天使様の愛し子

東雲

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リリィ・ラムの産ぶ声

13.啼泣と幕開け(前)

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「おや、あなたがこの時間にいるのは珍しいですね」

宮廷の一角に普段はあまり見かけない人物を見つけ、イヴァニエは声を掛けた。

「ああ…少し、用があってな」
「それもまた珍しいことですね」

声を掛けた人物…ルカーシュカは、昼の宮廷に姿を現すことがほとんどない。
本人があまり他者と交流を持たないタイプであり、尚且つ担っている役目が夜と関わっていることもあり、昼間に宮廷を訪れるような用事がほぼ無いからだ。

「どういったご用向きで?」
「………」

───まさかの無言である。特に深い意味もなく聞いたのだが、まずかっただろうか。

「あの、言いにくいことであれば別に……」
「…お前は、」
「はい?」
「…、アドニスに会ったことがあるか?」
「アドニス?」

思ってもいなかった人物の名前が出てきたことに僅かに驚く。
アドニスの名を久々に聞いたこともそうだが、記憶が確かなら、ルカーシュカは徹底的にアドニスという存在をいない者として扱い、排除していたはずだ。
そんな彼の口からその名が出てきたことにまず驚いた。

「あれから…というのは、の後、ということでいいですか?」
「ああ」
「…少しだけなら」

そう口にして、忘れていた記憶が甦る。
所在無さげに床に座り込んでいた姿、震えた声、耳に慣れない言葉遣い、怯えたような瞳───…
と思ったアドニスの姿を思い出し、なんとも言えない気持ちになった。

「それが、なにか?」
「ああ…いや、もし…違ってたならいいんだが…なにかおかしくなかったか?」
「おかしいとは?」
「…アドニスに見えないというか…別人みたいじゃなかったか?」
「…!」

ルカーシュカの言葉にドキリとする。
自分が抱いていた違和感と疑問。それと同じ感覚を彼も味わっていたのか…と思うと同時に、あることに気づいた。

「アドニスと会ったのですか?」
「……まぁ、少しな」

サッパリとした性格の彼にしてはなんとも歯切れの悪い返答に訝しむ。

「それで? なぜそんなことを聞くんです?」

その問いに、やや視線を彷徨わせてから、ルカーシュカが言い辛そうに口を開いた。

「…アドニスに、会いに行こうと思ってな…」
「あなたが? アドニスに?」

驚きのあまり思わず目を見開き、そのまま聞き返せば、気まずそうな顔をされた。

「自分でもどうかしてると思ってる。…ただ少し、気になって…」
「その気になるというのは、どういうことです?」
「…今はやめておく。まずはアイツに会って確かめてからだ」
「確かめるとは?」
「…わからん。正直、行ったところで何がしたい訳でもないんだ。…ただ少し…話がしたい」
「…そう思うのは、なぜです?」
「……見て見ぬフリをし続けるのが、キツくなったから…だな」
「………」

抽象的で曖昧な返事だ。だが、その感覚に心当たりがあり、イヴァニエはそっと目を伏せた。
背中の傷を癒すために訪れたアドニスの部屋。あの時、確かに自分も同じ違和感を抱いていた。
だが、自分はその違和感を、関わりたくない一心で振り払った。アドニスと関わることも、そのせいで無駄に心が波立つのも嫌だったからだ。
自分はそうやって記憶の隅へと追いやり、今の今まで忘れていたような感覚を、彼はずっと拭いきれずにいたのだろう。

(なにがあったのかは知りませんが…)

あまり深刻に考えるのも良くないだろう…と、ある提案をする。

「よろしければ、私もご一緒しても構いませんか?」
「は? 来るのか?」
「お邪魔であれば遠慮しますが」
「そうじゃない。…アドニスだぞ? わざわざ会いたいか?」
「…その言葉はそっくりそのままお返ししますよ」

自分とて会いたい訳ではない。ただ、ルカーシュカがそこまで気に掛けていることと、自分も感じた違和感が今更になって気になってきたからだ。

「詳しくは聞きませんが、あまり気にし過ぎるのも良くないですよ」
「…すまん。ありがとう。…何かあれば、話す」

ルカーシュカの声には重みがあり、余程言いにくいことなのが伺えた。

(その時が来るまで、黙っているべきでしょうね)


