遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花

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55話 イネス、目覚めの刻

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僕と兄さんは、もうすぐ学術院入学だ。
本来なら、今頃二人で準備に追われているはずなのに、キリアンはまだメッカから帰ってこない。
 
――後から、キリアンの手紙で知ったけど、父さんはノアに刺されて大変なことになっていたらしい。
 
正直、あのノアならやりかねないと思ってしまった。
昔はノアが好きだったのに、今ではあの目つきも、話し方も、なんだかおかしく感じる……。
 
「ノア……
 いつも怖い顔してたな……」
 
――僕は、ふと考えたことがある。
兄さんを傷つけたのは、
本当はノアなんじゃないかって……
 
「………こんなこと、
 思ったらいけないのに……」
 
ノアは、母のような存在だった。
だから、疑ってはいけないと、ずっと思っていた。
 
母の眠るベッド。
冷たいシーツに身を沈め、ブラットはそっと横になった。
 
「うん。
 本当の母さんは、やっぱり違う。
 綺麗だし、優しいし……」
 
母の顔を覗き込むブラットの笑顔には、迷いがなかった。
  
父さんには兄さんがついてる。

「母さんのことは、
 僕が守ってあげるからね。」

ブラットは額を、母の肩にぎゅっと寄せた。
 
――コンッ コンッ
 
「――あの、ブラット坊ちゃん……
 奥様のお父様である、
 ローラン・バーンズ様が
 お越しになっているのですが……」
 
カイロ屋敷の執事――彼の名はビリー。
主は不在、伯爵夫人はいまだ目を覚まさない。
そのうえでの、夫人の父の来訪だった。
ビリーは困った顔で、ブラットを見つめた。
  
「……母さんの、お父さんと
 いうことは、僕のおじい様?
 ビ、ビリー、すぐに案内して!
 どこにいるの!?」
 
ブラットにとって、いまだ会ったこともない祖父。
好奇心と胸の高鳴りでいっぱいになり、ベッドから飛び降り、部屋を駆け出した。

跳ねるようなブラットの足音は、遠くでかすかに反響した。
彼の姿が見えなくなると、部屋には静けさだけが残された。

 
そして――イネスの指が、ぴくりと動いた。
 
ほんのわずかな痙攣。
呼吸が変わったわけでも、瞼が揺れたわけでもない。
それは、眠りの底で何かに触れてしまった者の、反射のような動きだった。
 
長いこと目を覚まさないその意識は、光も音も届かない、重く湿った暗闇に沈んでいる。
 
――逃げ場はない。
胸の奥に、じわりと広がる圧迫感。 
声にならない悲鳴だけが、体の内を巡る。
 
それは夢ではなかった。
これは、過去だった。
忘れたはずのそれが、形を変えて、再びイネスを捕らえていた。
 
   
生まれたばかりの小さな手。
柔らかな重み。
胸に押し当てられた、温もり。
 
きっと、胸に抱けていたら、その全てを感じ取ることが出来ただろう。
 
命を懸けて赤子を生み落とした、その直後。
視界は滲み、意識は静かに遠のいていった。
 
意識が途切れる中で伸ばした指の先に、イネスが見たのは――ノアの姿だった。
   
「可愛いわ……」
 
ノアのその声は、優しく、慈しみに満ちていた。
だからこそ、残酷だった。
 
――なぜ、あなたが抱いているの?
――なぜ、あなたが泣いているの?
 
生まれたばかりの我が子は、一番憎むべき存在――夫の愛人の胸に、何の躊躇もなく抱き取られていった。 

「あぁ可愛いな……
 お前の名前はブラットだ。」

赤子は、ノアの腕からダニエルの腕へと渡された。
その仕草はあまりにも自然で、まるで――最初から、二人の子であるかのようだった。
 
喉の奥が焼ける。
体は動かない。
奪われる感覚だけが、鮮明だった。
 
「その子を返してぇぇえ……っ!!」
 
叫びは空気を震わせただけで、現実は、何一つ変わらなかった。
 
その後、産褥の熱と病が、イネスの体と心を、ゆっくりと侵していった。
 
――治らなければ。
――生きなければ。
 
そう思うほど、この屋敷に巣食う“乳母の顔をした女”の存在は、鉛のように胸へと沈み込み、イネスの心に、逃れようのない影を落としていった。
 
「……布を、買ってほしいの」

それは装飾品でも、嗜好品でもなかった。
長く床に伏せていた彼女が望んだのは、ただの布だった。

「――布?」

「ええ……」
 
イネスは小さく息を整え、続ける。
 
「あの子達に、服を作ってあげたくて」

針を持ち、布に触れ、刺繍を施す。
それなら、ベッドの上でもできる。
それだけが、今の彼女に残された――母である証だった。

「くだらない。」

ダニエルは、イネスの願いを鼻で笑い一蹴した。
そしてその後、しばらく部屋には訪れなかった。

扉越しに、かすかに聞こえる、ダニエルとノアの声。
そしてそれに混じり、キリアンの幼い笑い声。

原因不明の熱。
子供たちに移したら大変だ。
イネスは会いたい気持ちをグッと堪えた。

そんな中、イネスは自分の服を利用してキリアンとブラットの服を作り上げた。

ノアと、ダニエルに知られれば、きっとそれは捨てられてしまうだろう。
 
ダニエルから贈られた品の一つのブローチ。
イネスは、それを使用人に握らせ、こっそり二人に着せるように頼んだ。 

二人が揃いの服を着る、愛らしい姿が目に浮かんだ。
 
――しかし、次の日。
それを手にしたノアが、目の前に現れた。

「こんな使い古しの布で
 作った服を、ご親切にも、
 あの子たちに届けてくださった方が
 いらっしゃるんです……。
 わたしがここにいる間は、
 あの子たちのことは、すべて
 わたしが決めますので、
 奥様はどうか、ご無理なさらず、
 療養することだけを
 お考えください。」
 
ノアはそう言って、目の前で服を切り裂いた。
 
布が裂ける音が、やけに大きく響いた。
それは、怒号でも、罵声でもなかった。
ただ、乾いた音だった。
 
イネスは、何も言えなかった。
怒りも、悲しみも、涙さえも、胸の奥で絡まり合ったまま、形にならない。
 
――ああ。
――もう、だめなのだ。
 
針を持つ意味も、
布に触れる理由も、
母であろうとする、その行為さえも――
ここでは、許されない。
 
「ここに、わたしの味方はいない。」
 
そのことだけが、はっきりと分かった。
弱っていたイネスは、そこで折れてしまった。
 
針も糸も、服を作る道具は、引き出しの奥へと仕舞われた。
まるで――
最初から、そんなものは無かったかのように。


『……ああ、苦しき』

 
蠢く黒一色の世界に、
異物のような声が、静かに染み入る。

イネスの指が、再び、かすかに動いた。

『契りなく力を振るえば、  
 石とて、眠りを免れぬ。  

 ――遅くなったな。  
 汝、そろそろ目覚めの時ぞ。  
 愛を、掴むがよい。』
 
イネスは、静かに息を吸った。

怒りの再燃。

――もう、許さない。
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