天使様の愛し子

東雲

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プティ・フレールの愛し子

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「やっ、やだ…!」
「おっと」

三拍呆けた後、真っ白になっていた頭がパチンッと弾けるように現状を理解する。それと同時に、体が抱き上げられた腕の中から逃れようと勝手にもがいた。

(こ、怖い…!)

自分よりも背が高いバルドル神に抱き上げられた視点は高く、重心が定まらないせいでバランスが取れない。グラグラと揺れるような感覚と、いつもより遠い地面。地に足が着いていない不安から、心臓が竦み上がるような恐怖に襲われた。

「お、降りる…っ、降ります…!」
「こら、アドニス。そんなに動くと危ないぞ」

バルドル神の身を押し返していいのかすら分からず、手を伸ばすことができない。足だけバタバタと揺らせば、咎めるように揺れる足を大きな手で捕らえられてしまった。

「落ちたら大変だろう? 大人しくしてなさい」
「えぅ…」

落としてしまう前に降ろしてほしい。
半泣きになりながら返す言葉を探していると、凛と張ったオリヴィアの声が背後から聞こえた。

「バルドル様! そのように急に抱き上げられるのは危のうございます!」
「ん? そうか?」
「そうです。アドニス様もご不安になるでしょう?」

自分の心情を汲み取ってくれるオリヴィアの声は頼もしく、それだけで嬉しさにも似た安堵が広がった。

「お、降ろして、下さい…っ」
「裸足で歩くのは危ないぞ」
「いつも、裸足で歩いてるから、大丈夫です…!」
「ここは足元に石も多い。足をぶつけて、痛い思いをしたら大変だ」
「だ、大丈夫、ですから、降ります…」
「……困ったな。父に抱かれるのは嫌か?」
「そ、そういう訳じゃ…」

眉を下げ、悲しげな表情を浮かべるバルドル神に、なんと言ったらいいのか分からなくなる。
高い視点と不安定な姿勢が怖いのだが、神様に抱き上げられているというこの状況もいけないと思うのだ。だが当の本人は気にした様子もなく、降ろしてくれる気配もない。
どうしたものかと答えあぐねいていると、再びオリヴィアの声が会話に混じった。

「バルドル様、アドニス様はプティと違います。体格も異なるのですから、同じように抱き上げられてはなりません」
「うん? ……ああ、そうか。アドニスは体が大きいからな。この抱き方ではいけなかったか」
「うあっ」

その言葉と共に視点が下がる。突然体の位置がズレ、体を支える為、反射的にバルドル神の肩を掴めば、恐ろしいほど整った顔が目と鼻の先に映った。

「うん、これでいいだろう。そうやって肩に掴まっていなさい」
「え……え?」

片腕に抱き上げた状態から、自分の体を横抱きにして満足気に微笑むバルドル神だが、何も解決していない。
困惑を混ぜてチラリとオリヴィアの様子を伺うも、彼も困り顔で緩く首を振るだけだった。どうやら降ろしてもらうことは難しいらしい。
ただそれより気になるのは、今ほどのオリヴィアの発言と、それに対するバルドル神の反応だ。

(あの子達と、一緒だと思われてる…?)

可愛い可愛い、ふくふくとした柔らかな体の赤ん坊達の姿を思い浮かべ、首を捻る。
片腕にすっぽりと収まるほど小さなあの子達と自分では、どこからどう見ても同じには見えないはずだ。それなのに、バルドル神はまるで『今気づいた』と言わんばかりの反応で、その様子に少しだけ狼狽える。

(ルカも、あの子達のこと、よく片腕で抱っこしてるけど…)

思い浮かべたのは、赤子達を片腕に抱き上げるルカーシュカの姿だ。その姿は、先ほど自分を片腕に抱き上げたバルドル神のそれとそっくりで、更に困惑が広がった。

(バルドル様には、自分があの子達と同じに見えてるのかな…?)

まさかそんな、と思うも、振り返ってみれば思い当たる節がある。
「良い子」と言って頬や頭を撫でる手も、片腕に抱き上げたり、膝の上に乗せたりする行為も、慈しむような優しい微笑みも、幼いあの子達を愛でる時の仕草や表情と一緒なのだ。
もしや本当に、バルドル神には自分が赤ん坊達と同じ姿に見えているのだろうか───?
にわかには信じ難いことだが、そう考えると今のこの抱き上げられている状況にも納得がいく。

(自分も、あの子達のこと、抱っこするし…)

抱っこもするし、頬も撫でるし、抱き締めもする。
それらと同じ行為をバルドル神もしているのだと思うと、どうにも拒否しづらく、腕の中から降りなければという感情も、ふしゅると音を立てて萎んでしまった。

「さぁ、それじゃあ散歩に行こうか」
「……はい」

結局、戸惑いは迷いに、迷いは納得に変わり、楽し気に歩き出したバルドル神の歩みも止められないまま、大人しくその腕の中に収まるのだった。



(わぁ…)

横抱きにされたまま始まったバルドル神との散歩だが、広い広い庭園の中を進んでいく内に、抱き上げられていることへの緊張や戸惑いは薄れていった。
丁寧に手入れがされた庭は、これまで見てきた天界とは異なる様相を呈していた。
白く丸い小石が一面に敷き詰められた地面には石造りの道があり、バルドル神はその上をゆっくりと歩いていく。
普段の景色に比べ、全体的に視界が開けているのは、背の高い木々がないからだろう。
どこまでもなだらかな地面が続く景色の中には、カーテンのように花弁が連なる花木や、丸い形に切り揃えられた低木がそこかしこに点在し、目を楽しませた。
ふわりと香る風は甘く、果実と花を混ぜたような不思議な芳香が漂う。足元は白い石の道もあれば、緑の芝生であったり等、進む先によってその姿を変えた。

(気持ちいい…)

青く澄んだ暖かな空の下、そよそよとそよぐ風は心地良く、バルドル神の歩く振動は揺り籠のようで、次第に意識がぽんやりとし始める。
景色を眺めるのは楽しい。それでもウトウトとしてしまいそうになるのは、大きくて優しい腕の中にいるからだろう。
鼻先に触れる長い黒髪からは、香を混ぜたような香りがほんのりと漂い、安心感のある香りが肺を満たしていった。

(寝ちゃダメだ…!)

ぼやける意識をハッキリとさせるように、ふるふると頭を振れば、ふっと笑うような音が空気を揺らした。

「寝てもいいぞ」
「んん…」

もう一度ふるりと首を横に振れば、バルドル神がゆっくりと歩みを止めた。

「ふむ……オリヴィア、どう思う?」
「趣向を変えて、湖に参られてはいかがでしょう? アドニス様は、小船に乗られたこともないでしょうし、お楽しみ頂けるかと」
「なるほど。ではそうしよう」

後ろを静かに付いて歩いてきたオリヴィアに向かい、バルドル神が声を掛ける。ほんの二言三言の会話を終えると、バルドル神は再び歩き出し、今の会話が何だったのか、尋ねる暇もなかった。
どこかへ向かって進む歩みは少しだけ速く、景色が流れるように過ぎていく。
サクリ、サクリと地面を踏み締める音が続き、どれほどか歩いたその先、枝垂れた花のカーテンをくぐると、目の前に大きな湖が現れた。

「わぁ…!」

命の湖以外で初めて見た水辺は広大で、向かい側の岸辺が遠くに見えるその広さと美しさに、感嘆の声が漏れた。
深い青色は、だがどこまでも澄んでいて、水底でキラキラと輝く鉱石や植物がくっきりと透けて見えていた。
ふと遠くを見れば、水の上に浮いているような小さな建造物が見え、美しい景色の中に溶け込むようなその佇まいに思わず見入った。

「綺麗…」
「綺麗だろう? 今から船に乗って、あそこまで行こう」
「え?」

「船?」と思っていると、傍らに控えていたオリヴィアがスッと前に歩み出た。そのまま彼が湖に向けて手を翳せば、青い水面の上に白金に輝く小船が音もなくパッと現れた。

「っ!?」

それは大きな小船だった。小船だけど、大きいのだ。
自分が三人寝そべってもまだ余りそうな長さのそれは、横幅も広く、ツルリとした表面に湖の青が反射してキラキラと輝いていた。
突然目の前に現れたそれに、驚愕からポカンとしていると、不意に体が浮いた。

「えっ!? わっ…!」

バルドル神の腕に抱かれたまま、その身が宙に浮くのと同時に、自身の体も重さを失った。
まるで自分自身が浮いているような浮遊感に驚いている僅かな間に、バルドル神がストンと船の上に降り立つ。
ほとんど揺れを感じない船の上には、大きなクッションを思わせる席が用意されていた。
大きくふかふかとした席は、まるで特別な誰かのためにあつらえられたかのような雰囲気で、少しだけ気遅れした。が、バルドル神は特に気にした様子もなく、ゆったりとその席に腰を下ろし───当然のように、その膝の上に乗せられた。

「あっ、わ…、お、降ろし…」

先ほどから、というより、再会してから抱きついたり抱き上げられたりと、ずっとバルドル神の腕の中にいる気がする。
バルドル神は既に寛ぐように深く背凭れに身を預けていて、その膝の上にいる自分の体も、自然と広い胸元に寄り掛かるように傾いてしまう。
慌てて身を起こそうと手足をバタつかせるも、大きな手にやんわりと抱き寄せられ、身動きが取れなくなった。

「アドニス、どうしてすぐ父から離れようとするんだ?」
「ど、どうしてって…」

本当に不思議そうに聞かれ、答えに窮するも、直後にハッとする。

(そうだ……バルドル様には、自分があの子達と一緒に見えてるんだ…)

バルドル神からしたら、小さな赤ん坊が膝の上に座るのを嫌がって、逃げ出そうとしているようにしか見えないのだろう。
そう考えると、確かに今の自分の行動は、寂しく思われてしまうものかもしれない。

(……自分は、あの子達と一緒…)

…だから、抱っこをされるのも、膝の上に乗せられるのも、極々当たり前な、自然なことなのだ。
正直、素直にそう思うのはなかなかに苦しい。
それでもなんとか自分自身に言い聞かせ、湧き上がる照れを飲み込むようにキュッと唇を結べば、バルドル神の手が優しく頭を撫でた。

「アドニスは、船に乗るのも初めてだろう? 楽しめるといいな」
「…はい」

微笑むその顔は、やはり子を愛でる父のそれで、必要以上に恥ずかしがったり、畏まったりしてはいけないのだと思わせられる。
恥ずかしくて、でも頭を撫でる手は気持ち良くて、嬉しくて、大人しくされるがままになっていると、トン、という軽やかな音と共にオリヴィアも船の上に降り立った。

「よろしいですか?」
「ああ」

二人の短い会話と共に、船が静かに動き出す。
ゆっくりと動き出した視界と、体がふわふわと揺れるような独特な感覚に、途端に意識は船が進む先へと向いた。

初めての船。初めての水の上。
煌めく水面はどこまでも魅力的で、吸い込まれそうな青に、胸はドキドキと高鳴った。
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