───『その時』が、もうすぐ目の前まで迫っているなど、この時は思いもしなかった。




数年前に一度訪れただけの回廊を、ルカーシュカと二人、取り留めのない会話をしながら進む。
やがて見えてきた回廊の突き当りにある大きな白い扉。相変わらず照明の落とされた周囲は薄暗く、物音一つしない静寂に包まれていた。

「…此処にアイツがいるのか?」

その存在を避け続け、極力関わらないようにしていたルカーシュカには、この様な寂しいところにアドニスがいることが信じられないのだろう。

「ええ、私も一度訪れたことがありますから、間違いありませんよ」

言いながら扉へと近づこうとすると、その手前でルカーシュカが足を止めた。

「どうしました?」
「…結界を…張ってないのか…?」
「結界? …ああ」

アドニスがこの部屋で過ごすことが決まった時、大天使達の間で『アドニスには開けられぬよう、結界を張るべきだ』という意見が出たのだ。ただ、その話は結局無くなった。
謹慎はあくまで本人が自主的に行うものであり、強制的に閉じ込めるのでは意味が無いだろうと、最終的にその話は流れたのだ。

「そういえば、あなたは話の途中でいなくなってしまいましたね。ここには結界も張っていませんし、鍵も掛けていませんよ」
「鍵も…? …じゃあアイツは、本当に自主的に、此処に留まっているのか…?」
「…そういうことになりますね」

言葉にして改めて思えば、とても信じられないことだった。なにせ、アドニスだ。
謹慎などすぐに破るだろう、と誰しもがそう思っていた。だが予想に反して、アドニスは部屋から出ることも暴れることも、理不尽な怒りをぶつけることもなく、この数年間を静かに過ごしているようだった。
そのことがよほど予想外だったのか、ルカーシュカは何かを考え込むように黙ってしまった。
その姿を視界の端に留めながら、扉を叩く。

───コンコンコン

軽い音が、静かな回廊に響いた。
ルカーシュカと二人、黙って反応を待つが、いつかと同じように返事が返ってくることはなかった。

(やはり…)

小さく溜め息を零しながら、ドアノブへと手を掛けた。

「おい、いいのか?」
「待っていたところで、返事など返ってこないでしょうから」

既に経験済だと扉を押し開こうとして…手を止めた。

「どうした?」
「いえ、用があるのはルカーシュカですから。ここはあなたが開けるべきでしょう」
「…いや……まぁ、そうか」

すっと扉の前から移動し、ルカーシュカへ場所を譲る。彼は少し緊張した面持ちでドアノブに手を掛けると、ゆっくりと扉を開けた。

「………」
「どうしました?」

扉を開けたまま、何故か無言で立ち尽くすルカーシュカを横目に、その背後から部屋の中を覗き込む。

「……此処に、アイツがいるのか? 姿が見えないが…それに…」
「…そのはず、ですが…」

───本当にこの部屋にアドニスがいるのか?

そんな疑問をルカーシュカが抱くのも無理はなかった。
厚いカーテンで全ての窓を覆われた部屋の中は、昼間とは思えないほど暗く、目を凝らさなければ中の様子を確認できないほどだった。
それだけならともかく、とても誰かが此処で生活してるようには思えないほど、ひっそりと静まり返った空間は、人の気配すらしない。
痛いほどの静寂に、僅かに緊張が走った。

「なんでこんなに暗いんだ…? アイツはどこに…」
「…とりあえず、中に入りましょう」

妙な胸騒ぎに、肌がザワついた。それを振り払うように大股で部屋の中へ歩を進めると、締め切ったカーテンを開けた。
途端に光が差し込み、明るくなった室内。それにホッとしたのも束の間、室内の様相の異常さに顔を顰めた。

「……なぁ、本当に此処にアドニスがいるのか…?」

躊躇いがちに、だが明らかな動揺を含んだルカーシュカの声に、なんと答えればいいのか分からず言葉に詰まった。

部屋の中に何も無いのだ。
派手な装いや装飾を好み、過剰なまでに着飾っていたアドニスが居るとは思えないほど、質素を通り越した何も無い空間。
申し訳程度に置かれているのは大きなテーブルと椅子と長椅子のみ。広い室内の中、それらだけがポツリ、ポツリと置かれた空間は、ひどく寂しく見えた。
と、そこでふと、あることに気づく。

(…あれから、なにも変わっていない…?)

