遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花

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56話 失う怖さ

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怒りに震え、孤独な夢から目を覚ますと、そこにはブラットと、涙を流す父の姿があった。
 
そしてまず知ったことは――
「自分が何ヶ月も眠っていた」ということ。
 
胸に飛び込んできたブラットは、声を詰まらせながら涙を流していた。
そして父は、数年前に会った時よりもシワが深くなり、年月の重みを感じさせた。
 
あまりの突然の出来事に、頭がついていかない。
 
「……心配したんだ……
 もう、母さんの目が覚めないん
 じゃないかって……」
 
「……お前の意識が戻らないと
 手紙で知った時は、どれほど……
 し、心配したんだぞ……」
 
ブラットの泣き顔は、父にそっくりだった。
祖父と孫。血縁の濃さを強く感じる。
 
渦巻いていた怒りと焦りの感情は、一瞬で消えた。
夢の中の苦しみ――そんなものは、これから乗り越えていける。
そして同時に、過去に縛られていた自分の心が、そっと解けていくのを感じた。
 
私は、一人じゃない。
イネスは笑い、涙を零す。
 
もう、闇雲に過去に捕らわれる必要はない。
イネスはブラットと父を、力いっぱい抱きしめた。
 
「愛を掴め」
 
子供のように声をあげ、涙を流す――
まるで全てを洗い流すように。
 
抱きしめながら、イネスは一度深く息を吸い込んだ。
その瞬間、過去の痛みも、怖れも、少しだけ遠くに押しやられるようだった。
 
「……っ……キリアンは?
 それに、ダニエル。
 みんな、どうしているのかしら」
 
目元を押さえ、イネスは尋ねた。
 
しかしブラットの表情は硬く、不安を覗かせる。
 
「……父さんが、ノアに刺されて……
 状態はあまり良くないんだ……
 二人とも、メッカにいる……」
 
目の前は、一瞬にして暗く淀む。
 
「……ノアに刺されて?」
 
「ノアは……逃げた。
    父さんのことは、みんなが、
   もう大丈夫だって言うけど……
 母さんの薬がもう無いみた――」
 
イネスは最後の言葉を待たず、靴を探し支度を始めた。
ここがどこかすら分からない――でも、体が動いた。
 
――上着……ない。
 
父がイネスに自分の上着を掛けた。
抑えた涙が再び滲む――でも、立ち止まる暇はない。
 
「……お父様…っ……あの……」
 
「早く行っておいで。
 私は、ここでブラット君と
 待っているから。」
 
父の眼差しは昔と変わらず、上着に残る温もりが幼い頃の安心感を蘇らせた。
 
「お父様……
 たくさん、話したいことが
 あるんです……」
 
「あぁ、わたしもだ。」
 
二人は目で短く言葉を交わす。
 
「お父様。行ってまいります。
 ブラットをお願いします!!」
 
「ブラット。
 行ってくるわね!」
 
「……うん、寂しいけど待ってる。
 きっと、父さんには……
 母さんが必要だから。」
 
「……そうね。」
 
イネスは馬を借り、メッカへ駆け出した。
 
自分を疎ろにし続けた夫、ダニエル。
裏切られた――そんな言葉だけでは足りないほどの心の苦痛。
 
けれど、どうしてもダニエルの笑った顔が、頭をよぎる。
 
――初恋とも違う、もっと生々しい感情。
恨んで……許せなくて……
別れたくなったことは、何度もあった。
 
でも、嫌いになれたことはなかった。
その矛盾に、自分への小さな苛立ちもある。
 
確かめたい。
一体、わたしはどうしたいのかを……。
 
馬の蹄の音が広場に響く。
メッカに辿り着いたイネスを見た誰もが、言葉を詰まらせた。
意識不明――長く眠っていたはずの伯爵夫人が駆けてきたのだから。
 
「ダニエルは…っ!?」
 
使用人に案内された先――そこにはベッドに横たわるダニエルと、それに寄り添うキリアンの姿があった。
 
呼吸を整える前に、イネスは叫んだ。
 
「ダニエル…っ……!!」
 
そして、気づいたら、キリアンを抱きしめていた。
無意識に手が伸びた――きっと、辛かったに違いない。
 
「父さんが……っ……」
 
腰に回ったキリアンの腕から伝わる震え。
  
ダニエルへ視線をやると、彼の状態があまり良くないことがわかった。
瞼は半ば閉じられ、動かすこともなく、呼吸だけがかすかに胸を上下させていた。
 
「……キリアン、薬がないのね?」
 
「……うん……
 少し良くなったんだけど、
 薬が無くなったら、また意識が……」
 
――時間が無い。
感傷に浸っている場合ではない。
 
「大丈夫よ!
