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「いいよ。ただし優しくね」
「ワカッタ」

 言うが早いか、ナナシ君の牙がぷすっという感触と共に左腕に刺さる。ノリンさんやチカちゃん程にうまくはないけど、フィフスドル君のような遠慮なしの一撃の痛みはない。すぐにジワリと血が滲んでくるとそれを猫のように舐めとった。

 三人は可哀想なものを見る目でナナシ君を見ている。

 吸血鬼の血はよっぽど美味しくはないのだろう。

 ところが待てど暮らせどナナシ君は嫌がったり苦しんだりする素振りを見せない。アタシの吸血鬼としての素の回復力が傷を塞ぐまでの間、ずっと舐め続けていたのだ。

 そして最後には満足そうに、

「ウマ」

 と呟いた。

 そこまで聞いた三人はいよいよ黙ってはいなかった。

「そ、そんな事があるのか? 吸血鬼同士だぞ?」
「架純殿。申し訳ないが一噛みさせてもらえんじゃろか?」
「チカも~」
「え? うん、どうぞ」

 アタシは袖を捲り直して両腕を二人に向かって突き出した。左右から二人がそれぞれ牙を刺す。やっぱりこの二人は上手で痛みがほとんどない。まるで腕にキスをされているかのように一瞬の事だった。

 そして意図せず互いに正面に向き合う形になっていたノリンさんとチカちゃんは、顔を見合わせた。二人の表情は正に驚愕といった具合だ。

「不味くはない…」
「って言うよりも森の中で吸った時より美味しいかも~」
「馬鹿な…」
「…ひょっとしてアタシは吸血鬼になってなかった、とか?」

 一瞬、頭に思い浮かんだ事をそのまま口にする。しかし、三人はそれをすぐに打ち消した。

「いや。架純殿の気配は間違いなく吸血鬼じゃわい」
「牙もあるしね~」
「…ともすればこの世界に来たことや、聖女とやらの能力が影響しているのか? 僕らの元いた世界の常識が通用しないとしても、まあ筋は通る気がする」
「現状で考えられるのはそれくらいじゃろうな。しかし、ともすれば儂らの死活問題が一つ解決する」

 ノリンさんはキッと真剣な眼差しをアタシに向けてきた。

 そして意を決したように言う。

「架純殿も血を飲んでみてはくれぬか?」
「…え?」
「架純殿が吸血鬼なったのは間違いない。まだ人間の余韻があるじゃろうが、その内に血を吸いたくなるはず。そうなったとしたら町の人間を襲う以外に手立てはない。それは望まぬことじゃろう?」
「うん…やっぱり嫌ですね。それは」
「しかし一つ可能性が生まれた。儂らが香澄殿の血が飲めるのなら、反対に架純殿が儂らの血を飲めるかもしれん」
「…みんなの血を?」
「あ、そっか。そうすれば架純さんを起点にして血を回し飲みできるから、わざわざ人間をつかまえる必要はないんだ」
「その通り。しかも今の架純殿の血には不思議な満腹感もある。一噛みしただけでしばらくは持ちそうじゃ」
「そうなの?」

 チラリとチカちゃんに視線を送る。すると笑顔でノリンさんの話を肯定した。

「うん。なんか不思議な感じがする~」

 そっか。何だかよく分からないけれど人間を襲わなくて済むと言うのなら、それが嬉しい。吸血欲というモノがどれほどのモノなのかは分からないが、フィフスドル君が水に例えたことを鑑みるに、喉がからっからの状態で水分補給を我慢するようなものなのだろう。

 …うん。絶対無理。我慢できない。普通のダイエットだって挫折するアタシがそんな凄い欲求を堪えられるはずもない。

 ともすれば、ノリンさんの提案は一考に値するどころか唯一の希望にさえ思える。正直、いつか訪れる課題なのであれば、まだ余裕のあるうちに試しておきたいというもの本心だった。

「わかりました。試してみます」

 アタシがそう決意して宣言すると、同じようにフィフスドル君も何か決意した顔になった。

「わかった。ならば僕の血を吸え」
「いいの?」
「お前を吸血鬼にしてしまった責任があるからな…けどもしも不味くても文句を言うなよ」

 そう言って歩み寄ってきたフィフスドル君と入れ替わる形でノリンさんとチカちゃんは退いてくれた。去り際にナナシ君の首を持つと、すぐさま黒猫の姿になってしまう。そして二人はフィフスドル君の死角に入ると、さも満足気というか、子供の成長を喜ぶ親のようなしたり顔で微笑んでいた。

 するとアタシも釣られて、つい口角を上げていたらしい。

「何か面白いか?」

 と、フィフスドル君に突っ込まれた。

 フィフスドル君はぐいっと白いシャツを捲ると、これまた白くて細い腕を差し出してきた。

 病的とも思える肌白さと本人の整った顔立ちのせいで、まるで人形のようにも見えた。

 アタシは彼の腕を両手で掴む。そして噛む前に一言謝った。

「アタシも加減が分からないから痛かったらゴメンね」
「気にしなくていい。お互い様だからな」
「ドル君と違って架純さんはキスの経験あるでしょ? なら大丈夫」
「うるさいぞ」

 そう言えば、チカちゃんはさっき血管にキスするようにとか何とか言っていた気がする。ただキスという単語が頭にちらつき、相手が十歳の少年だと思ってしまうと何だか恥ずかしくなった。

 アタシは優しくするのを意識しながら極端に伸びた犬歯をフィフスドル君の腕に刺し込む。すると舌に生暖かい血が流れ込んできた。まだ人間の感覚が多少は残っていたせいか、最初は少し気持ち悪くなって咄嗟に口を離してしまう。

 口から血が零れて床を少し汚してしまった。

 しかし、落ち着いて鼻に空気を入れるように味わってみると甘味と塩味、コクと少しの苦みが感じ取れた。アタシの脳裏には元の世界で偶に飲んでいた塩キャラメルラテの味が反芻されていた。

「架純さん、どう?」
「お、美味しいかも」

 アタシがそう言うとみんながホッとした表情になる。

「これは僥倖じゃな。少なくともしばらくは人間の血を求める必要がなさそうじゃ」
「なら食料だけ用意できればいい訳だね」
「…しかし不思議だな」

 すると猫ナナシ君が興味本位で床に落ちたフィフスドル君の血をペロっと舐めた。その瞬間、カハっという変な咳をして床を転がり出した。挙句の果てには人の姿になり、部屋の隅っこにぺっぺと唾を吐いている。

 それだけで余程苦いか臭いかの想像が付いた。

「普通はああなるモノだ」

 フィフスドル君は鼻で笑いながら、淡々と告げた。

 血液の需要供給問題が思わぬ形で決着したことで、アタシ達はいよいよ食事兼情報収集の為に一端はギヴェヌーの町に繰り出す事にした……かったのだが。時刻はすでに深夜も深夜。

 軽く窓の外を見ただけでも営業しているお店はなさそうだった。

 結局はどうしようもなかったので、その日は若干の空腹と強行軍の汗臭さを我慢しながら眠りについた。
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