数年前に訪れた時も、確かに何も無い部屋だと思った。ただ、あの時はアドニスの治療が目的で、それ以外のことに目を向けるほど関心がなく、特になにも思わなかったのだ。
だが、改めて部屋の中を見回し、そのあまりの物悲しさとあの日から何一つ物が増えていないことに、言葉を失った。
記憶が確かなら、置かれている数少ない家具の位置すら変わっていないのだ。

妙な胸騒ぎが、嫌な予感へと変わる。

戸惑いながら部屋の中を見回すルカーシュカ同様、視線を動かせば、視界に入った二つの扉。
声を発することもなく、目だけで互いの意思を図ると、どちらともなく寝室だろうと思しき扉へと歩き出した。
閉ざされた扉の前に立ち、ルカーシュカが緊張気味にその戸を叩く。


───コンコンコン…


静まり返った部屋の中、虚しく響いた音に返事はなかった。

「……どうする?」
「………」

ここで退くか、進むか───これが他の者のテリトリーであれば、迷わず退いただろう。返事のないプライベートな空間に勝手に上がり込むような無作法などしない。
ただ、ここはアドニスの部屋ではない。あくまで、アドニスの謹慎のために用意された部屋なのだ。

「…入りましょう」

どちらにせよ、アドニスの姿を確認せねばならない。万が一、この先にその姿が無かった場合、バルドル神への報告が必要だからだ。

「…分かった」

ルカーシュカの手によってゆっくりと扉が開かれる。
静かに開いた扉の先は、やはり光の絶たれた薄暗い空間だった。
その暗い部屋の中央には、天蓋で囲われたベッドが鎮座し、重苦しい雰囲気を漂わせていた。
厚い布で覆われたその中は見えず、アドニスがそこにいるのかすら分からない。
部屋の主の返事が無いまま、寝室へと足を踏み入れた瞬間、僅かに澱んだ空気を感じ取り、眉根に皺が寄った。

(この部屋は、一体いつから閉め切られているんだ…?)

常に空気や空間を浄化し続けている天界において、このように空気が澱んでいること自体、おかしいことだった。
堪らず窓辺へと近づき、厚いカーテンを開けると、そのまま窓を開け放った。途端に差し込む光と、澄んだ空気。それに安堵しつつ、このような空間の中にアドニスがいるのだろうかと、不安な気持ちが増していった。

「…アドニス」

恐る恐る声を掛けるが、やはり返事は無い。
仕方なく天蓋のすぐ脇へと近寄ると、ルカーシュカが隣に立った。

「…もし、万が一アドニスがいなかった場合、一刻も早くバルドル様へ報告せねばなりません。…その為には確認が必要です」
「分かってる」

『緊急性があり、必要な事だ』
そう自分に言い聞かせるように、閉ざされた天蓋の隙間にそっと手を差し込んだ。



ゆっくりと暴いたベッドの上───そこには、広い寝具の片隅で、小さく丸まって眠るアドニスがいた。そのことに、心底ホッとした。

「…いたな」
「いましたね…」

自分と同じように、表情を緩めたルカーシュカに苦笑する。張り詰めていた緊張の糸が切れ、ふっと気持ちが軽くなった。
厚い布で囲われた空間は薄暗く、勝手をすればアドニスに文句を言われるかもしれないと思いつつ、ツイと指先を動かすと、垂れたままの天蓋の幕を四隅へと纏めた。

「…起きないな」

ポツリと零れたルカーシュカの言葉に誘われるように、ベッドの端に寄って眠るアドニスを見遣る。
確かに、これだけ物音を立て、近くに他人の気があるというのに、アドニスは一向に起きる気配がなかった。

「アドニス」

再度声を掛けるも、やはり反応は無く、位置を変えアドニスの側へと寄った。

「アドニス」

先ほどより大きな声で呼び掛けるが、ピクリとも反応しない。
そこまで深く眠っているのだろうか…と、その肩へ手を伸ばした。

「アド───」

触れれば、その瞬間にアドニスが飛び起き、手を振り払われると思っていた───が、その予想は大きく外れた。


触れた素肌は氷のように冷たく、命ある者の体温ではなかった。


触れた指先に移るほどの冷たさに息を呑み、目を見開く。一気に血の気が引き、反射的に冷たくなったアドニスの体を揺さぶっていた。

「アドニスッ!!」

大声でその名を呼ぶも反応は無く、揺さぶった反動で動いた腕はダラリと力なく垂れた。

「おい、急にどうし…」
「触れれば分かります!」

咄嗟にルカーシュカが手を伸ばし、垂れた腕へと触れる。瞬間、その顔は強張り、弾かれたように手を離した。

「おい…っ、嘘だろ…!」
「悠長にしてる場合ではないですよ。蘇生…いえ、聖気しょうきの譲渡を」

サッとアドニスの体を確認したが、その身に外傷はなく、触れて分かったのは、聖気の温もりをほんの欠片も感じ取れないということだった。
完全に締め切られ、一切の光が入り込まない部屋。
もしそんな中で長く過ごしていたのだとしたら、聖気は減り続け、命は削られる一方だろう。

(何故こんな…っ!)

憤りにも似た感情のまま、冷たくなった手を握った。

「私だけでは弾かれて終わる可能性が高い。ルカーシュカ、あなたも…」
「分かってる…!」

触れることすら躊躇うほどの冷たい体。その手首をルカーシュカが強く握った。
聖気の譲渡───命の源である聖気がなんらかの要因で尽きかけた時、その対象に触れ、力を流し込むことで、聖気を他者に譲渡することが可能だ。
但し、聖気には一人一人性質があり、相性がある。
天使一人一人の姿形、性格が異なるように、聖気の性質も全て異なるのだ。
相性の良い聖気同士は馴染みが良く、すんなりと譲渡が可能だが、逆に相性が悪ければ拒むように聖気は弾かれ、ほとんど譲渡されないまま蒸発する。

自分もルカーシュカも、その性質を考えれば、恐らくアドニスとの相性は最悪だ。ほとんどは弾かれ、無駄になるだろう。
それでも、やらないという選択肢はなかった。

「なるべく強めに、一気に流し込みましょう」
「ああ」

グッと手の平に聖気を集め、握ったアドニスの左手へ力を流し込むよう、イメージしながら強く力を放出する。

「いきます」

弾かれることを前提に、叩き込むように流し込んだ聖気。
ルカーシュカと二人分あれば、多くが無駄になったとしても多少は譲渡ができるだろう───そう思って放出した力は、一切弾かれることなく、全てアドニスの体内へと流れ込んだ。

「え?」
「は?」

間の抜けた声が重なる。それもそうだ。
弾かれ、拒まれることを前提に大量に流し込んだ聖気。それらがほんの僅かな抵抗もなく、全てすんなりとアドニスに受け入れられたのだ。

「…今、全部渡ったか…?」
「…その様ですね…」

俄かには信じられない。だが、聖気が弾かれるような感覚はまったく無かった。大量に放出した聖気は一片の漏れもなく、全てアドニスへと流れたのだ。
乾き切った大地に水が染み込むように、するりと自身の体から抜け、アドニスの体内へと吸い込まれていった聖気。
その感覚がハッキリと残ったままの左手に意識を移せば、先ほどまで氷のように冷たかったアドニスの手の平が、ほんのりと熱を帯びていることに気づいた。

「…アドニス」

確かめるように再度名を呼べば、握った指先がピクリと動いた。

「……ん…」

聞き逃してしまいそうなほどの小さな声と、僅かに身じろぎした体。覚醒が近いのであろう様子に緊張が走る。チラリと横を見れば、ルカーシュカも緊張しているのが分かった。
握った手を離すタイミングを計っている内に、閉じていたアドニスの瞼がふるりと震えた。


ゆっくりと開かれた金の双眸。
蜂蜜のように濃い黄金とアドニスの表情に、なぜかドキリとした。
覚醒し切っていないのか、目を開いたままぼんやりとくうを見つめる表情は驚くほど幼く、落ち着かない気持ちにさせた。
ぼぅっとしたまま、パチリ、パチリとゆっくりと瞬きを繰り返す瞼。

刹那、その視線がゆるりと動き、自分を見つめた。

トロリと溶けた蜜のような瞳。
その水晶体に自身が映り込んだ瞬間───大きく見開かれた瞳は、一瞬で輝きを失った。



「…イ、あ、アァアァアァァァァあぁぁぁッッッ!!!!」



脳を揺さぶるような、絶望にも似た悲鳴が部屋中に木霊した。
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