遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花

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53話 拒んでいたはずの人

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※本話は過激な描写を含みます。
ご注意のうえお読みください。



「ブ、ブラット坊ちゃん!
 お父様は、今どちらに!?」
 
絹の仕入れを巡る重大な問題に、セオドリックは慌てて廊下を駆けるブラットを呼び止めた。
 
「そ、それより大変なんだ!
 兄さんが……
    兄さんがいないんだ……!」
 
「キリアン坊ちゃんが!?」
 
ブラットは息を呑み、すぐさま庭へ向かう。しかし、そこにもキリアンの姿はない。
 
「兄さん、様子が変だった……
 み、みんなに知らせなきゃ!!」
 
その一言をきっかけに、カイロの屋敷は騒然となった。
使用人たちが総出で屋敷中を探すが――キリアンはどこにも見つからなかった。
 
「兄さん、一体どこへ行ったんだ……」
 
――
 
屋敷へたどり着いた騎士たちは、扉の前で整列した。
その一人が、皇帝直々の魔女捕縛の勅書を高く掲げる。
 
ダニエルは短く息を吸い、指先に力を込めて静かに扉を押し開いた。
 
胸の奥には、複雑で冷たい感情が渦巻いていた。
心も体も、一人の女に狂わされ、支配されてきたという――
ただの疑念だったはずのものが、今、証明されようとしている。
 
ダニエルは屋敷の内を見据え、皇室の騎士たちへうなずき、入るよう合図した。
 
暗く沈んだ室内に、一瞬の静寂が漂う。
その直後、騎士たちは雪崩れ込むように屋敷の中へ進んだ。

 
――しかし、そこにはノアの姿はなかった。

 
騒がしい外の気配。
馬の蹄の響き、見慣れぬ旗。

ノアは寸前のところで、身の危険を感じ、外へ飛び出していた。
 
「はぁ……はぁ……っ……」
 
雪を蹴散らし、必死に駆け出す。
ドレスの裾が凍てつく地面を擦り、白い粉を巻き上げる。
息は乱れ、髪も顔に絡む。
 
体力のない足はもつれ、何度もつまずいた。
泥雪の冷たさが鼻先を刺す。
 
ノアはたまらず仰向けに倒れ、震える息を上げた。
もう、一歩も動けそうにない。
きっと、見つかるのも時間の問題だ。
 
皇室の騎士は、確固たる証拠がなければ動かない。
邪術のことは、必ず明るみになる――
 
「…くっそ!!
 …あ゙あ゙ぁ……っ……」
 
空に向かって手を伸ばすと、かつての美しさを失い、黒く変色した指先がそこにあった。
 
「わたしだって、本当は……
 邪術なんて……」
 
滲む涙で視界は歪む。
だが、その目には、恐怖よりも執着の光が宿っていた。

「……わたしは腹の子を……
 な、なんのために
    犠牲にしたの……?
 こんな……こんな……っ……」
 
――ノアにとって苦痛に歪んだ記憶。

それは、ダニエルを手に入れるため、自ら腹を差し出した日。
犠牲は恐ろしく、痛みも耐え難かった。
 
煙が立ち込める小屋。
血の儀式の跡、床に縛り付けられた自分。
耳に伝わる刃を研ぐ音に、恐怖で全身が震える。
 
「――始めるぞ……ククッ……」
 
腹を裂かれ、子を取り出された。
 
「二度と、子は授かれんな……
    ククッ……」
 
苦痛に顔は歪み、意識が薄れる中でも、ダニエルへの思いは増すばかりだった。

もう、後悔という感情は、とうに壊れていた。
残っているのは、ただ一つ――彼を失いたくないという執着だけ。
   
グッと腹を押さえ、ノアは体を起こす。
 
「ダ、ダニエルを……
   う、失うわけにはいかない……
 だって、それなら、あの子は……
 フフフッ……」
 
恐怖と狂気が入り混じる、不自然な笑み。
 
「なんで、わたし笑って……?
 どうしちゃったの……え?
 フフッ……ッ…」
 
――その時、声が響いた。
 
「――ノア!!」
 
目の前に立つダニエル。
 
騎士たちが屋敷の内部を捜索する中、ダニエルだけは、外へ続く足跡を追ってここまで来ていた。
  
ノアは笑みを作り、襟を正し、髪を整える。
 
「――ひ、久しぶりね……」
 
恥じらう仕草に、ダニエルは眉を顰める。
 
「ダ、ダニエル……あの……」
 
雪で隔たれていた日々――
