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第2話「凍てついた庭の片隅で」
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エールが後宮の奥にある、彼のために用意された離宮での生活を始めてから、ひと月が過ぎた。
リアムは政務の合間を縫って、毎夜のようにエールの元を訪れた。それは義務であり、目的のための行為だった。世継ぎを成す。その一点において、二人の関係は成り立っていた。
エールは、いつだって同じだった。リアムが訪れると静かに出迎え、命令されれば服を脱ぎ、声もなく抱かれる。そして、リアムが背を向ければ、静かに眠りにつく。まるで精巧に作られた自動人形のように、彼の行動に一切の無駄も感情の揺らぎもなかった。
リアムは、そんなエールの姿に慣れつつある自分を感じていた。感情のない器。それでいい。それが正しい。そう自身に言い聞かせる日々。
リアムはその奇妙な報告を耳にした時、初めて眉をひそめた。
「エール様が、庭の手入れを?」
侍従長からの定期報告の中の、些細な一節だった。
エールの離宮には、小さな中庭が併設されている。そこは長い間使われておらず、ほとんどの花は枯れ、荒れ果てた状態だったはずだ。
「は。毎日、朝食の後に庭へ出て、枯れた花々に水をやっておられます。我々がやると申し出ても、静かに首を横に振られるだけで…」
命令されていない行動。
リアムの胸に、小さなさざ波が立った。今までエールが見せたことのない、自発的な行動。
「…そうか。好きにさせておけ」
リアムは平静を装ってそう告げたが、その日の午後は、執務室の窓から見えるエールの離宮の方角を、無意識に何度も目で追っていた。
翌日、リアムは誰にも告げず、側近だけを連れて離宮を訪れた。物音を立てぬよう、慎重に回廊を進む。目的の場所は、中庭が見渡せる窓辺だった。
侍従の話は本当だった。
陽光が降り注ぐ中庭に、エールは一人で佇んでいた。簡素な白い衣をまとった彼は、小さな水差しを手に、茶色く枯れきった花壇に静かに水を注いでいる。その姿は、まるで儀式を執り行っている神官のように厳かで、どこか儚げだった。
なぜ、そんなことをするのか。
枯れた花に水をやっても、蘇るはずがない。そんなことは、子どもでもわかる理屈だ。感情がないはずの彼が、なぜそんな無意味な行動を?
リアムは窓枠を掴む指に、無意識に力が入っていることに気づいた。
エールはしばらく水をやり続けていたが、やがて水差しを置くと、今度は近くの木々の枝に目を向けた。枝には、一羽の小鳥がとまっている。エールがじっと見つめていると、小鳥は警戒もせずに、彼の肩にふわりと舞い降りた。
エールは驚く様子もなく、そっと指を伸ばし、小鳥の頭を優しく撫でた。小鳥は気持ちよさそうに目を細め、チチ、と小さくさえずる。その光景は、一枚の美しい絵画のようだった。
リアムは息を呑んだ。
あのエールが。誰の命令も受けていないのに、枯れた花を慈しみ、小鳥と心を通わせている。
リアムの心臓が、とくん、と奇妙な音を立てた。
それは、理解できないものに対する戸惑い。そして、今まで感じたことのない、微かな興味。
氷のように固まっていたリアムの心に、ほんの小さな亀裂が入った瞬間だった。
その日から、リアムは離宮を訪れる時間を少しずつ早めるようになった。
夜、寝所を共にするだけではなく、夕食を共に摂ることを命じた。
豪華な食事が並ぶテーブルで、二人は向かい合って座る。エールは相変わらず無表情で、ただ目の前の皿を静かに空にしていく。
「…庭の鳥は、元気か」
沈黙に耐えかねたように、リアムが口を開いた。エールは食事の手を止め、小さく不思議そうに首を傾げた。その仕草が、妙に幼く見える。
「鳥、でありますか」
「ああ。お前の肩にとまっていた、小さな鳥だ」
見ていたのか、とエールが思ったかどうかは、その無表情からは読み取れない。彼は少しだけ考える素振りを見せると、静かに口を開いた。
「はい。今日も、パン屑を与えました。喜んでいるように、見えました」
「…そうか」
会話は、それきりだった。だが、リアムの中には確かな変化が生まれていた。
『喜んでいるように、見えた』
それは、感情のない人形が口にするには、あまりにも人間らしい言葉だった。彼は、鳥の感情を読み取ろうとしたのか?
