地味なβのふりをする僕。ある日助けたのは憧れのαだった。記憶を失った彼は僕にだけ懐き甘えてくるが、その瞳の奥には強すぎる独占欲が宿っていて…

水凪しおん

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第13話「空っぽの部屋と、残された温もり」

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 蓮の部屋を飛び出した僕は、健太のアパートに転がり込んだ。
 事情を話すと、健太は何も聞かずに僕を泊めてくれた。

「まあ、色々あんだろ。落ち着くまで、ここにいろよ」

 その優しさが、身に染みた。
 健太に借りたスウェットに着替え、客用の布団に横になる。けれど、眠れるはずもなかった。
 目を閉じれば、蓮のあの絶望に満ちた瞳が浮かんでくる。僕が吐き出した残酷な言葉。彼をどれだけ傷つけたかと思うと、胸が張り裂けそうだった。
 本当は、言いたかった。
 ずっとあなたに憧れていました、と。記憶を失ったあなたと過ごした日々は、本当に幸せでした、と。
 でも、もう遅い。僕の嘘が、すべてを壊してしまったのだ。

 翌日、大学には行けなかった。
 とてもじゃないが、蓮と顔を合わせる勇気がなかった。健太が僕の代わりに休学の手続きについて、学生課に聞きに行ってくれると言ってくれた。

「休学? おいおい、湊、早まるなよ」

「…もう、あの大学にはいられないよ。蓮に、どんな顔して会えばいいんだ」

「そりゃ、まあ、気まずいだろうけど…。でも、お前、このまま逃げるのか?」

 健太の言葉が、ぐさりと胸に刺さる。

「逃げるんじゃない。僕が、身を引くだけだ。それが、彼のためでもあるんだ」

 僕は自分に言い聞かせるように、そうつぶやいた。
 僕がいなくなれば、蓮はまた元の生活に戻れるはずだ。優秀で、家柄も良くて、周りにはたくさんの人がいる。僕のような嘘つきのオメガなんて、すぐに忘れてくれるに違いない。
 そう思うことが、唯一の救いだった。

 数日間、僕は健太のアパートに引きこもっていた。
 食事も喉を通らず、ただぼんやりと天井を眺めて過ごすだけの時間。体は鉛のように重く、何もする気が起きなかった。
 そんな僕の様子を見かねて、健太がある提案をしてきた。

「なあ、湊。このままじゃ、お前、ダメになるぞ。気分転換に、どこか行かないか?」

「どこかって…」

「ほら、お前、昔、じいちゃんちによく行ってたって言ってたろ。長野だっけ? しばらく、そこでのんびりしてみたらどうだ?」

 長野。
 その地名を聞いて、僕の心臓が、きゅっと縮こまった。
 そこは、僕と蓮が初めて出会った場所だ。
 行けるはずがない。思い出が多すぎて、きっと余計に辛くなるだけだ。

「…無理だよ。そこは…」

「辛い場所かもしれないけど、お前にとって大事な場所でもあるんだろ? 逃げてばっかじゃなくて、一回、ちゃんと向き合ってみろよ。自分の気持ちと」

 健太は、僕の肩を力強く叩いた。

「俺も、一緒に行ってやるからさ」

 健太の言葉に、僕は少しだけ心が動いた。
 このままこの狭い部屋で、過去の幻影に怯えながら生きていくのはもう嫌だった。
 自分の気持ちと、向き合う。
 僕が本当に望んでいることは何なのか。蓮から逃げることなのか、それとも…。

「…わかった。行ってみる」

 僕がそう言うと、健太は「よしきた!」と嬉しそうに笑った。

 週末、僕たちは高速バスに乗って長野にある祖父の家へと向かった。
 祖父は数年前に亡くなり今は空き家になっているが、近所の人が定期的に管理してくれているおかげで家はそれほど荒れてはいなかった。
 家の周りは、昔と何も変わらないのどかな田園風景が広がっている。
 深呼吸をすると、土と草の匂いが肺いっぱいに満ちていった。都会の喧騒から離れたこの場所は、僕のささくれだった心を少しだけ癒してくれるような気がした。

 家の掃除を済ませ、縁側で二人、お茶を飲む。

「いいとこだな、ここ。空気がうまい」

 健太が、気持ちよさそうに伸びをした。

「うん…」

 僕は遠くの山々を眺めながら、ぽつりとつぶやいた。

「あの山の向こうにね、ひまわり畑があるんだ。夏になると、一面、黄色い絨毯みたいになるんだよ」

「へえ。そりゃ、綺麗だろうな」

「…そこで、会ったんだ。彼と」

 僕の言葉に、健太は何も言わずただじっと耳を傾けてくれた。
 僕は健太にすべてを話した。
 自分がオメガであること。蓮と幼い頃に出会っていたこと。彼が記憶を失い、僕たちが同居していたこと。そして、記憶を取り戻した彼と決定的にすれ違ってしまったこと。
 健太は僕の話を、一度も遮ることなく最後まで真剣に聞いてくれた。

「…そうか。お前、そんなこと、一人で抱えてたのか」

 すべてを話し終えると、健太は大きなため息をついた。

「ごめん、黙ってて」

「謝んなよ。言えなかったんだろ。でもなあ、湊。お前の言い分も分かるけど、神楽坂の気持ちも、ちょっとは考えてやれよ」

「彼の、気持ち…?」

「ああ。ずっと探してた運命の相手が、自分のこと覚えてないどころか、ベータのふりして隠れてたんだぜ? そりゃ、ショックだろ。裏切られたって思っても、仕方ないんじゃねえか?」

 健太の言葉は、的を射ていた。
 僕は自分のことばかりで、蓮の気持ちを全く考えていなかった。
 彼が、どれだけ傷ついたか。どれだけ、絶望したか。

「お前が嘘をついたのは、あいつのためを思ってのことなんだろ? だったら、それをちゃんと話すべきだったんじゃないのか。逃げるんじゃなくてさ」

「…でも、もう、手遅れだよ。彼は、僕のこと、もう許してくれない」

「やってみなきゃ、分かんねえだろ!」

 健太が、声を荒げた。

「このまま、後悔したまま生きていくのか? それでいいのかよ、湊!」

 健太の言葉が、僕の胸に突き刺さる。
 後悔したまま、生きていく。
 それは、嫌だ。
 僕は蓮のことが、好きなんだ。
 たとえもう二度と、あの優しい笑顔が見られなくても。たとえ彼に拒絶されたとしても。
 この気持ちだけは、嘘じゃない。
 この想いを、ちゃんと彼に伝えなければいけない。
 それで、もしダメだったとしても。
 きっと、今よりは前に進めるはずだから。

「…ありがとう、健太」

 僕は顔を上げた。

「僕、帰るよ。東京に。そして、もう一度、彼に会いに行く」

 僕の瞳に再び小さな光が灯ったのを、健太は見逃さなかった。
 彼は、にっと笑って僕の背中を力強く叩いた。

「おう! その意気だ!」

 空っぽになったはずの僕の心に、蓮が残してくれた温もりがまだ微かに残っているのを感じた。
 その温もりを頼りに、僕はもう一度立ち上がろうと決めた。
 僕たちの物語を、こんな悲しい結末で終わらせてはいけない。
 そう、強く思った。
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