会えなかった時間に押し込めていた感情が、突如として噴き出す。
 
息は荒く、体は震える。
――わたしの愛しき男。
 
恐怖も痛みも、一瞬で心の奥に沈む。
心は、ただ彼に囚われていた。
 
「……とても……
    会いたかった…っ……」
 
不自然で、狂気じみた笑み――
ダニエルは耐えきれず、軽蔑の声を漏らす。
 
「なんて姿だ……
 まるで、歩く屍だ……」
 
その声に、ノアの息が詰まる。
 
雪の上か、沼の上か――
立っている地面すら、もはや判断できない。
 
「ど、どうして……
   そんなこと言うの……?」
 
「鏡を見たか……?
 何がどうなったら、
    そんな姿に……」
 
蔑み、見下し、嘲り。
その全てを、ダニエルの青い瞳から、ノアは感じ取った。
 
ノアは悟る。
彼はずっと、自分を軽蔑し見下していた。

いや、彼の本当の優しさは、幼い時のほんの一瞬だけだった。
 
結婚の承諾を彼からではなく、ダニエルの父にすがったのは、彼から拒まれることが、初めからわかっていたからだ。 

怒りで、ノアの瞳孔が激しく揺れ動く。
そして、視線の先にあった棒を拾い上げた。
 
「こんのぉ……くそ男……
 こ、殺してやる……っ……」

殺気と狂気――
その瞳には、この男だけを愛し続けた末の虚しさが滲んでいた。

ダニエルは嘲るように鼻で笑う。
 
「……出来るものか……
    じきに、騎士たちも
    駆けつける。
 逃げ切れると、思うな。」
  
ダニエルは躊躇なく剣を抜いた。

この悪縁を、自らの手で断ち切る――
矛先はノアへ――

「やめてー!!父さんっ…
 お願いですから!」

馬に乗り駆けるキリアン。

ノアを守るため、父の前に必死に立ちはだかる。
 
「お前がなぜここに!?
 キリアンっ!そこを退け!!」
 
「い、嫌ですっ……!!」
 
キリアンの跨がる馬は、ノアを見た途端、息を荒くし暴れ、蹄が雪を叩きつける。
 
冷や汗を浮かべるキリアンは、必死に手綱を握り締め、暴走を抑えた。
 
「見ろ!もう、お前の知る
    ノアはいない!
 馬ですら彼女を恐れている!
 いいから、そこを離れろ!」
 
「関係ありません!
 ノアは、ノアです!!」
 
わずかな隙を狙い、ノアの手がキリアンの袖を掴む。

「ノ、ノア……やめてっ…!」
 
――二人の間に、時間が凍りついたように張り詰める。
 
「キリアンから離れろ!!」

――これで剣を振るったら、キリアンまで危ない。
 
ダニエルは迷うことなく剣を捨て、走った。

「ははっ……バカね!」
 
馬から落ちそうになるキリアンを、ダニエルは抱えようと手を伸ばした。

するとその隙に、ノアは棒を捨て、剣を拾いあげると、一突き。
矛先はダニエルだった。
 
それは刹那。

――ダニエルの視線の先に、幼き頃のノアの姿が過ぎる。
それは、青晶のついた櫛を大事に抱きしめる少女の姿。
 
「……っぐ……っ…!!」
 
泥雪に血飛沫が散る。
 
ダニエルは、食い込む刃をものともせず、暴れる馬から落ちそうになるキリアンへ、なおも手を伸ばした。

「フフフフッ……
 あははははっ……!」
 
笑いの奥深く、渇いた声にノアの悲鳴とも似た叫びが滲む。

「……キリア……
    大丈夫だ……っ…おいで……」
  
雪を蹴り上げ、もがく馬の揺れに翻弄されながら、ダニエルは腕に力を込めた。

揺れる馬の背で、耐えきれなくなったキリアンが滑り落ち、下で待つダニエルの胸に抱きかかえられるように倒れ込んだ。
 
「…と、父さん…ッ!?
 
遠くで群れをなす馬の蹄の音が響く。

ノアは、暴れる馬の手綱を器用に掴み、その背に急ぎ跨がった。
 
「わたし、乗馬は得意なのよ……
 あなたの父親とは、よく馬で、
    逢瀬を楽しんだから……
 フフッ……フフフ……」
 
得意げに笑みを浮かべ、ノアはキリアンへ視線をやった。
 
「また会いましょうね、
   キリアン。」
 
雪原を駆け抜け、ノアはそのまま走り去っていった。

「あ゙ぁ……っ
    父さん……父さん!!」

震えるキリアンの手には、ダニエルの血がべっとりと付いていた。

――僕は、父さんを避けていた。
でも今は、もうその理由がわからない。
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