感情を抑制された人工オメガの俺は、子を産む器として冷酷な氷帝に献上されたはずが、なぜか狂おしいほど執着され溺愛されています

水凪しおん

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第1話「硝子仕掛けの鳥」

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 月の光すら凍てつきそうな静寂が、大理石の床に満ちていた。

 広大な謁見の間。そこに響くのは、磨き上げられた床を滑る衣擦れの音と、規則正しく並ぶ衛兵たちの息遣いだけ。玉座に座す男、エーデルシュタイン帝国皇帝リアム・フォン・エーデルシュタインは、感情の読めない紫紺の瞳で、目の前に跪く一体の人形を見下ろしていた。

 人形、とリアムは思った。比喩ではない。目の前の青年は、生きている人間が持ちうるはずのわずかな熱量すら感じさせなかった。陽光を弾く銀糸の髪、血の気を感じさせないほど白い肌、そして何よりも深い瑠璃色をたたえながら、何の感情も映し出さない一対の瞳。

 その青年こそ、長年にわたる帝国の禁忌の研究が生み出した、唯一の成功作。人工的に生み出された、子を成すことのできる男性――オメガ。コードネーム「Unit-00」。今日この日から、エールという名を与えられた存在。

「顔を上げろ」

 低く、温度のない声が響く。

 エールと呼ばれた青年は、命令に従い顔を上げた。その動作には一切の淀みも躊躇もない。プログラムされた機械のように滑らかで、完璧だった。

 リアムの紫紺の瞳が、エールの顔を仔細に検分する。形の良い唇、すっと通った鼻筋、長いまつ毛に縁どられた大きな瞳。神が丹精込めて作り上げた芸術品のように、その造形は完璧に近かった。だが、あまりに完璧すぎて、かえって生気というものが欠落しているように見える。

「これより貴様は私のものとなる。私の命令は絶対だ。理解したか」

「はい、皇帝陛下」

 返ってきた声もまた、その見た目と同じく感情の起伏がなかった。ただ発せられた音の羅列。

 リアムは小さく息をつき、玉座から立ち上がった。豪奢なマントが床に擦れる音を立てる。彼は悠然と階段を下り、エールの目の前で足を止めた。見下ろされる形になったエールの瞳は、ただ真っ直ぐにリアムを映しているだけだ。恐怖も、期待も、困惑も、そこにはない。空虚な瑠璃色のガラス玉。

『これが…人類の未来を繋ぐ希望、か』

 馬鹿馬鹿しい、とリアムは内心で吐き捨てた。

 この世界から女性が姿を消して、幾星霜。謎のウイルスは、Y染色体を持たない人間だけを的確に死滅させた。残されたのは男だけ。種の終わりを誰もが覚悟した時、帝国は最後の手段に打って出た。それが「人工オメガ計画」。倫理も道徳もかなぐり捨てた狂気の研究。その果てに生まれたのが、このエールという名の青年だった。

 最強のアルファである皇帝の子を宿すためだけに最適化された肉体。そして、余計な自我が邪魔をしないよう、感情を極限まで抑制された精神。彼は子を産むための、美しく精巧な「器」でしかない。

「立て」

 リアムが命じると、エールは音もなく立ち上がった。リアムの身長は高い。エールが立つと、ちょうど彼の胸元に頭がくるくらいの背丈だった。

 リアムは無言でエールの顎に指をかけ、くいと上向かせた。間近で見ても、その肌には毛穴一つ見当たらない。人形めいた美しさに、リアムの胸の奥で形容しがたい感情が渦巻く。それは興味でも嫌悪でもなく、もっと冷たい何か。まるで、手に入れた新しい道具の性能を確かめるような、無機質な好奇心。

「今夜から、貴様は私の寝室で眠る。子を成すことが、貴様の唯一の存在意義だ。背くことは許さない」

「承知いたしました」

 淡々とした返答。リアムはエールの顎から指を離し、背を向けた。

「下がらせろ」

 宰相バルドルが恭しく一礼し、衛兵に目配せをする。二人の衛兵がエールの両脇に立ち、彼を連れて謁見の間を退出していく。最後まで、エールがリアムに視線を送ることはなかった。まるで、そこに皇帝など存在しないかのように。

 一人残された玉座の間で、リアムは窓の外に広がる帝都の夜景に目を向けた。きらびやかな街の灯りも、彼の心を温めることはない。孤独。皇帝という地位についてから、常に傍らにあった感情だ。誰も彼を名前で呼ばず、誰も彼の心に触れようとはしない。誰もが彼を「氷帝」と呼び、畏れ、遠巻きにするだけ。

 それでいいと思っていた。感情など、統治者には不要なものだ。

『あの人形も、同じか』

 空っぽの瞳を思い出す。自分と同じ、何も映さない瞳。

 リアムは自嘲するように唇の端を吊り上げた。

 孤独な皇帝と、感情のない人形。歪な組み合わせだが、世継ぎを残すという目的のためには、あるいは最適なのかもしれない。愛も情も、そこには介在しないのだから。

 その夜、豪奢な天蓋付きのベッドの中で、リアムは初めてエールを抱いた。

 絹の寝間着を剥がされ、白い肌を晒されても、エールの表情は変わらなかった。リアムが彼の身体を貪るように求めても、その瑠璃色の瞳は虚空を見つめているだけ。苦痛に顔を歪めることも、快感に声を上げることもない。ただ、与えられるすべてを静かに受け入れていた。

 リアムの中に、焦燥に似た苛立ちが募る。何をしても反応のない身体は、本当によくできた人形を抱いているかのようだ。与えられた役割を、ただ忠実にこなしているだけ。

 行為の最中、リアムは何度もエールの名を呼んだ。しかし、エールがリアムの名を呼ぶことは、ついになかった。

 終わった後、リアムはエールに背を向けて横になった。隣で眠る人形の気配を感じながら、彼は暗い天井を見つめる。期待などしていなかったはずなのに、胸の奥に澱のように溜まっていく不快感はなんだろうか。

 これが、これから毎日繰り返されるのか。

 リアムは静かに目を閉じた。硝子仕掛けの鳥は、彼の腕の中で静かに眠っている。その心臓が時を刻む音だけが、彼が生きていることを証明していた。
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