天使様の愛し子

東雲

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プティ・フレールの愛し子

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「大天使達のことを、どう思っている?」

穏やかな湖面の上澄みだけを掬い取ったかのような、深く低いバルドル神の声。
刹那、生まれた沈黙の間を、サァァ…と葉擦れの音が通り過ぎていった。

(どう……て…)

真っ直ぐ問い掛けられたその問いに、一気に頭が重くなり、思考の歯車が鈍くなる。
キリキリと苦しげな音を立てる脳は、どう答えるべきか、その答えを探し、思考の海を彷徨った。

「アドニス?」
「は、…い」
「大丈夫か?」
「…ぅ……と…」

大丈夫なのか、そうでないのかも分からない。
「どう思うか」という問いに対する答えも分からず、二重で答えに窮するという状況に、堪らず視線が泳いだ。

「少し難しかったかな?」
「……はぃ…」
「うん。じゃあ、もう少しゆっくり話そうか」
「…はい」

「良い子」と頬を撫でる大きな手は温かくて、苦しげな音を立てていた思考もゆるりと緩んだ。
ふにふにと頬を柔く包み込む手に自ら擦り寄れば、目の前の整ったかんばせがふっと表情を和らげた。

「大丈夫か?」
「…はい」
「うん、良い子だ。そんなに難しく考えないでいい。他の大天使達に対するアドニスの素直な気持ちを、教えてくれるかな?」
「………」

改めて問われ、ゆっくりと思考を巡らせるも、考えようとすればするほど、考えられなくなってしまう。
長い沈黙の後、絞り出すように出した答えは、数日前にルカーシュカに告げた言葉と同じものだった。

「……分からない、です」
「自分の気持ちが分からないのかな?」
「ぅ……と…、その……どう、思ってるか…分かんない、です…」
「そうか」

なんとも情けない答えに、おずおずと返答するも、バルドル神はほんの少しの淀みもなく、ただ頷いてくれた。
それがなんだか嬉しくて、ホッと気を緩めれば、大きな手の平がポンポンと優しく背を叩いた。

「それじゃあ、どうして分からないのか、そこから考えてみようか」
「どうして…?」
「アドニスの言う『分からない』は、『知らない』と同じじゃないかな?」
「…う?」

(分からないは、知らない…?)

なんだか難しいことを言われているようで、困惑気味にバルドル神を見つめれば、背中に添えられたままの手がまたポンポンと背を叩いた。

「アドニスは、ルカーシュカ達以外の大天使について、知っているかい?」
「……カロン様、は、知ってます…」
「うん。じゃあ、カロンのことはどう思っているかな? 素直に答えておくれ」
「んと……最初は…ちょっと、怖かった、けど…」
「うん」
「…ごめんなさいって、伝えたら、ごめんねって、言ってくれて…心配、してくれた……優しい人、だと、思ってます…」
「そうだな。カロンの行動自体は褒められたことではないが、あの子自身は、良い子だと私も思ってるよ」
「…はい」

きちんと答えられたことにホッとしていると、再び背に優しい振動が伝わった。

「今、アドニスがカロンについて答えられたのは、カロンのことを知っていたからだ」
「……ぁ」
「カロンのことを知らなかったら、どう思っているのか聞かれても、知らないのだから分からない。答えられなかったはずだ」
「…はい」
「アドニスは、カロン以外の大天使達のことを、どれだけ知っているかな?」
「………」

…何も答えられなかった。
大天使達が担う役目や役割、在り方だけは知っていても、個々のことなど何も知らない。彼らの名前すら、自分は知らないのだ。…知ろうとすら、しなかった。
改めて問われ、それに気づくも、今はどうしようもない。
ただ何も答えられず、ふるふると首を横に振るのが精一杯で、そのまま体を縮こめれば、バルドル神の腕が優しく体を包み込んだ。