 薬はちゃんとあるもの。」
 
原料は寒木。
毒の解毒など、効能は様々。
母が遺してくれた手記によって、これまでイネスは数々の薬を作り出してきた。
 
イネスは使用人のひとりを呼び、声を震わせながら命じた。
 
「……裏の山に生えている、
 寒木の木の皮を剥がしてきて
 ちょうだい!」
 
「……へ?」
 
「早く!行って…っ!」
 
使用人は慌てて頷き、部屋を飛び出した。
 
キリアンの涙を、袖で拭った。
イネスはそっと微笑む。
 
「……大丈夫だから」
 
「う、うん……うん。」
 
「ダニエル、死んだら駄目よ……」
 
ダニエルの頬を軽く撫で、イネスは部屋を後にした。
向かった先は罰部屋。
 
――そこからのイネスの行動は早かった。
扉を押し開けると、薬草の乾いた匂いが鼻を突いた。
 
――久しぶりに嗅ぐ香り。
忌まわしき部屋だったはずなのに、どこか懐かしさを感じた。
 
よかった……そのまま……
薬を作れるわ。
 
揃えた寒木の皮を、すり鉢に入れる。
杵で粉砕するたび、細かな粉が舞い上がり、鼻をくすぐった。
 
「……大丈夫、落ち着いて……」
 
粉と液体を慎重に混ぜ、手記に書かれた順序を思い出す。
比率を間違えれば命取りになる。
寒木は、毒となる成分が含まれている。
 
「焦るな……」
 
声にもならないつぶやきで、早まる鼓動を落ち着かせた。
最後の仕上げ、小袋にそれを入れると後は煮出すだけ。
患部に塗り、そしてそれを飲むことで、傷の毒素は弱まるはずだ。
 
小さく一息つくと、薬を完成させたイネスは、休む間も惜しむように駆けるようにダニエルのもとへ戻った。
 
彼の体に巻かれた包帯を、焦った手でハサミで引き裂く。
傷口は毒で黒ずみ、赤黒く腫れ上がっていた――まるで生きた火傷のように。
 
「……ひどい……」
 
イネスは思わず声を落とし、傷を凝視する。
その様子を見たキリアンも、息を呑む。 
――父の負った傷の深刻さを、初めて目の当たりにしたのだ。
 
「キリアン。
 あなたは下がっていなさい……。」
 
イネスの胸に、ノアへの怒りが湧き上がる。
 
彼女はどうして、
ダニエルにこんなことを……!?
 
わたしが眠っている間に、
何があった……?
 
薬を掴むと、焦る気持ちを込めて、少し乱暴に患部に塗り込んだ。
 
「……痛いけど、我慢して!」 
 
手元の素早さは、今のイネスの心の動揺と必死さそのものだった。
 
次に、ダニエルの顎や頬を掴み、口をこじ開ける。
 
「ダニエル、ここまで酷くなったら
 この薬を飲まないといけないの
 ほら、口を開けて……
 きっと、苦いわよ……」
 
――返答はない。
――細い呼吸だけ。
 
苛立ち、イネスの指に力が入った。
薬を口に含むと、イネスは唇をぎゅっとあて、強引にダニエルの口に押し込んだ。
 
「……しっかりしなさい……
 ダニエル!!」
 
声には、鋭い刺のような感情が混じっていた。
口から薬があふれ出さないよう、イネスは手でダニエルの口を押さえる。
 
「飲みこむの!」
 
――ダニエルの喉が波打つ。
その瞬間、イネスの瞳がわずかに潤んだ。
 
今できることは、もうやった。
――でも、ざわめきは消えない。
 
ベッドの脇に座り込むと、唇を噛み、手のひらで膝を押さえた。
イネスの体は強ばったまま。
 
感情は渦のように絡まり合い――怒り、悲しみ。
しかし、どれも腑に落ちるものではなかった。
 
俯くイネスのもとへ、キリアンがそっと近づき、小さな手でぎこちなく、でも必死に母の背を抱きしめた。
 
「心配だよね……僕もだよ……」
 
声はか細い。
けれど、母を守ろうとする意志がその言葉に滲んでいた。
 
「父さんが、死んじゃうかも
 しれないって思うと……
 とっても怖かったんだ……」
 
イネスは息を詰め、目の端が熱くなるのを感じた。
 
ああ……そうか……。
 
頭をそっと撫でる、ぎこちなくも力強いキリアンの手の温もりに、イネスは安心の重みを感じた。
お互いを確かめ合うように、二人は互いの温もりに身を委ねた。
 
「母さんも……怖かったの……」
 
静かな抱擁の中、恐怖と安堵、そして愛情が交わされる。
イネスはゆっくり息を吐いた。
 
理屈……
じゃないんだ、これは。
 

――

 
しばらく静かにそのまま過ごした後、キリアンがそっと手をほどき、棚の方を指した。
 
――そこには、書類の束が置かれている。
 
「……あれを見て……
 知っておいた方がいいことが
 あるんだ……」
 
それは、諜報員による報告書だった。
 
「禁術書…?」
 
これから対峙しなければならない真実。
イネスはそれを、ためらいなく手に取った。
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