4 / 16
第3話「甘い毒と優しい監獄」
しおりを挟む
それからというもの、クラウスの訪問は日課のようになった。
雨の日も、晴れの日も、彼は何かしらの理由をつけて『月の雫薬局』に現れた。
ある時は「屋根の瓦がずれていたから直しておいた」と言って大工を連れてきたり、ある時は「君の店の近くで珍しい薬草を見つけた」と泥だらけになって現れたりした。
そのたびに、ルカの店は少しずつ快適になり、棚には高価な素材が増え、ルカの胃袋は高級食材で満たされていった。
スラムの住人たちも、最初は警戒していたが、今では「薬屋のルカには強力なパトロンがついた」と噂し、誰も店に手出しをしなくなっていた。
皮肉なことに、クラウスの存在はルカの生活を劇的に向上させていたのだ。
「……これじゃあ、まるで囲われている愛人じゃないか」
ある雨の午後、ルカはカウンターで頬杖をついてつぶやいた。
目の前には、クラウスが置いていった王都で人気の洋菓子店のクッキー缶がある。
「愛人? 誰が?」
不意に背後から声がして、ルカは椅子から飛び上がった。
いつの間に入ってきたのか、クラウスが笑顔で立っている。雨音にかき消されて、足音に気づかなかったのだ。
「心臓に悪いから、気配を消して入ってくるのはやめてくれ!」
「すまない。君が考え事をしている横顔があまりに綺麗で見惚れていた」
クラウスは自然な動作でルカの隣に腰掛け、クッキー缶を開けた。
「紅茶を淹れよう。君は座っていてくれ」
もはやどちらが店主かわからない。クラウスはこの狭い空間に完全に馴染んでいた。
湯気が立ち上るカップを渡され、ルカは観念して一口すすった。
「……で、今日は何の用だ? 騎士団長様は暇なのか?」
「今日は君に相談があってね」
クラウスの表情が少し真剣なものに変わった。
「最近、王都で質の悪いドラッグが出回っている。服用すると一時的に魔力が高まるが、中毒性が強く、廃人になる者が後を絶たない」
「『黒い蛇』か。ここら辺でも噂になってるよ」
ルカは眉をひそめた。薬師として、粗悪な薬物が蔓延するのは許しがたいことだ。
「その解毒剤、あるいは緩和剤を作りたいのだが、王宮の薬師たちは頭が固くてね。既存のレシピに固執して、新しい発想が出てこないんだ」
クラウスはルカの目をまっすぐに見た。
「ルカ、君の知識を借りたい。君なら、常識にとらわれない調合ができるはずだ」
試されている、とルカは感じた。
これは単なる口実ではない。クラウスは本気で民を憂い、そしてルカの才能を信じているのだ。
その信頼が、ルカの胸をチクリと刺した。
自分は、そんな清廉潔白な人間ではない。禁忌とされる抑制剤を作り、自分の体をごまかし続けている詐欺師だ。
「……協力してもいいけど、報酬は高いぞ」
それでも、ルカは断れなかった。薬師としての性が、難解な調合への挑戦を拒めなかったのだ。
「もちろん、望むままだ」
クラウスが破顔する。その笑顔の眩しさに、ルカは思わず目を逸らした。
二人はそれから夜遅くまで、文献を広げ、成分について議論を交わした。
時折、古い伝承にある『万病を癒やす幻の花』のようなロマンチックな話題も口にしつつ、クラウスは薬学の専門家ではないが、驚くほど頭の回転が速く、的確な質問を投げかけてきた。ルカが専門用語を使って説明しても、すぐに理解し、応用案を出してくる。
(こいつ……本当に何でもできるんだな)
ルカは悔しいような、誇らしいような、奇妙な感覚に陥った。
作業中、二人の距離は近かった。
資料を覗き込むたびに肩が触れ合い、クラウスの吐息がかかる。
そのたびに、ルカの鼻腔をあの針葉樹の香りがくすぐる。
