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プティ・フレールの愛し子
89.三様の蜜巴 side:エルダ
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(……眠られた、かな?)
布団に潜って暫く、すぅすぅと聞こえ始めた小さな寝息に、閉じていた瞼をうっすらと開いた。
星明かりに照らされたアドニス様のベッドの上、スヤスヤと眠るアドニス様にホッとしつつ、間近に見える御顔にトクリと胸が鳴った。
(……断れなかった…)
主の寝床で共に寝るなど、従者として褒められた行為ではない。が、温もりに飢えていた体は「一緒に寝よう?」という甘美な誘惑を断れず、嬉しそうに布団に潜るアドニス様と共に横になってしまった。
互いの体温で温まった羽毛は気持ち良く、目を瞑ってすぐにアドニス様は眠ってしまった。穏やかな寝顔は愛らしく、それでいて美しくて、一晩中でも眺めていられる気がした。
ふっくらとした唇から漏れる寝息に耳を澄ませつつ、互いの体の僅かな隙間を埋めるように、そろりと身を寄せる。
いけないことをしているような後ろめたさに、ドキドキと脈打つ胸を押さえながら、アドニス様の手にそっと自身の手を添えれば、温もりが直に肌に伝わり、ホッと気持ちが安らいだ。
取り出した時辰儀で時間を確認すれば、日付けはとっくに変わっていた。
夕暮れ時から随分と時間が経っていることに驚くも、目が覚めた時の愛しげに微笑むアドニス様の綺麗な御顔を思い出し、多幸感にも似た熱が全身に染み渡った。と同時に、目覚める前の拗ねて甘えるばかりの自身の醜態も思い出し、言葉にし難い羞恥に唸ってしまいそうになるも、ギリギリのところで耐えた。
(…アドニス様が、可愛がって下さるのが救いだな)
自分の精神が肉体に引き寄せられるのと同じように、アドニス様の意識も自身の外見に引っ張られるのか、赤ん坊の姿の時は殊更甘く、溢れんばかりの愛情を注いで下さる。
純天使達のように愛してほしい───その一心で生まれた能力故、愛でてもらえることは素直に嬉しく、拗ねて駄々を捏ねても、それすら愛らしいと微笑んで下さるのは、いけないと分かっていても心地良くて、本能のままに感情が表に出てしまうのだ。
(だからこそ、胸の内を素直に吐き出すこともできたのだけど…)
昼間、アドニス様に明かした気持ちは、すべて本心だ。
ルカーシュカ様とイヴァニエ様に比べ、私がアドニス様と過ごす時間は長く、朝から晩まで、ずっとお側にいられることがどれほど幸福か、自分が一番よく分かっている。
お二人とて、アドニス様と二人きりで過ごしたいだろう。もっとお側にいたいだろう。そういったお気持ちが分かるからこそ、それぞれの蜜月の日を邪魔する気は微塵もなく、むしろアドニス様の精神的、肉体的安定や私への配慮も考慮して、週に一日だけに留めて下さったお二人に、感謝こそすれ、不満などあるはずが無かった。
不満は無いのだ。理解もしている。
週にたった二日、離れるだけ───それでも、それでもアドニス様のお側を離れたくないと思ってしまうのだ。
(アドニス様が、お二人と過ごすのが嫌なんじゃない…)
アドニス様が、お二人が、愛しい方と同じ時間を過ごせるのは、喜ばしいことだと思う。
ただ純粋に、自分がアドニス様のお側にいられないことが寂しくて、悲しくて、離れたくないと我が儘を言う心が「嫌だ!」と泣いて駄々を捏ねるのだ。
矛盾していると分かっている。
だが、頭で理解できることと気持ちは別物で、どうしようもなかった。
(ずっと、一緒にいたい…)
アドニス様のお側に付いた日から、毎日毎日、片時も離れることなく共にいた。それが当たり前だった。…だがそれも、これからは少しずつ変わっていくだろう。
なにより、これからアドニス様の興味が外に向かえば向かうほど、きっと共にいられる時間は少なくなる。