「アドニス、知らないことは悪いことじゃない。そんな泣きそうな顔をしないでおくれ」
「……ん」

その声はとても優しい。だが『知らない』ことと『知ろうとすらしなかった』ことは、きっと同義ではないはずだ。
その違いは、まるでいけないことをしてしまったかのようで、湧いた罪悪感から隠れるように、バルドル神の胸に身を寄せた。

「アドニス、皆のことをどう思っているか分からないのは、彼らのことをお前が知らないからだね」
「……はい」
「では、分かる為には、どうすればいいかな?」
「……大天使様達を…知らないと、ダメ…」
「そうだな。皆のことを知れば、カロンのように、どう思っているか自分の気持ちを答えられるはずだ」

そう言われ、ようやく自分の発した「分からない」という言葉の意味するところを理解した。
『分からない』のではなく、『何も知らない』のだ。知らないから、答えられない───分からないのだ。
ストン、と落ちた考えはひどく凪いでいて、同時に当然だとでも言わんばかりに己を責め立てた。

「ご、ごめんなさぃ…」
「お前が謝ることはないよ。…謝らなければいけないのは、私の方だ」
「…?」
「お前に辛い思いをさせたのは、すべて私のせいだ。生まれたばかりの子に気づけず、辛く、悲しい思いばかりをさせてしまった。お前が負った体の痛みも、心の痛みも…そのせいで、他の者達に怯えてしまうのも、すべて私が犯した罪だ。…すまなかった、アドニス」
「───…」

鼓膜を揺らしたその声に、じわりと視界が滲んだ。
穏やかな声なのに、痛いほどの後悔と無念を孕んだ声は泣いているようで、気づけばポタリと涙が零れていた。
どれだけ嘆き悲しんでも、泣くことすら許されない───それが、神に与えられた罰なのだと、抱き締められた腕の中いっぱいに広がる悔恨かいこんに、止め処なく涙が溢れた。

「うぅ~…」
「すまなかった。本当に、すまなかった」

零れる涙が、黒い衣服を濡らしていく。
それでも泣くのをやめられなくて、ぎゅうぎゅうと抱き締める腕に甘え、しがみついて泣きじゃくった。

「ごめんよ。ごめんよ、愛しい子」

優しい優しい神様の痛々しい声が、あやすように降り注ぐ。
辛かったあの日の記憶も、あの時泣いていた自分も、もういない。
それでも、永遠を生き続ける神様の中で、朽ちることのない後悔と共に永遠に生き続けるのだろうと思うと苦しくて、切なくて───ほんの少しだけ、救われるような気がした。




どれくらいそうしていたか。バルドル神の大きな体に抱きつき、泣いてぼぅっとしている内に、気づけば涙は止まっていた。

「アドニス、アドニスや」
「ん……」

安心感だけを詰め込んだような腕の中、ぼんやりしながら身を起こすと、間近に見えるバルドル神の顔を見つめた。

「アドニスは、他の大天使達が怖いかい?」
「………」
「素直に言っていいよ」
「……怖く、ない、って…知ってる、けど……」
「怖いかな?」
「……ん」

正確に言えば『恐怖』は感じない。だが条件反射のように、彼らのことを考えるだけで思考と体が固まり、『怖い』と思ってしまうのだ。

「それじゃあ、どうして『怖い』と思うのかな?」
「どうして……」

先ほど同様、まるで答えを探させるような問いが、バルドル神から投げ掛けられる。
その答えを見つけるべく、ゆるゆると記憶を遡り、感情の根源を探した。

「……初めて…」
「うん」
「初めて…見た…みんなが……怖かったから…」

ポツリと零れたのは、生まれたあの日の感情だった。

「みんな……きらい…大嫌いだって…、怖い顔で…睨んでた……それが、痛くて…怖かった…」
「…そうだな。じゃあ、皆はなんでそんなに怖い顔をしていたのかな?」
「…怒ってた、から…」
「うん。誰に怒っていた?」
「……アドニス……私じゃない、アドニス…様に、怒ってた…」