抑制剤のおかげで発情することはない。だが、心の奥底で、何かが溶け出していく感覚があった。
安心感。充足感。
ずっと一人で戦ってきたルカにとって、背中を預けられる存在がいるということが、これほど心地よいものだとは知らなかった。
「……できたかもしれない」
深夜、ルカが最後の滴を試験管に垂らすと、液体が鮮やかな青色に変化した。
「これが、中和剤のベースになるはずだ」
「素晴らしい……! さすがルカだ!」
興奮したクラウスが、衝動的にルカを抱きしめた。
「わっ、ちょっ……!」
強い腕に包まれ、ルカの体はクラウスの胸板に押し付けられた。
ドクン、ドクン、と力強い心音が聞こえる。
熱い。アルファの体温が、服越しに伝わってくる。
その瞬間、ルカの視界がぐらりと揺れた。
抑制剤で抑え込んでいるはずの熱が、体の芯で燻りだしたのだ。
これはまずい。
クラウスのフェロモンが強すぎる。至近距離で、しかも感情が高ぶった状態のアルファの香りは、薬のバリアを貫通しかけていた。
「……はな、して……!」
ルカは声を絞り出した。拒絶ではなく、懇願のような弱々しい声だった。
しかし、クラウスはすぐには離さなかった。
それどころか、顔をルカの首筋に埋め、深く息を吸い込んだのだ。
「いい匂いだ……。雨上がりの森のような、清浄な香り……」
「やめ……クラウス、だめだ……!」
ルカが必死に抵抗すると、クラウスはようやく我に返ったように体を離した。
「……すまない。つい、興奮してしまって」
クラウスの顔がわずかに赤い。彼もまた、ルカの香りに当てられていたのだ。
「今日はもう帰ってくれ。疲れたんだ」
ルカは顔を背け、冷たく言い放った。動揺を悟られないように必死だった。
「ああ……そうだな。無理をさせてすまなかった。続きはまた明日にしよう」
クラウスは名残惜しそうにルカを見つめた後、静かに店を出て行った。
扉が閉まった瞬間、ルカはその場に膝をついた。
荒い息を吐きながら、震える手で懐の薬瓶を取り出す。
普段は朝に一錠飲むだけでいい薬を、追加で口に放り込んだ。
心臓が痛いほど脈打っている。
これは恋ではない。本能の誤作動だ。
そう自分に言い聞かせても、抱きしめられた時の温もりが消えない。
「……賞味期限まで、あとどれくらいだ」
ルカは天井を見上げた。
薬の副作用か、最近、指先の感覚が鈍くなることがある。
終わりは確実に近づいている。
クラウスと一緒にいればいるほど、別れの時が辛くなるだけだ。
「嘘をつき続けるのは、しんどいな」
雨音が再び強くなってきた。
ルカの孤独な夜は、以前よりもずっと寒く、寂しく感じられた。
雨の日も、晴れの日も、彼は何かしらの理由をつけて『月の雫薬局』に現れた。
ある時は「屋根の瓦がずれていたから直しておいた」と言って大工を連れてきたり、ある時は「君の店の近くで珍しい薬草を見つけた」と泥だらけになって現れたりした。
そのたびに、ルカの店は少しずつ快適になり、棚には高価な素材が増え、ルカの胃袋は高級食材で満たされていった。
スラムの住人たちも、最初は警戒していたが、今では「薬屋のルカには強力なパトロンがついた」と噂し、誰も店に手出しをしなくなっていた。
皮肉なことに、クラウスの存在はルカの生活を劇的に向上させていたのだ。
「……これじゃあ、まるで囲われている愛人じゃないか」
ある雨の午後、ルカはカウンターで頬杖をついてつぶやいた。
目の前には、クラウスが置いていった王都で人気の洋菓子店のクッキー缶がある。
「愛人? 誰が?」
不意に背後から声がして、ルカは椅子から飛び上がった。
いつの間に入ってきたのか、クラウスが笑顔で立っている。雨音にかき消されて、足音に気づかなかったのだ。