部屋の中に閉じ込められ、外に出ることを許されていなかったあの頃と違い、アドニス様は自由だ。
今はまだ部屋の外への恐怖心が強いが、それだって時と共に変わるだろう。
もしもアドニス様が、お外に出たいと願ったなら、そのお気持ちは大事にしたい。
今まで触れられなかった色んなものを見て、知って、喜んで下さるのなら、嬉しいと思う。
ただできることなら、その時は自分がその傍らにいたい───そう願う気持ちは抑えられなかった。
(……これは、私の我が儘だ)
心の内を吐き出して、どうしようない寂しさは飲み込んだ。
アドニス様にも気持ちを知って頂けて、それだけで少しだけ心は軽くなった。
寄り添う温もりに甘えるように、アドニス様の腕にそっと自身の腕を絡めると、湧き上がる愛しさと安心感にほぅっと息を吐いた。
(……大丈夫)
触れていても寂しくて、側にいると離れるのが怖くて、好きと言って微笑んでくれるのに不安で…愛しいからこそ儘ならない恋慕の情に、そっと瞳を伏せた。
「いってきます、エルダ」
「いってらっしゃいませ、アドニス様。…お帰りを、お待ちしております」
「うん。…また明日ね」
翌朝、ニコニコと笑うアドニス様に見送られ、温かな部屋を後にした。
パタリと閉じた扉の前、浅く息を吐き出すと、静寂が漂う廊下を進み、アドニス様のお部屋の隣に賜った自室へと戻った。
部屋に入ると同時に変化状態を解けば、途端に視点は高くなり、妙に体が重くなったような錯覚を覚える。
そのままフラフラとベッドへ向かうと、倒れるようにボフリと寝転んだ。
「……はぁ…」
昨夜は暢気に眠れるはずもなく、明け方までずっとアドニス様の寝顔を眺めて過ごした。幸い、夕方から夜中まで眠っていたこともあって、夜通し起きていた今も眠くはない。
ただ、肉体が元の姿に戻ったことで、それまでの可愛らしかった寂しさは一層深いものとなり、これからアドニス様と共に過ごすであろうイヴァニエ様への羨ましさで、息が苦しくなった。
(アドニス様がいない…)
当たり前のことが、こんなにも切ない。
たった一日、されど一日。もはやアドニス様がいない時間をどう過ごせばいいのか、それすら分からないことに、今更ながらに大きな溜め息が零れた。
(イヴァニエ様も、ルカーシュカ様も、こうして会えない時間があるのが当たり前なのか…)
そう考えると、常日頃からお側にいられる自分はどれだけ幸せなのだろうと痛感する。これからは自分もこの時間に慣れなければいけないのかと思うと、ズンと気分が落ち込んだ。
(……寝てしまおうかな…)
やりたいことも、やることもない。アドニス様がいないのなら、起きていても仕方がない。
ぽっかりと胸に穴が空いたような喪失感と寂しさを忘れる為、明日の朝まで眠ってしまおう…そう決めると、現実から逃げるように、ベッドの天蓋を閉じた。
───コンコンコン…
「……?」
ふと耳に届いた扉を叩く音に、ふっと意識が浮上した。
聞き覚えのあるノック音に、少しだけ驚きながら体を起こすと、軽く身なりを整え、ノソノソと扉へと向かった。
「ん? なんだ、寝てたのか?」
「ルカーシュカ様…」
扉を開くと、そこには予想していた通り、ルカーシュカ様が立っていた。
「悪い、起こしたな。…今、少しいいか?」
「はい。どうぞ、お入り下さい」
特に断る理由もない。そのままルカーシュカ様を招き入れると、向かい合って椅子に腰を下ろした。
「エルダの部屋に来るのは初めてだな」
「お招きしたのも、ルカーシュカ様が初めてです。それより、どうかなさいましたか?」
「なに、少し遊びに来ただけだ」
「え…?」
柔らかに告げられた一言に面食らうも、即座にルカーシュカ様の目的に気づいた。
(…わざわざ、来て下さったんだ)
言葉にされずとも、自分のことを案じて来て下さったのが分かった。
自分がアドニス様を恋しんで寂しがっていたことも、その上で不貞寝していたことも、きっとすべてお見通しなのだろう。