そこではたと、あることに気づく。
あの瞬間も、それから長い間も、ずっと皆『自分』を忌み嫌っているのだと思っていた。
だが『自分』と『アドニス』は、同じ体、同じ名前を有した別個体で、あの時、皆が怒りを向けていたのは『自分』ではない───分かっていたことなのに、改めて言葉にすれば、妙にスッと胸の内にその事実が溶け込んだのが分かった。
もしかしたら、これまでずっと、きちんと理解できていなかったのかもしれない…そんなことを頭の片隅で考えている間も、バルドル神からの問いは続いた。

「じゃあ、どうして皆はに怒っていたのかな?」
「……アドニス、様が…悪いことした…から…?」
「そうだ。アドニスが皆を傷つけ、悲しませ、酷く苦しい気持ちにさせるような、悪いことをした。だから、皆怒り、憎むような感情を抱くまでに至ってしまった」
「………」

自分は、『アドニス』の悪事も、犯した罪も、何も知らない。
ただ、バルドル神の声から滲む悲痛なまでの後悔と苦々しさからは、『アドニス』への無念と、手の施しようがなくなるまで、怒りの感情を溜めることになってしまった大天使達を想う痛みが伝わってきた。

「皆が怒っていたのは、お前ではないアドニスに対してだ」
「ん…」
「皆が怒っていたのは、アドニスが悪いことをしたからだ」
「…ん」
「皆が怒っていたのは、悪いことかな?」
「……うぅん」
「どうして悪くないことだと思う?」
「……いけないこと、したのは…アドニス、様で……みんなが、怒るようなことを、した、から…」
「そうだな。皆、怒りたくて怒っていたんじゃない。憎みたくて憎んでいたんじゃない。その感情を植え付け、与えたのはアドニスで、あの子達は無闇に怒っていた訳でも、お前を傷つけようとした訳でもない」
「…うん」
「あの子達の怒りは、怖いものかな?」
「……うぅん」
「いけないものかな?」
「…うぅん」

ゆっくりゆっくり諭す言葉が、自分の胸の底の底、生まれた瞬間に植え付けられた恐怖と悲しみを溶かしていく。
皆、怒りたくて怒っていたのではない。
皆、憎みたくて、憎んでいたのではない。
きっと、もうどうしようもないところまで、その感情が膨れ上がっていた。
そうして耐え切れなくなり、限界を迎えたのが、自分が生まれた、あの日のあの瞬間だったのだ。

「皆がお前を嫌っているのではない。お前に怒りをぶつけているのではない。傷つけたかったのでもない。それは分かるね?」
「…うん」
「皆が怒りの感情を抱いていたのも、決して悪いことではない」
「…うん」
「あの子達は、怖いかな?」
「……うぅん」
「うん、良い子だ」

抱き締められたまま、ゆるゆると頭を撫でられ、気持ち良さに瞳を細めた。
ふと気づけば、身に染みつくように張り付いていた名も無き恐怖は、その姿を消していた。

「アドニス」
「ん…」
「アドニスは、あの子達が嫌いかな?」
「う、うぅん…」
「では、好きかな?」
「………」
「分からないかな?」
「……うん」
「どうして分からないかな?」
「……知らない、から…」
「そうだな。知らないから、好きか嫌いかも分からないな」
「…ん」

バルドル神の言葉に、少しずつ、少しずつ、自分の気持ちがある方向に向かって形を帯びていく。
朧げなその形の輪郭をなぞれば、自ずとバルドル神の言いたいこと、望むこと、その先が見え、妙に思考が冴えていくのが分かった。

「先日、お前のお披露目をした時、ほんの少しでも、恐怖を感じるようなことはあったかな?」
「……ない、です」
「そうだな。もう誰も、お前とアドニスを混同していない。お前を傷つけるような感情を向けている者は、誰もいないよ」
「…うん」
「お前の身を案じている者だっている」
「え…?」
「息災でいるか、日々つつがなく過ごしているか、心配している者もいるんだよ?」
「……カロン、様…?」
「カロンもだし、カロン以外の者もだ」