「心臓に悪いから、気配を消して入ってくるのはやめてくれ!」
「すまない。君が考え事をしている横顔があまりに綺麗で見惚れていた」
クラウスは自然な動作でルカの隣に腰掛け、クッキー缶を開けた。
「紅茶を淹れよう。君は座っていてくれ」
もはやどちらが店主かわからない。クラウスはこの狭い空間に完全に馴染んでいた。
湯気が立ち上るカップを渡され、ルカは観念して一口すすった。
「……で、今日は何の用だ? 騎士団長様は暇なのか?」
「今日は君に相談があってね」
クラウスの表情が少し真剣なものに変わった。
「最近、王都で質の悪いドラッグが出回っている。服用すると一時的に魔力が高まるが、中毒性が強く、廃人になる者が後を絶たない」
「『黒い蛇』か。ここら辺でも噂になってるよ」
ルカは眉をひそめた。薬師として、粗悪な薬物が蔓延するのは許しがたいことだ。
「その解毒剤、あるいは緩和剤を作りたいのだが、王宮の薬師たちは頭が固くてね。既存のレシピに固執して、新しい発想が出てこないんだ」
クラウスはルカの目をまっすぐに見た。
「ルカ、君の知識を借りたい。君なら、常識にとらわれない調合ができるはずだ」
試されている、とルカは感じた。
これは単なる口実ではない。クラウスは本気で民を憂い、そしてルカの才能を信じているのだ。
その信頼が、ルカの胸をチクリと刺した。
自分は、そんな清廉潔白な人間ではない。禁忌とされる抑制剤を作り、自分の体をごまかし続けている詐欺師だ。
「……協力してもいいけど、報酬は高いぞ」
それでも、ルカは断れなかった。薬師としての性が、難解な調合への挑戦を拒めなかったのだ。
「もちろん、望むままだ」
クラウスが破顔する。その笑顔の眩しさに、ルカは思わず目を逸らした。
二人はそれから夜遅くまで、文献を広げ、成分について議論を交わした。
時折、古い伝承にある『万病を癒やす幻の花』のようなロマンチックな話題も口にしつつ、クラウスは薬学の専門家ではないが、驚くほど頭の回転が速く、的確な質問を投げかけてきた。ルカが専門用語を使って説明しても、すぐに理解し、応用案を出してくる。
(こいつ……本当に何でもできるんだな)
ルカは悔しいような、誇らしいような、奇妙な感覚に陥った。
作業中、二人の距離は近かった。
資料を覗き込むたびに肩が触れ合い、クラウスの吐息がかかる。
そのたびに、ルカの鼻腔をあの針葉樹の香りがくすぐる。
抑制剤のおかげで発情することはない。だが、心の奥底で、何かが溶け出していく感覚があった。
安心感。充足感。
ずっと一人で戦ってきたルカにとって、背中を預けられる存在がいるということが、これほど心地よいものだとは知らなかった。
「……できたかもしれない」
深夜、ルカが最後の滴を試験管に垂らすと、液体が鮮やかな青色に変化した。
「これが、中和剤のベースになるはずだ」
「素晴らしい……! さすがルカだ!」
興奮したクラウスが、衝動的にルカを抱きしめた。
「わっ、ちょっ……!」
強い腕に包まれ、ルカの体はクラウスの胸板に押し付けられた。
ドクン、ドクン、と力強い心音が聞こえる。
熱い。アルファの体温が、服越しに伝わってくる。
その瞬間、ルカの視界がぐらりと揺れた。
抑制剤で抑え込んでいるはずの熱が、体の芯で燻りだしたのだ。
これはまずい。
クラウスのフェロモンが強すぎる。至近距離で、しかも感情が高ぶった状態のアルファの香りは、薬のバリアを貫通しかけていた。
「……はな、して……!」
ルカは声を絞り出した。拒絶ではなく、懇願のような弱々しい声だった。
しかし、クラウスはすぐには離さなかった。
それどころか、顔をルカの首筋に埋め、深く息を吸い込んだのだ。