まるで幼な子のような自分が恥ずかしかったが、それでもアドニス様と共にいられず「寂しい、寂しい」と喘いでいた心は慰められ、じんわりと胸が温かくなった。
「イヴァニエにアニーを取られて寂しい者同士、少し飲まないか?」
「…ありがとうございます。お伴致します」
明るい声音は冗談めいていたが、同じ気持ちを共有している安心感と、こうして会いに来て下さったルカーシュカ様の御心遣いに、気づけば頬は緩んでいた。
それからはルカーシュカ様の持ち込まれた果実酒を味わいながら、ゆったりとした時間を過ごした。
慣れない酒の味はほろ苦く、熱くなる喉に、アドニス様には飲ませられないな…とその場にいない愛しい人を思い浮かべるも、不思議とそれまでの寂しさは和らいでいて、切なくなることはなかった。
「イヴァニエも、心配してたぞ」
「え?」
「エルダはアニーとずっと一緒にいただろう? アニーがいない時間を一人で過ごせるか、心配してた」
会話の切れ目、ふと告げられた言葉に目を丸くした。
全くもってその通りなのだが、完全に見抜かれている気恥ずかしさに、僅かな酔いとは異なる熱で頬が熱くなった。
「…ご心配をありがとうございます。一応…その、大丈夫です」
「まぁ、こればっかりは慣れてもらうしかないんだが」
「…そうですね。この先も、ずっとアドニス様のお側に付いているのは難しいでしょうから…慣れる様、努力します」
「離れる予定があるのか?」
「ありません。ありませんが……その、アドニス様も、これからはお外に出られるようになるでしょうから…」
「? 外に出たからって、離れる訳じゃないだろう?」
「それは…そう、なんですが…」
至極不思議そうな表情のルカーシュカ様に、こちらが気まずくなる。そっと視線を下げれば、視界の端でルカーシュカ様が肩を竦めたのが見えた。
「エルダの心配と、言いたいことは分かる。でも正直、アニーを一人にするのは危ないだろう? できることなら、エルダにはアニーの側にずっと付いててもらいたいと思ってるぞ」
「…ッ」
その一言にパッと顔を上げれば、瞳を細めて笑うルカーシュカ様と目が合った。
「まだ先の話だ。その時が来たら、アニーの気持ちも聞いた上で、話し合えばいい。ついでに、エルダの気持ちも、ちゃんと伝えた方がいいぞ。言葉にすることで、気が楽になることもあるだろう?」
「……はい。ありがとうございます」
すべて言葉にしなくとも、見透かされていることに恥ずかしくなりつつ、肩書きは同格となっても、やはりルカーシュカ様達にとって、自分はまだまだ見守る対象なのだろうという事実が、ほんの少しだけ擽ったくて、嬉しかった。
ルカーシュカ様と語らう時間を終え、酒で火照った体でベッドに向かえば、不思議と胸を埋め尽くしていた寂しさや、ぽかりと空いた穴は消えていた。
ふわふわとした頭で目を瞑れば、起きたらアドニス様に会えるのだという嬉しさだけが胸に満ち、意識は緩やかに眠りの底に落ちていった。
翌日、ルカーシュカ様とお話ししたおかげか、気持ちはとてもスッキリしていた。
一日ぶりにアドニス様にお会いできることが嬉しくて、イヴァニエ様の離宮からお帰りになったアドニス様も同じように再会を喜んで下さったことが嬉しくて、心の底から笑みが零れた。
その後、アドニス様の様子がいつもと違うことに心配になったが、恐らくイヴァニエ様の元で、初めて性的なものに触れたのだろうと思えば、納得できる反応だった。
(…この姿で良かった)
大天使の姿では、とてもこんなに冷静でいられなかっただろう。我ながら姿が違うだけでよくここまで感情に差が出るものだと、いっそ感心する。
そうしてアドニス様が無自覚に口にしてしまう危うい発言や、性教育に関して、夜通しお二人と話し合いをしている内に、複雑な感情は自然と息を潜めていった。
その翌日、自室で休んでいると、今度はイヴァニエ様が酒を持って部屋にいらっしゃり、また驚いた。
ルカーシュカ様と同じく、自分のことを気遣って尋ねて来て下さったイヴァニエ様の優しさに感謝しつつ、アドニス様と会えない寂しさは皆共通なのだと、妙に安心した。
「ところで、この部屋はこのままなのですか?」
「…? はい。特に変える予定はありませんが…」
会話の区切り、一昨日とは違う果実酒の味を覚えていると、唐突にそう問われ、首を傾げた。
離宮の代わりに与えられた部屋は、休むことを目的としている為、部屋数は一室だけ。広い室内の奥に天蓋付きの大きなベッドがあり、中央にはテーブルと椅子が二脚。それ以外、物らしい物を置いていない殺風景な部屋だが、特に不便を感じたことはなかった。
「流石に寂しすぎます。もう少し、整えなさい」
「はぁ…」
まるでお仕えしていた時のような口調と、質問の意図が見えず、曖昧な返事を返せば、イヴァニエ様が困ったように微笑んだ。
「エルダ、私もルカーシュカも来たということは、アニーも遊びに来るかもしれませんよ?」
「!?」
これっぽっちも頭に無かった言に目を見開けば、クツクツとした笑い声が返ってきた。
「大天使になったことを、ずっと隠したままでいる訳ではないのでしょう? いつかアニーに話した時、あの子はきっと、エルダの部屋にも遊びに行きたいと言い出しますよ?」
ゆっくりとグラスに口を付けながら、穏やかに笑むイヴァニエ様の言葉に、ぐるぐると思考が巡る。
アドニス様の元に行くことはあっても、アドニス様が自分の元に来て下さるなんて、考えたことも無かった。と同時に、殺風景な部屋は、初めてアドニス様のお部屋を訪れた時の寂しく冷たい光景とよく似ていて、そのまずさに心臓が竦んだ。
「せっかくバルドル様から賜ったのです。アニーに気に入ってもらえるような、素敵なお部屋になさい」
「…はい。ありがとうございます」
ああ、本当に、自分はまだまだ未熟者だ───有り難い助言に瞳を伏せつつ、頭の中ではアドニス様の好みに合わせた部屋作りについて、急速に構想を練り上げていった。
いつか、自身の成長を告げた時、アドニス様が今の私の在り方を受け入れて下さったなら、その時は部屋にお招きしてもいいだろうか───そう思わずにはいられない期待に、胸が高鳴った。
布団に潜って暫く、すぅすぅと聞こえ始めた小さな寝息に、閉じていた瞼をうっすらと開いた。
星明かりに照らされたアドニス様のベッドの上、スヤスヤと眠るアドニス様にホッとしつつ、間近に見える御顔にトクリと胸が鳴った。
(……断れなかった…)
主の寝床で共に寝るなど、従者として褒められた行為ではない。が、温もりに飢えていた体は「一緒に寝よう?」という甘美な誘惑を断れず、嬉しそうに布団に潜るアドニス様と共に横になってしまった。
互いの体温で温まった羽毛は気持ち良く、目を瞑ってすぐにアドニス様は眠ってしまった。穏やかな寝顔は愛らしく、それでいて美しくて、一晩中でも眺めていられる気がした。
ふっくらとした唇から漏れる寝息に耳を澄ませつつ、互いの体の僅かな隙間を埋めるように、そろりと身を寄せる。
いけないことをしているような後ろめたさに、ドキドキと脈打つ胸を押さえながら、アドニス様の手にそっと自身の手を添えれば、温もりが直に肌に伝わり、ホッと気持ちが安らいだ。
取り出した時辰儀で時間を確認すれば、日付けはとっくに変わっていた。
夕暮れ時から随分と時間が経っていることに驚くも、目が覚めた時の愛しげに微笑むアドニス様の綺麗な御顔を思い出し、多幸感にも似た熱が全身に染み渡った。と同時に、目覚める前の拗ねて甘えるばかりの自身の醜態も思い出し、言葉にし難い羞恥に唸ってしまいそうになるも、ギリギリのところで耐えた。
(…アドニス様が、可愛がって下さるのが救いだな)
自分の精神が肉体に引き寄せられるのと同じように、アドニス様の意識も自身の外見に引っ張られるのか、赤ん坊の姿の時は殊更甘く、溢れんばかりの愛情を注いで下さる。
純天使達のように愛してほしい───その一心で生まれた能力故、愛でてもらえることは素直に嬉しく、拗ねて駄々を捏ねても、それすら愛らしいと微笑んで下さるのは、いけないと分かっていても心地良くて、本能のままに感情が表に出てしまうのだ。
(だからこそ、胸の内を素直に吐き出すこともできたのだけど…)
昼間、アドニス様に明かした気持ちは、すべて本心だ。
ルカーシュカ様とイヴァニエ様に比べ、私がアドニス様と過ごす時間は長く、朝から晩まで、ずっとお側にいられることがどれほど幸福か、自分が一番よく分かっている。
お二人とて、アドニス様と二人きりで過ごしたいだろう。もっとお側にいたいだろう。そういったお気持ちが分かるからこそ、それぞれの蜜月の日を邪魔する気は微塵もなく、むしろアドニス様の精神的、肉体的安定や私への配慮も考慮して、週に一日だけに留めて下さったお二人に、感謝こそすれ、不満などあるはずが無かった。
不満は無いのだ。理解もしている。
週にたった二日、離れるだけ───それでも、それでもアドニス様のお側を離れたくないと思ってしまうのだ。
(アドニス様が、お二人と過ごすのが嫌なんじゃない…)
アドニス様が、お二人が、愛しい方と同じ時間を過ごせるのは、喜ばしいことだと思う。
ただ純粋に、自分がアドニス様のお側にいられないことが寂しくて、悲しくて、離れたくないと我が儘を言う心が「嫌だ!」と泣いて駄々を捏ねるのだ。
矛盾していると分かっている。
だが、頭で理解できることと気持ちは別物で、どうしようもなかった。
(ずっと、一緒にいたい…)
アドニス様のお側に付いた日から、毎日毎日、片時も離れることなく共にいた。それが当たり前だった。…だがそれも、これからは少しずつ変わっていくだろう。
なにより、これからアドニス様の興味が外に向かえば向かうほど、きっと共にいられる時間は少なくなる。
部屋の中に閉じ込められ、外に出ることを許されていなかったあの頃と違い、アドニス様は自由だ。
今はまだ部屋の外への恐怖心が強いが、それだって時と共に変わるだろう。
もしもアドニス様が、お外に出たいと願ったなら、そのお気持ちは大事にしたい。
今まで触れられなかった色んなものを見て、知って、喜んで下さるのなら、嬉しいと思う。
ただできることなら、その時は自分がその傍らにいたい───そう願う気持ちは抑えられなかった。
(……これは、私の我が儘だ)
心の内を吐き出して、どうしようない寂しさは飲み込んだ。
アドニス様にも気持ちを知って頂けて、それだけで少しだけ心は軽くなった。
寄り添う温もりに甘えるように、アドニス様の腕にそっと自身の腕を絡めると、湧き上がる愛しさと安心感にほぅっと息を吐いた。
(……大丈夫)
触れていても寂しくて、側にいると離れるのが怖くて、好きと言って微笑んでくれるのに不安で…愛しいからこそ儘ならない恋慕の情に、そっと瞳を伏せた。
「いってきます、エルダ」
「いってらっしゃいませ、アドニス様。…お帰りを、お待ちしております」
「うん。…また明日ね」
翌朝、ニコニコと笑うアドニス様に見送られ、温かな部屋を後にした。
パタリと閉じた扉の前、浅く息を吐き出すと、静寂が漂う廊下を進み、アドニス様のお部屋の隣に賜った自室へと戻った。
部屋に入ると同時に変化状態を解けば、途端に視点は高くなり、妙に体が重くなったような錯覚を覚える。
そのままフラフラとベッドへ向かうと、倒れるようにボフリと寝転んだ。
「……はぁ…」
昨夜は暢気に眠れるはずもなく、明け方までずっとアドニス様の寝顔を眺めて過ごした。幸い、夕方から夜中まで眠っていたこともあって、夜通し起きていた今も眠くはない。
ただ、肉体が元の姿に戻ったことで、それまでの可愛らしかった寂しさは一層深いものとなり、これからアドニス様と共に過ごすであろうイヴァニエ様への羨ましさで、息が苦しくなった。
(アドニス様がいない…)
当たり前のことが、こんなにも切ない。
たった一日、されど一日。もはやアドニス様がいない時間をどう過ごせばいいのか、それすら分からないことに、今更ながらに大きな溜め息が零れた。
(イヴァニエ様も、ルカーシュカ様も、こうして会えない時間があるのが当たり前なのか…)
そう考えると、常日頃からお側にいられる自分はどれだけ幸せなのだろうと痛感する。これからは自分もこの時間に慣れなければいけないのかと思うと、ズンと気分が落ち込んだ。
(……寝てしまおうかな…)
やりたいことも、やることもない。アドニス様がいないのなら、起きていても仕方がない。
ぽっかりと胸に穴が空いたような喪失感と寂しさを忘れる為、明日の朝まで眠ってしまおう…そう決めると、現実から逃げるように、ベッドの天蓋を閉じた。
───コンコンコン…
「……?」
ふと耳に届いた扉を叩く音に、ふっと意識が浮上した。
聞き覚えのあるノック音に、少しだけ驚きながら体を起こすと、軽く身なりを整え、ノソノソと扉へと向かった。
「ん? なんだ、寝てたのか?」
「ルカーシュカ様…」
扉を開くと、そこには予想していた通り、ルカーシュカ様が立っていた。
「悪い、起こしたな。…今、少しいいか?」
「はい。どうぞ、お入り下さい」
特に断る理由もない。そのままルカーシュカ様を招き入れると、向かい合って椅子に腰を下ろした。
「エルダの部屋に来るのは初めてだな」
「お招きしたのも、ルカーシュカ様が初めてです。それより、どうかなさいましたか?」
「なに、少し遊びに来ただけだ」
「え…?」
柔らかに告げられた一言に面食らうも、即座にルカーシュカ様の目的に気づいた。
(…わざわざ、来て下さったんだ)
言葉にされずとも、自分のことを案じて来て下さったのが分かった。
自分がアドニス様を恋しんで寂しがっていたことも、その上で不貞寝していたことも、きっとすべてお見通しなのだろう。
まるで幼な子のような自分が恥ずかしかったが、それでもアドニス様と共にいられず「寂しい、寂しい」と喘いでいた心は慰められ、じんわりと胸が温かくなった。
「イヴァニエにアニーを取られて寂しい者同士、少し飲まないか?」
「…ありがとうございます。お伴致します」
明るい声音は冗談めいていたが、同じ気持ちを共有している安心感と、こうして会いに来て下さったルカーシュカ様の御心遣いに、気づけば頬は緩んでいた。
それからはルカーシュカ様の持ち込まれた果実酒を味わいながら、ゆったりとした時間を過ごした。
慣れない酒の味はほろ苦く、熱くなる喉に、アドニス様には飲ませられないな…とその場にいない愛しい人を思い浮かべるも、不思議とそれまでの寂しさは和らいでいて、切なくなることはなかった。
「イヴァニエも、心配してたぞ」
「え?」
「エルダはアニーとずっと一緒にいただろう? アニーがいない時間を一人で過ごせるか、心配してた」
会話の切れ目、ふと告げられた言葉に目を丸くした。
全くもってその通りなのだが、完全に見抜かれている気恥ずかしさに、僅かな酔いとは異なる熱で頬が熱くなった。
「…ご心配をありがとうございます。一応…その、大丈夫です」
「まぁ、こればっかりは慣れてもらうしかないんだが」
「…そうですね。この先も、ずっとアドニス様のお側に付いているのは難しいでしょうから…慣れる様、努力します」
「離れる予定があるのか?」
「ありません。ありませんが……その、アドニス様も、これからはお外に出られるようになるでしょうから…」
「? 外に出たからって、離れる訳じゃないだろう?」
「それは…そう、なんですが…」
至極不思議そうな表情のルカーシュカ様に、こちらが気まずくなる。そっと視線を下げれば、視界の端でルカーシュカ様が肩を竦めたのが見えた。
「エルダの心配と、言いたいことは分かる。でも正直、アニーを一人にするのは危ないだろう? できることなら、エルダにはアニーの側にずっと付いててもらいたいと思ってるぞ」
「…ッ」
その一言にパッと顔を上げれば、瞳を細めて笑うルカーシュカ様と目が合った。
「まだ先の話だ。その時が来たら、アニーの気持ちも聞いた上で、話し合えばいい。ついでに、エルダの気持ちも、ちゃんと伝えた方がいいぞ。言葉にすることで、気が楽になることもあるだろう?」
「……はい。ありがとうございます」
すべて言葉にしなくとも、見透かされていることに恥ずかしくなりつつ、肩書きは同格となっても、やはりルカーシュカ様達にとって、自分はまだまだ見守る対象なのだろうという事実が、ほんの少しだけ擽ったくて、嬉しかった。
ルカーシュカ様と語らう時間を終え、酒で火照った体でベッドに向かえば、不思議と胸を埋め尽くしていた寂しさや、ぽかりと空いた穴は消えていた。
ふわふわとした頭で目を瞑れば、起きたらアドニス様に会えるのだという嬉しさだけが胸に満ち、意識は緩やかに眠りの底に落ちていった。
翌日、ルカーシュカ様とお話ししたおかげか、気持ちはとてもスッキリしていた。
一日ぶりにアドニス様にお会いできることが嬉しくて、イヴァニエ様の離宮からお帰りになったアドニス様も同じように再会を喜んで下さったことが嬉しくて、心の底から笑みが零れた。
その後、アドニス様の様子がいつもと違うことに心配になったが、恐らくイヴァニエ様の元で、初めて性的なものに触れたのだろうと思えば、納得できる反応だった。
(…この姿で良かった)
大天使の姿では、とてもこんなに冷静でいられなかっただろう。我ながら姿が違うだけでよくここまで感情に差が出るものだと、いっそ感心する。
そうしてアドニス様が無自覚に口にしてしまう危うい発言や、性教育に関して、夜通しお二人と話し合いをしている内に、複雑な感情は自然と息を潜めていった。
その翌日、自室で休んでいると、今度はイヴァニエ様が酒を持って部屋にいらっしゃり、また驚いた。
ルカーシュカ様と同じく、自分のことを気遣って尋ねて来て下さったイヴァニエ様の優しさに感謝しつつ、アドニス様と会えない寂しさは皆共通なのだと、妙に安心した。
「ところで、この部屋はこのままなのですか?」
「…? はい。特に変える予定はありませんが…」
会話の区切り、一昨日とは違う果実酒の味を覚えていると、唐突にそう問われ、首を傾げた。
離宮の代わりに与えられた部屋は、休むことを目的としている為、部屋数は一室だけ。広い室内の奥に天蓋付きの大きなベッドがあり、中央にはテーブルと椅子が二脚。それ以外、物らしい物を置いていない殺風景な部屋だが、特に不便を感じたことはなかった。
「流石に寂しすぎます。もう少し、整えなさい」
「はぁ…」
まるでお仕えしていた時のような口調と、質問の意図が見えず、曖昧な返事を返せば、イヴァニエ様が困ったように微笑んだ。
「エルダ、私もルカーシュカも来たということは、アニーも遊びに来るかもしれませんよ?」
「!?」
これっぽっちも頭に無かった言に目を見開けば、クツクツとした笑い声が返ってきた。
「大天使になったことを、ずっと隠したままでいる訳ではないのでしょう? いつかアニーに話した時、あの子はきっと、エルダの部屋にも遊びに行きたいと言い出しますよ?」
ゆっくりとグラスに口を付けながら、穏やかに笑むイヴァニエ様の言葉に、ぐるぐると思考が巡る。
アドニス様の元に行くことはあっても、アドニス様が自分の元に来て下さるなんて、考えたことも無かった。と同時に、殺風景な部屋は、初めてアドニス様のお部屋を訪れた時の寂しく冷たい光景とよく似ていて、そのまずさに心臓が竦んだ。
「せっかくバルドル様から賜ったのです。アニーに気に入ってもらえるような、素敵なお部屋になさい」
「…はい。ありがとうございます」
ああ、本当に、自分はまだまだ未熟者だ───有り難い助言に瞳を伏せつつ、頭の中ではアドニス様の好みに合わせた部屋作りについて、急速に構想を練り上げていった。
いつか、自身の成長を告げた時、アドニス様が今の私の在り方を受け入れて下さったなら、その時は部屋にお招きしてもいいだろうか───そう思わずにはいられない期待に、胸が高鳴った。
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