思ってもみなかった言に目を丸くしていると、バルドル神の指先がそっと目元を撫でた。

「アドニス。先日のお披露目で、皆はお前のことを知ったよ。今度は、お前が皆のことを知る番だと思うが、どう思うかな?」

微笑む顔はとても穏やかで、その声に強制的な響きはない。
どう思うか、その答えを、完全にこちらに委ねてくれていた。
そしてその『答え』は、自分の中で、もう出ていた。


「……自分も、みんなのこと、知りたい…です」


発した声は、僅かに震えていた。
恐怖は無くなっても、戸惑いはある。緊張もする。恐怖とは別の意味で、どうしても怯えてしまう。
それでも、今のまま、何も知らないままでいてはいけないのだと、自分の意思で思うことができた。

「頑張ったな、アドニス」
「で、でも、その…あんまり、いきなりは…」

嬉しげに笑むバルドル神に再び頭を撫でられ、ほんの少しの誇らしい気持ちと申し訳なさを混ぜ、もじもじと身を捩る。

「安心なさい。いきなり皆のことを知るなんて無理だ。ゆっくりでいい。一人ずつだっていい。少しずつ、あの子達のことを知ってくれたら嬉しい」
「…はい」
「勿論、皆と仲良くしなさいとは言わないよ。相手を知ることで、苦手だと思うこともあるだろう。それはそれでいい。アドニスの気持ちを、大事にしなさい」
「…はい」

ゆっくりでいいと言ってもらえ、胸が軽くなったのが分かった。知らず強張っていた体から力を抜き、バルドル神に身を預ければ、やんわりと体を抱き締められた。

「愛しい子や、どうか皆を恐れないでおくれ。嫌うのも、恨むのも、父だけでいい」
「っ!? き、きらっ、てない、です…!」

あまりにも唐突な発言にギョッとする。
弾かれるように身を起こせば、儚げに微笑むバルドル神と目が合った。

「お前に辛い思いをさせたのも、傷つけたのも私だ。許してくれなくていい」
「そ、そんな、こと…」

なぜそんな悲しいことを言うのか。
途端に広がった悲しみに唇を震わせれば、不思議な色を宿した双眸が真っ直ぐ自分を見つめた。

「許さなくていいんだ、アドニス」

その声は強く、否定してはいけないのだと察するには充分だった。
許さないことが、神に対する唯一の『赦し』になる───言葉にされずとも、知らずとも、分かってしまった真理。

それでも頷くことなんてできなくて、苦い気持ちから俯いて唇を喰めば、覗き込むようにバルドル神の綺麗な顔が鼻先に寄った。

「アドニス?」
「……む」

穏やか声に、ふくりと頬を膨らませる。
ずっとずっと、優しかった神様。
生まれた瞬間から、怖くなかった唯一人の神様。
ずっと自分の身を案じ、無事を喜んでくれた神様。
それなのに、憎んでも恨んでもいないのに、「許してはいけない」と言われ、悲しみと共に不満が膨れた。

(………やだ)

言葉にはしない。言ってはいけないことだから、言わない。
その代わり、唸るように心の中で「否」と呟くと、覗き込む顔を見つめ、「はい」でも「いいえ」でもない言葉を告げた。

「私は、バルドル様が、大好きです…!」

それ以外の答えなどない。
強い意志を込め、煌めく瞳を見つめ返せば、一瞬だけ微笑みが消えた。
呆けたような表情で、僅かに瞳を見開いたバルドル神。だが、その表情はすぐに甘く崩れ、蕩けるような微笑みに染まった。

「…ありがとう、アドニス。私も、お前が大好きだよ」

言葉と共に、頬に柔らかな唇が触れた。
親愛の情を込めたからの口づけは擽ったくて、嬉しくて、へにゃりと頬が緩んだ。


互いに頬を緩ませたまま、バルドル神の腕の中、他の大天使達とどう向き合っていくか、思考を巡らせる。

(一人ずつなら……大丈夫…かもしれない)

勿論、一対一で向き合えるような勇気はない。そこまで強くない。でも、エルダやイヴァニエ、ルカーシュカが側にいてくれたなら、頑張れる気がした。

(…みんなに、お話ししてみよう)

バルドル神と話したこと、自分の気持ち、芽生えた意志。
それを全部話して、その上で、どう動くのが最善なのか、皆の話を聞きたいと思った。

(初めてお話しするのは、カロン様になるのかな…?)

現時点で、唯一接点のある人物が彼だ。まったく知らない誰かではなく、少しでも知ってる人の方が安心かもしれない…そんなことを考えていると、バルドル神にポンポンと背を叩かれた。

「アドニス、初めての友だが、オリヴィアはどうかな?」
「…オリヴィア?」

思いがけない発言に、バルドル神を見つめ、次いで背後に佇むオリヴィアを見つめる。
今の今まで気配を消していたオリヴィアだが、目が合うと淡く微笑んでくれた。

「必ずしも大天使と友交を深めなさいということはない。純天使同様、他の者達とえにしを結ぶことも大切なことだ。オリヴィア」
「はい」

バルドル神の呼び掛けに応えるようにオリヴィアが動き、傍らに立った。
バルドル神の膝の上、立った状態よりも近くなった少年の顔を見つめれば、彼が胸に右手を添え、ニコリと笑んだ。

「短いお時間でしたが、アドニス様とお話しするのは、とても楽しゅうございました。叶いますならば、今後も良き縁が続きましたら嬉しく思います」

オリヴィアの言にパチリと目を瞬きながら、ゆっくりと首を傾げる。

「……オリヴィアと…お友達になるの…?」
「アドニス様が、望んで下さいますならば」
「…お友達になったら、なにをしたらいいの…?」
「何かをしなければいけないという決まり事はございません。お話しをしたり、共に過ごすお時間を楽しめれば良いのです」
「ふ……ん…?」

そう言われるも、『友』という関係がいまいち想像できず、首を傾げたまま頭の中の知識を掘り起こす。
話しをして、共に過ごす時間を楽しむ…そう言われて思い浮かぶのは赤子達の姿で、あの子達と同じように過ごせばいいのだろうかと首を捻りつつ、想像を膨らませた。
エルダによく似たオリヴィアは、話していてとても心地が良い。
柔らかな口調も、優しい笑みも安心感があり、もしもこの先、今日と同じように言葉を交わし、過ごす時間が増えたなら───それはとても嬉しく、素敵なことに思えた。

「……オリヴィアは、私と、お話ししてくれる…?」
「ええ、喜んで」
「…私から、オリヴィアに、話しかけても、いい?」
「勿論でございます」
「…なら……お友達に、なってもらえたら…嬉しい、です」
「私も嬉しく思います、アドニス様」

瞳を細めて笑うオリヴィアに、つられるように頬が緩んだ。
『友』の定義はまだ分からない。それでも今は、オリヴィアと共に笑っていられるだけで嬉しかった。へにゃりと崩れた表情のまま見つめ合っていると、頭をやんわりと撫でられた。

「良かったな、アドニス」
「はい…!」
「ふふ、お前は本当に素直で良い子だな。良い子のアドニスに、父からご褒美をあげよう」
「う?」

言葉と共に、頭を撫でていたバルドル神の手が離れた。次の瞬間、広げられた手の平の上には、羽根の形を模した煌めく金色の装飾品が現れた。

「…? これは…?」
「これは奥の宮に出入りする為の『鍵』だ。これを身に付けていれば、自由に此処に出入りできるようになる。これをあげるから、いつでも父の所に遊びにおいで」
「え?」
「えっ」

あまりにも予想外の『ご褒美』に声を漏らせば、それと重なるようにオリヴィアの声が聞こえた。
反射的にそちらを向けば、なんとも形容し難い表情でバルドル神を見つめるオリヴィアがそこにいた。

「…?」
「首飾りとして身に付けていれば、無くさないだろう」
「あっ…」

バルドル神が軽く指先を動かせば、どこからともなく淡い金色の細いチェーンが現れ、首元を一周した。そのトップに『鍵』と呼ばれた翼を模した金色の装飾が付き、受け取っていいのかどうかすら分からないまま、半ば強制的に受け取ることになってしまった。