「いい匂いだ……。雨上がりの森のような、清浄な香り……」
「やめ……クラウス、だめだ……!」
ルカが必死に抵抗すると、クラウスはようやく我に返ったように体を離した。
「……すまない。つい、興奮してしまって」
クラウスの顔がわずかに赤い。彼もまた、ルカの香りに当てられていたのだ。
「今日はもう帰ってくれ。疲れたんだ」
ルカは顔を背け、冷たく言い放った。動揺を悟られないように必死だった。
「ああ……そうだな。無理をさせてすまなかった。続きはまた明日にしよう」
クラウスは名残惜しそうにルカを見つめた後、静かに店を出て行った。
扉が閉まった瞬間、ルカはその場に膝をついた。
荒い息を吐きながら、震える手で懐の薬瓶を取り出す。
普段は朝に一錠飲むだけでいい薬を、追加で口に放り込んだ。
心臓が痛いほど脈打っている。
これは恋ではない。本能の誤作動だ。
そう自分に言い聞かせても、抱きしめられた時の温もりが消えない。
「……賞味期限まで、あとどれくらいだ」
ルカは天井を見上げた。
薬の副作用か、最近、指先の感覚が鈍くなることがある。
終わりは確実に近づいている。
クラウスと一緒にいればいるほど、別れの時が辛くなるだけだ。
「嘘をつき続けるのは、しんどいな」
雨音が再び強くなってきた。
ルカの孤独な夜は、以前よりもずっと寒く、寂しく感じられた。
4
あなたにおすすめの小説
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
愛していました。待っていました。でもさようなら。
彩柚月
ファンタジー
魔の森を挟んだ先の大きい街に出稼ぎに行った夫。待てども待てども帰らない夫を探しに妻は魔の森に脚を踏み入れた。
やっと辿り着いた先で見たあなたは、幸せそうでした。
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
私は……何も知らなかった……それだけなのに……
#Daki-Makura
ファンタジー
第2王子が獣人の婚約者へ婚約破棄を叩きつけた。
しかし、彼女の婚約者は、4歳年下の弟だった。
そう。第2王子は……何も知らなかった……知ろうとしなかっただけだった……
※ゆるい設定です。ゆるく読んでください。
※AI校正を使わせてもらっています。
【完結】あなたに知られたくなかった
ここ
ファンタジー
セレナの幸せな生活はあっという間に消え去った。新しい継母と異母妹によって。
5歳まで令嬢として生きてきたセレナは6歳の今は、小さな手足で必死に下女見習いをしている。もう自分が令嬢だということは忘れていた。
そんなセレナに起きた奇跡とは?
公爵夫人は愛されている事に気が付かない
山葵
恋愛
「あら?侯爵夫人ご覧になって…」
「あれはクライマス公爵…いつ見ても惚れ惚れしてしまいますわねぇ~♡」
「本当に女性が見ても羨ましいくらいの美形ですわねぇ~♡…それなのに…」
「本当にクライマス公爵が可哀想でならないわ…いくら王命だからと言ってもねぇ…」
社交パーティーに参加すれば、いつも聞こえてくる私への陰口…。
貴女達が言わなくても、私が1番、分かっている。
夫の隣に私は相応しくないのだと…。
皇太子夫妻の歪んだ結婚
夕鈴
恋愛
皇太子妃リーンは夫の秘密に気付いてしまった。
その秘密はリーンにとって許せないものだった。結婚1日目にして離縁を決意したリーンの夫婦生活の始まりだった。
本編完結してます。
番外編を更新中です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる