地味なβのふりをする僕。ある日助けたのは憧れのαだった。記憶を失った彼は僕にだけ懐き甘えてくるが、その瞳の奥には強すぎる独占欲が宿っていて…

水凪しおん

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第14話「決意の帰還、運命の足音」

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 長野から東京へ戻る高速バスの中、僕は窓の外を流れる景色を眺めながらずっと考えていた。
 蓮に会って、何を話せばいいのだろうか。
「ごめんなさい」とただ謝るだけでは、きっと何も伝わらない。僕がなぜ嘘をつかなければならなかったのか。彼をどれだけ大切に想っているか。自分の言葉で、正直にすべてを伝えなければいけない。
 それで彼が僕を許してくれなくても、仕方がない。それは僕が犯した過ちの、当然の報いなのだから。

 東京に着いたのは、夜になってからだった。
 健太は「俺は野暮用があるから」と、僕を一人にしてくれた。彼の、さりげない優しさだった。
 僕は一度、自分の古いアパートに戻った。荷解きもせずに、蓮との思い出が詰まった段ボール箱を置いただけの殺風景な部屋。
 シャワーを浴びて、着替える。鏡に映った自分の顔は数日前に比べて、少しだけ覚悟が決まった顔をしているように見えた。
 深呼吸を一つして、僕はアパートを出た。
 向かう先は一つしかない。
 僕たちが、短い間だったけれど共に暮らした、あのタワーマンションだ。

 マンションのエントランスに着いた時、僕は自分の体が微かに震えているのに気づいた。
 怖い。
 蓮に会うのが怖い。
 彼の冷たい瞳を、もう一度見るのが怖い。
 何度も引き返そうかと思った。だが、その度に健太の「このまま後悔したまま生きていくのか?」という言葉が、僕の背中を押してくれた。
 僕は意を決して、エントランスのオートロックのインターフォンを鳴らした。部屋の番号を押す指が、震える。
 数回のコールの後、スピーカーから聞き慣れた低い声が聞こえてきた。

『…誰だ』

「…僕だ。湊だ」

 僕が名乗ると、スピーカーの向こう側は長い沈黙に包まれた。
 もう切られてしまうかもしれない。そう思った時、小さな電子音と共にオートロックが解除された。
 彼は、僕に会ってくれるつもりらしい。
 僕は震える足でエレベーターに乗り込み、最上階へと向かった。

 部屋の前に立つ。
 心臓が今にも口から飛び出してきそうだ。
 僕はゆっくりと、ドアをノックした。
 数秒の間をおいて、ドアが静かに開かれた。
 そこに立っていたのは、数日ぶりに見る蓮だった。
 彼は以前よりも少し痩せたように見えた。無精髭がうっすらと生え、着ている部屋着も少しよれている。僕が知っている完璧な神楽坂蓮とは、かけ離れた姿だった。
 けれど僕を見つめるその青い瞳だけは、以前と同じ鋭い光を放っていた。

「…何の用だ」

 彼の声は、地を這うように低く冷たかった。

「…話が、したい」

「話すことなど、何もないはずだが」

 彼は僕を部屋に入れようとせず、ドアの前で壁のように立ちはだかっている。

「お願いだ。五分だけでいい。僕の話を、聞いてほしい」

 僕は頭を下げた。
 蓮はしばらくの間何も言わずに僕を見下ろしていたが、やがて大きなため息をつくと体をずらして、僕が通るだけの隙間を作った。

「…入れ」

 部屋の中は僕が出て行った時と、何も変わっていなかった。
 ただ、そこには生活の匂いが全く感じられなかった。テーブルの上にはコンビニ弁当の空き容器が、無造作に置かれている。僕がいた頃は毎日手作りの料理を並べていた、あのテーブルに。
 その光景が、僕の胸を締め付けた。

「で、話というのは何だ? 手短に頼む」

 蓮はソファにも座らず、腕を組んだまま僕を睨みつけている。
 僕は彼の前に立ち、まっすぐに彼の目を見つめ返した。

「今まで、嘘をついていて、本当にごめんなさい」

 僕はもう一度、深く頭を下げた。

「君を騙すつもりじゃなかった。ただ…僕は、君に迷惑をかけたくなかったんだ」

 僕は自分がオメガであることを隠していた理由を、正直に話した。
 アルファである君の世界に、僕のようなオメガが踏み込むことは君にとってマイナスにしかならないと思ったこと。運命の番だなんて、そんなおこがましいこと考えられなかったこと。

「君に憧れていた。遠くから見ているだけで、幸せだった。それなのに、事故で記憶を失った君は僕にだけ優しくしてくれた。それが本当に嬉しくて…僕は、その幸せな時間に溺れてしまったんだ」

 涙が、頬を伝う。

「君が記憶を取り戻したらこの関係は終わるって、分かってた。分かってたのに、僕は君に本当のことを言えなかった。君を失うのが、怖かったから」

 僕は自分の弱さを、すべてさらけ出した。

「本当に、ごめんなさい。君を傷つけて、裏切って、最低なのは分かってる。でも、これだけは信じてほしい」

 僕は顔を上げた。涙で滲む視界の中で、蓮の顔がぼんやりと揺れている。

「僕は、君のことが、好きです。昔も、今も、ずっと」

 僕の、精一杯の告白。
 それを聞いた蓮の表情は、変わらなかった。
 彼は何も言わない。ただ冷たい瞳で、僕を見つめているだけだ。
 ああ、やっぱりダメだったんだ。
 僕の言葉は、もう彼の心には届かない。
 絶望が僕の心を支配した、その時。

 ぐらり、と僕の視界が大きく揺れた。
 立っていられないほどの強烈なめまい。そして体の芯から、抗いようのない熱が一気に突き上げてきた。

「…っ、ぁ…う…」

 息が熱い。
 喉の奥から、甘い吐息が漏れる。
 忘れていた。いや、考えないようにしていた。
 ヒートの周期が、もうすぐそこまで来ていたことを。
 そして運命の番である蓮のフェロモンを、これほど間近で浴びたことが引き金になってしまったのだ。

「…湊? おい、どうした!」

 蓮の焦ったような声が、遠くに聞こえる。
 僕の体から、自分でも分かるほど濃厚な甘いフェロモンが一気に香り立った。
 それはもう、抑制剤ではどうにもならない、オメガとしての本能の叫びだった。
 意識が、朦朧としていく。
 僕はその場に、崩れ落ちた。

 運命の足音が、すぐそこまで迫ってきている。
 それは僕たちを、もう二度と引き返せない場所へと導こうとしていた。
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