「え、と…こ、これ…」
「それがあれば、宮廷の私の私室から、いつでも此処に遊びに来れるからね。私室も、いつでも好きに入ってきなさい。中で遊んでいてもいいし、アドニスの好きなように過ごすといい」
「う……と…」

そう言われて「はい」と答えられるほどの素直さはない。
奥の宮は、バルドル神の許可がなければ入れない場所だと聞いている。そこに自由に出入りしていいというのは、果たして良いことなのだろうか?
ましてや神の私室で遊ぶなど、あってはならないことだと思うのだが…返事に迷い、オロオロとしていると、バルドル神が困り顔で微笑んだ。

「要らなかったかな?」
「い、いえ! ちがっ、あの、だ、だって、その…ここは、だって…勝手に入っちゃ…」
「そうだな。本来であれば、私の許可なく立ち入ることはできない。だがプティ達は自由に出入りしている。他の天使達も、皆純天使の頃は、此処で好きに遊んでいた。…アドニス、お前にだって、その資格があるんだよ?」
「…!」

そこでようやく、与えられた『鍵』の意味に気づき、ハッとする。
バルドル神にとって、自分は幼い天使達と同じ存在なのだ。
同じ存在だからこそ、歪な生まれの自分でも、彼らと同じように接し、同じように遇し、同じ子として愛してくれる。
渡された『鍵』は、天使のことわりから外れた自分でも、形だけでも彼らと同じような生を歩めるように…と願ってくれたバルドル神の愛情だ。

「っ…!」

途端に込み上げた切なさと喜びに、胸が締め付けられ、視界が霞んだ。
例え『鍵』があっても、自分が赤ん坊達とまったく同じように過ごすことは、恐らくもうできないだろう。
それでも、他の皆が過ごした時間と同じ経験を与えてくれようとする愛情が嬉しくて、涙が溢れそうだった。

「…ありがとう、ございます。とっても、嬉しいです…!」
「喜んでくれて嬉しいよ。いつでも遊びに来ていいから、これからは父ともたくさん遊んでおくれ」
「はい…!」

それが神様の願いならば、自分はそれに応えたい。
本心のまま、勢いよく返事をすれば、嬉しげに瞳を細めたバルドル神に再び抱き締められた。



その後、バルドル神とオリヴィアと会話を楽しみ、残っていたミルクを飲み干すと、宮廷に戻ることになった。オリヴィアが宮廷まで送ってくれるらしく、バルドル神とはこの場でお別れだ。

「気をつけて帰りなさい」
「はい」

最後に頬を一撫でされ、バルドル神の手が離れると同時に、オリヴィアに横抱きにされた。
湖の真ん中までは船でやってきたが、帰りはオリヴィアが抱きかかえて転移門まで連れていってくれるらしい。

「よろしいですか、アドニス様」
「う、うん」

重さは関係ないとはいえ、流石に申し訳なさが募る。せめて飛行する彼の邪魔にならないようにと、少年の細い肩をしっかりと掴んで体を固定した。
直後、オリヴィアの背に広がった真白い翼。その翼がバサリと羽ばたけば、体がふわりと宙に浮いた。

「またおいで、アドニス」
「はい…!」

こちらを見上げるバルドル神を見つめ、精一杯の大声で返事をすれば、穏やか『父』の顔で手を振ってくれた。



「アドニス様、恐れながら、お願いがございます」

遠くなっていく湖の上、充実感と寂しさを胸に、小さくなっていくバルドル神の姿を見つめていると、不意にオリヴィアに声を掛けられた。

「なぁに?」
「今後、奥の宮にいらっしゃる時は、必ず私にお声を掛けて下さい。決してお一人でいらっしゃいませんよう、お約束して下さいませ」
「? どうして?」
「奥の宮には、イヴァニエ様とルカーシュカ様は勿論、エルダもバルドル様の許可がなければ立ち入ることができません。お越し頂けるのは、アドニス様お一人だけです」