リアムは、目の前で静かにスープを口に運ぶエールの横顔を盗み見た。
白い肌、銀の髪、そして静かな瑠璃色の瞳。美しい器。そのはずなのに、なぜだろう。今、リアムの目には、その器の奥に、何かとてもか弱く、純粋な魂が宿っているような気がしてならなかった。
リアムは、もっと彼のことを知りたいと、柄にもなくそう思った。
この硝子仕掛けの人形の、その内側を。
冷酷な皇帝の心に芽生えた小さな興味の種は、彼自身も気づかぬうちに、ゆっくりと凍てついた土の中で根を張り始めていた。それはやがて、狂おしい執着という名の花を咲かせることになる前触れだった。
リアムは政務の合間を縫って、毎夜のようにエールの元を訪れた。それは義務であり、目的のための行為だった。世継ぎを成す。その一点において、二人の関係は成り立っていた。
エールは、いつだって同じだった。リアムが訪れると静かに出迎え、命令されれば服を脱ぎ、声もなく抱かれる。そして、リアムが背を向ければ、静かに眠りにつく。まるで精巧に作られた自動人形のように、彼の行動に一切の無駄も感情の揺らぎもなかった。
リアムは、そんなエールの姿に慣れつつある自分を感じていた。感情のない器。それでいい。それが正しい。そう自身に言い聞かせる日々。
リアムはその奇妙な報告を耳にした時、初めて眉をひそめた。
「エール様が、庭の手入れを?」
侍従長からの定期報告の中の、些細な一節だった。
エールの離宮には、小さな中庭が併設されている。そこは長い間使われておらず、ほとんどの花は枯れ、荒れ果てた状態だったはずだ。
「は。毎日、朝食の後に庭へ出て、枯れた花々に水をやっておられます。我々がやると申し出ても、静かに首を横に振られるだけで…」
命令されていない行動。
リアムの胸に、小さなさざ波が立った。今までエールが見せたことのない、自発的な行動。
「…そうか。好きにさせておけ」
リアムは平静を装ってそう告げたが、その日の午後は、執務室の窓から見えるエールの離宮の方角を、無意識に何度も目で追っていた。
翌日、リアムは誰にも告げず、側近だけを連れて離宮を訪れた。物音を立てぬよう、慎重に回廊を進む。目的の場所は、中庭が見渡せる窓辺だった。
侍従の話は本当だった。
陽光が降り注ぐ中庭に、エールは一人で佇んでいた。簡素な白い衣をまとった彼は、小さな水差しを手に、茶色く枯れきった花壇に静かに水を注いでいる。その姿は、まるで儀式を執り行っている神官のように厳かで、どこか儚げだった。
なぜ、そんなことをするのか。
枯れた花に水をやっても、蘇るはずがない。そんなことは、子どもでもわかる理屈だ。感情がないはずの彼が、なぜそんな無意味な行動を?
リアムは窓枠を掴む指に、無意識に力が入っていることに気づいた。
エールはしばらく水をやり続けていたが、やがて水差しを置くと、今度は近くの木々の枝に目を向けた。枝には、一羽の小鳥がとまっている。エールがじっと見つめていると、小鳥は警戒もせずに、彼の肩にふわりと舞い降りた。
エールは驚く様子もなく、そっと指を伸ばし、小鳥の頭を優しく撫でた。小鳥は気持ちよさそうに目を細め、チチ、と小さくさえずる。その光景は、一枚の美しい絵画のようだった。
リアムは息を呑んだ。
あのエールが。誰の命令も受けていないのに、枯れた花を慈しみ、小鳥と心を通わせている。
リアムの心臓が、とくん、と奇妙な音を立てた。
それは、理解できないものに対する戸惑い。そして、今まで感じたことのない、微かな興味。
氷のように固まっていたリアムの心に、ほんの小さな亀裂が入った瞬間だった。
その日から、リアムは離宮を訪れる時間を少しずつ早めるようになった。
夜、寝所を共にするだけではなく、夕食を共に摂ることを命じた。
豪華な食事が並ぶテーブルで、二人は向かい合って座る。エールは相変わらず無表情で、ただ目の前の皿を静かに空にしていく。
「…庭の鳥は、元気か」
沈黙に耐えかねたように、リアムが口を開いた。エールは食事の手を止め、小さく不思議そうに首を傾げた。その仕草が、妙に幼く見える。
「鳥、でありますか」
「ああ。お前の肩にとまっていた、小さな鳥だ」
見ていたのか、とエールが思ったかどうかは、その無表情からは読み取れない。彼は少しだけ考える素振りを見せると、静かに口を開いた。
「はい。今日も、パン屑を与えました。喜んでいるように、見えました」
「…そうか」
会話は、それきりだった。だが、リアムの中には確かな変化が生まれていた。
『喜んでいるように、見えた』
それは、感情のない人形が口にするには、あまりにも人間らしい言葉だった。彼は、鳥の感情を読み取ろうとしたのか?
リアムは、目の前で静かにスープを口に運ぶエールの横顔を盗み見た。
白い肌、銀の髪、そして静かな瑠璃色の瞳。美しい器。そのはずなのに、なぜだろう。今、リアムの目には、その器の奥に、何かとてもか弱く、純粋な魂が宿っているような気がしてならなかった。
リアムは、もっと彼のことを知りたいと、柄にもなくそう思った。
この硝子仕掛けの人形の、その内側を。
冷酷な皇帝の心に芽生えた小さな興味の種は、彼自身も気づかぬうちに、ゆっくりと凍てついた土の中で根を張り始めていた。それはやがて、狂おしい執着という名の花を咲かせることになる前触れだった。
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