にカチャンと鍵がかかる音がした。
広い部屋に一人きり。しんと静まり返った空間で、急に心細さがこみ上げてくる。村に残してきた、たった一つの僕の家。もうあそこへは帰れないのかもしれない。
涙がこぼれそうになるのをぐっとこらえた。泣いたって何も変わらない。
僕は窓辺に駆け寄り外の景色を眺めた。窓の外には手入れの行き届いた美しい庭園が広がっている。色とりどりの花が咲き誇り、中央には綺麗な噴水まであった。
だけどその庭は高い塀に囲まれていて、ここが『籠の中』であることを僕に突きつけてくる。
その日の夜、夕食が運ばれてきた。テーブルに並べられたのは見たこともない豪華な料理の数々。でも僕にはそれを食べる気力もなかった。
ぼんやりと椅子に座っていると、不意に扉が開く音がした。入ってきたのはアシュレイ公爵その人だった。
彼は部屋着なのだろう、昼間の堅苦しい服ではなくゆったりとしたシルクのシャツを身につけていた。そのせいか少しだけ印象が柔らかく見える。
「……なぜ食べない」
低く静かな声で彼が尋ねる。僕はびくりと肩を震わせ、俯いたまま答えた。
「……食欲が、ありません」
「そうか。だが死なれては困る。お前にはまだ利用価値があるんだ」
相変わらずの言い草に、僕の中で何かがぷつりと切れた。
気づけば僕は椅子から立ち上がり、彼をまっすぐに見据えていた。
「どうして僕なんですか! 僕はただ、村で静かに暮らしたかっただけなのに……!」
「お前のあの力が必要だからだ。それ以外の理由はない」
アシュレイ公爵は表情一つ変えずに答える。そのあまりの温度のなさに僕は言葉を失った。この人にとって僕は本当にただの『物』でしかないんだ。
悔しくて悲しくて唇を噛む僕に、彼は一歩近づいた。ふわりと彼のアルファとしてのフェロモンが香る。それは冷たい冬の夜に咲く薔薇のような、孤高で甘美な香りだった。
オメガの本能がその香りに抗いがたく惹きつけられる。だけどそれ以上に、僕の心は彼の冷たさに凍えていた。
「俺は……長年、己の魔力の暴走に苦しめられてきた」
唐突に彼がそんなことを口にした。
彼の紫水晶の瞳には、深い苦悩の色が滲んでいる。
「どんな優秀な治癒師も、どんな高価な魔法薬も効果はなかった。だがお前が育てたあの薬草に触れた時……ほんの少しだけ、この苦痛が和らいだ」
彼はそう言うと僕の前に手を差し出した。白く長い指。その手が僕の頬に触れようとした瞬間、僕は思わず身を引いてしまった。
彼の動きがぴたりと止まる。紫水晶の瞳が驚いたように僕を見つめていた。今まで彼にこんな風に逆らう人間はいなかったのだろう。
「……触らないでください」
震える声で僕は言った。
「僕は、あなたの道具でも所有物でもありません……!」
精一杯の抵抗だった。
アシュレイ公爵はしばらく黙って僕を見つめていたが、やがてゆっくりと手を下ろした。そして何も言わずに踵を返し、部屋から出て行ってしまった。
一人残された部屋で、僕はその場にへなへなと座り込んだ。心臓が早鐘のように鳴っている。
怖かった。でも言わなければいけないと思った。
僕はただのオメガじゃない。リアムという一人の人間なんだと。
その夜、僕はほとんど眠ることができなかった。アシュレイ公爵の瞳に宿っていた、深い孤独の色を思い出しながら。
村の石畳とは比べ物にならないほど整備された道。見たこともないほど高く美しい建物が立ち並び、行き交う人々は皆きらびやかな服を身にまとっている。何もかもが僕の知っている世界とは違っていた。
しかし、そんな華やかな景色を楽しむ余裕は僕にはなかった。
『道具として役に立つ可能性がある』
アシュレイ公爵が言った言葉が頭の中で何度も繰り返される。
これから僕は一体どうなってしまうんだろう。不安と恐怖で心臓が今にも張り裂けそうだった。
馬車は王都の中でもひときわ壮麗な建物が並ぶ貴族街へと入り、やがて巨大な鉄門の前で止まった。門の上には絡み合う銀の薔薇をかたどった見事な紋章が掲げられている。ヴァインベルク公爵家の紋章だ。
門が開かれ馬車は広い庭園を抜けて、まるでお城のような屋敷の正面玄関へと着いた。
馬車から降ろされた僕を待っていたのは、白髪を綺麗に撫でつけた初老の執事だった。彼は僕の汚れた服装を見て一瞬眉をひそめたが、すぐに穏やかな表情で深々とお辞儀をした。
「アシュレイ様、お帰りなさいませ。長旅お疲れ様でございました」
「ああ、ギルバートか。客人を連れてきた。部屋を用意しろ」
アシュレイ公爵は僕を『客人』と言ったが、その声音にもてなす相手への敬意など微塵も感じられない。
ギルバートと呼ばれた執事は僕を値踏みするように一瞥し、静かにうなずいた。
「かしこまりました。……それで、こちらの方は?」
「俺の新しい『所有物』だ」
所有物。
『道具』の次は『所有物』。あまりな言われように、僕は唇をきつく噛みしめた。反論したいが、この状況で公爵様に逆らえばどうなるか分からない。
悔しさに俯く僕を見て、アシュレイ公爵はつまらなそうに鼻を鳴らした。
「まずは身綺麗にさせろ。汚くて見ていられん」
その言葉を最後に、彼はさっさと屋敷の奥へと消えていった。残されたのは僕とギルバートさん、そして数人の使用人たちだけだった。
気まずい沈黙が流れる。
「……さあ、こちらへ。お風呂の用意をさせます。お名前は?」
最初に口を開いたのはギルバートさんだった。彼の口調は丁寧だが、どこか事務的だ。僕を人間として見ているというより、主人が拾ってきた面倒な荷物を片付けるといった雰囲気だった。
「……リアム、です」
「リアム様ですね。私は執事のギルバートと申します。以後、お見知りおきを」
僕はギルバートさんに連れられて、目が眩むほど広いお風呂場へと案内された。湯船は村の共同浴場よりも大きく、壁には綺麗な絵まで描かれている。
数人のメイドさんたちに囲まれ、僕は戸惑いながらも服を脱がされ丁寧に体を洗われた。彼女たちは僕がオメガであることに気づいたかもしれないが、何も言わずに黙々と仕事をこなしている。きっと公爵様から何か言われているのだろう。
お風呂から上がると、ふかふかの新しい服が用意されていた。村で着ていた粗末な麻の服とは比べ物にならない、滑らかな手触りのシャツとズボンだ。
身も心も少しだけさっぱりした僕は、ギルバートさんに案内されて一つの部屋へと通された。
「ここが本日よりリアム様のお部屋となります」
そこは僕が住んでいた家が丸ごと入ってしまいそうなほど広くて豪華な部屋だった。大きな天蓋付きのベッドに柔らかな絨毯、窓には美しい刺繍の施されたカーテンがかかっている。
呆然と立ち尽くす僕に、ギルバートさんは淡々と説明を続けた。
「アシュレイ様からのご命令です。許可なくこの部屋から出ることは許されません。食事は時間になれば運びます。何か御用があれば、そこの呼び鈴を」
壁に取り付けられた小さな鈴を指さし、ギルバートさんは言った。それはつまり僕がここに軟禁されることを意味していた。
やっぱり、僕は囚われの身なんだ。
ギルバートさんが部屋から出て行き、扉にカチャンと鍵がかかる音がした。
広い部屋に一人きり。しんと静まり返った空間で、急に心細さがこみ上げてくる。村に残してきた、たった一つの僕の家。もうあそこへは帰れないのかもしれない。
涙がこぼれそうになるのをぐっとこらえた。泣いたって何も変わらない。
僕は窓辺に駆け寄り外の景色を眺めた。窓の外には手入れの行き届いた美しい庭園が広がっている。色とりどりの花が咲き誇り、中央には綺麗な噴水まであった。
だけどその庭は高い塀に囲まれていて、ここが『籠の中』であることを僕に突きつけてくる。
その日の夜、夕食が運ばれてきた。テーブルに並べられたのは見たこともない豪華な料理の数々。でも僕にはそれを食べる気力もなかった。
ぼんやりと椅子に座っていると、不意に扉が開く音がした。入ってきたのはアシュレイ公爵その人だった。
彼は部屋着なのだろう、昼間の堅苦しい服ではなくゆったりとしたシルクのシャツを身につけていた。そのせいか少しだけ印象が柔らかく見える。
「……なぜ食べない」
低く静かな声で彼が尋ねる。僕はびくりと肩を震わせ、俯いたまま答えた。
「……食欲が、ありません」
「そうか。だが死なれては困る。お前にはまだ利用価値があるんだ」
相変わらずの言い草に、僕の中で何かがぷつりと切れた。
気づけば僕は椅子から立ち上がり、彼をまっすぐに見据えていた。
「どうして僕なんですか! 僕はただ、村で静かに暮らしたかっただけなのに……!」
「お前のあの力が必要だからだ。それ以外の理由はない」
アシュレイ公爵は表情一つ変えずに答える。そのあまりの温度のなさに僕は言葉を失った。この人にとって僕は本当にただの『物』でしかないんだ。
悔しくて悲しくて唇を噛む僕に、彼は一歩近づいた。ふわりと彼のアルファとしてのフェロモンが香る。それは冷たい冬の夜に咲く薔薇のような、孤高で甘美な香りだった。
オメガの本能がその香りに抗いがたく惹きつけられる。だけどそれ以上に、僕の心は彼の冷たさに凍えていた。
「俺は……長年、己の魔力の暴走に苦しめられてきた」
唐突に彼がそんなことを口にした。
彼の紫水晶の瞳には、深い苦悩の色が滲んでいる。
「どんな優秀な治癒師も、どんな高価な魔法薬も効果はなかった。だがお前が育てたあの薬草に触れた時……ほんの少しだけ、この苦痛が和らいだ」
彼はそう言うと僕の前に手を差し出した。白く長い指。その手が僕の頬に触れようとした瞬間、僕は思わず身を引いてしまった。
彼の動きがぴたりと止まる。紫水晶の瞳が驚いたように僕を見つめていた。今まで彼にこんな風に逆らう人間はいなかったのだろう。
「……触らないでください」
震える声で僕は言った。
「僕は、あなたの道具でも所有物でもありません……!」
精一杯の抵抗だった。
アシュレイ公爵はしばらく黙って僕を見つめていたが、やがてゆっくりと手を下ろした。そして何も言わずに踵を返し、部屋から出て行ってしまった。
一人残された部屋で、僕はその場にへなへなと座り込んだ。心臓が早鐘のように鳴っている。
怖かった。でも言わなければいけないと思った。
僕はただのオメガじゃない。リアムという一人の人間なんだと。
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