どこか固い声のオリヴィアに素朴な疑問を投げ掛ければ、予想外の返事が返ってきた。

「…みんな、来れないの?」
「はい。残念ですが、そちらの『鍵』はアドニス様しか使えません」
「そう、なんだ…」

無意識の内にエルダ達と共に奥の宮に来ようと考えていたせいか、思わぬ事実にショックを受ける。
寂しさに悄気るも、「遊びにおいで」と言ってくれたバルドル神との約束は破りたくはない。
例え一人で訪れることになっても、来たいと思うのだが…そこでオリヴィアの先ほどの発言を思い出し、彼を見つめた。

「えっと…、オリヴィアに声を掛けたら…一緒に来てくれるの?」
「はい。エルダの代わりに、お供致します」
「…一人でも、大丈夫だよ? 小っちゃい子達も、一緒だと思うし…」
「いいえ、プティが共にいてもあぶ……アドニス様とプティでは、開けていいお部屋と開けてはいけないお部屋の判断が難しいかと思います。万が一、何かあっては大変ですから」

そう言われ、「なるほど」と頷く。
赤ん坊達は閉じられた扉や窓を開けることができないが、自分はできてしまう。もしも開けてはいけない扉を開けてしまい、それが元で事故でも起こしてしまったら大変だ。

「でも…オリヴィアは、バルドル様のお側にいないと、いけないでしょう…?」
「ご安心下さいませ。私がいなくても、代わりは何人もおります。ですから必ず、必ず私にお声を掛け下さい。お一人で来てはいけませんよ?」
「う、うん」

爽やかだが有無を言わさぬオリヴィアの圧に気圧されつつ返事をする。もしかしたら、ここには立ち入ってはいけない区画が多いのかもしれない…危ない道を避けるべく、オリヴィアの言葉をしっかり胸に留めていると、やがて転移門が見えてきた。

「さぁ、着きましたよ」
「あ、ありがとう」

慎重に降り立った地面の上、踏み締めた暖かな草の感触に、ホッと息を吐いた。
久しぶりに自身の足で立っていることに感動しながら、オリヴィアに手を引かれ、ヴェールが緩やかに波打つ白い建造物に向かって歩き出す。

「本日は、楽しかったですか?」
「うん、楽しかった」
「それは良うございました」

柔らかな草の上を歩きながら正直に答えれば、オリヴィアがふっと笑ってくれた。

「恐らく、お戻りになってからが大変になるかと思いますが……ご武運を」
「え?」

ポツリと呟かれたオリヴィアの言葉に首を傾げながら、ヴェールの間をくぐり抜ける。
瞬間、来た時同様、周囲の景色が自分だけを残し、ザァッと後ろに流れ、一瞬の間に元いた宮廷の一室へと帰ってきた。

「アニー!」
「帰ってきたな…!」
「アドニス様…!」

瞬間的に変わった景色が不思議で、パチパチと目を瞬いていると、耳に馴染んだ声と共に、視界に愛しい人達の姿が映った。

「イヴ、ルカ、エルダ…!」

こちらに駆け寄る三人に、胸に広がったのは安堵と喜びだ。
咄嗟に手を繋いだままのオリヴィアを見遣れば、彼はこちらが何かを言う前に、そっと手を離してくれた。
彼の手を離れ、三人の元へと駆けるように向かえば、先頭にいたイヴァニエが大きく腕を広げてくれた。
広げられた腕が嬉しくて、嬉しくて、それに応えるように自身も腕を広げると、イヴァニエの胸に飛び込むように抱き着いた。

「っ…!」

大きくて、温かくて、居心地が良くて、安心感があったバルドル神の腕の中。
その腕の中よりも、深い安心感に包まれる大好きな胸の中、痛いくらいの締め付けに安堵を覚えながら、イヴァニエの体をぎゅうっと強く抱き締めた。

「ただいま…!」

ああ、帰ってきた───半日にも満たない別れの末の再会は、目一杯の愛しさに満ちていた。
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