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序章・彼の幸せ
氾濫
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カイエンはベッドの中で考えていた。
今、彼が不安に思うことはただ一つ、明日、リーリルが帰る時にサニヤをどうしようかという問題だ。
今日の夕食時にサニヤが大泣きした。
それが明日も明後日も続いたら、その度にサニヤが泣き疲れて眠るまでリーリルに負担をかけることになる。
それを懸念しているのだ。
この問題に対してマーサが言うには、リーリルと親しくなって寂しいだけだから、私かカイエン様がリーリルと同じくらい親しい仲になれば解決するでしょうとの事である。
しかし、自分は午後になれば開拓に行くし、マーサも料理や掃除などに忙しい。
結局、リーリルしか面倒を見てくれる人が居ないのだから、リーリルと親しくなる一方では無いか。
さてどうしたものかとカイエンが考えていると、ザアッと雨が窓を打ちだした。
「雨が降ってきたか」
明日の開拓は中止だな。
カイエンがそう思い、同時に、サニヤと一日ずっと居られるじゃないかと考えた。
サニヤを一日あやして、彼女がカイエンに懐いてくれれば、きっとリーリルが居なくなってもぐずって泣いたりしないだろう。
この雨はカイエンにとって恵みの雨か。
思えば、ここしばらく雨は降ってなかった。
土地を潤すのにもちょうど良い。
この村は大河のお陰で水不足など無いが、それでも、雨が降らねば大地は乾く。
カイエンにとって、二つの意味で恵みの雨だった。
しかし、雨は時として、恐ろしい牙を剥くことを忘れてはならない。
窓を打つ雨音は次第に激しくなっていき、一向に弱まる気配を見せない。
そればかりか、遠くから雷のゴロゴロとした音まで聞こえてくる。
カイエンは、ふと大河の事が心配になった。
彼が開拓を急いだ理由は、そもそも大河が増水して村を呑み込む事を危惧したからである。
今がまさにその時なのでは無いかと思ったのだ。
そして、カイエンのその予想は的中である。
数日前より風は湿り気を帯びていた。
この村は晴れていたが、風上の方には雨雲があり、時として雨を降らせていたのである。それが風に湿り気を帯びさせて村へと吹いていたのだ。
そして、風上とは、大河の河上であった。
今、村に雷を伴う雨雲が到来した。
大河は数日前より上流で降った雨を集めて、圧倒的な激流で村へと迫っている。
村の前で雷雨と激流が融合して、凄まじい増水となるのだ。
カイエンが窓から外を見ると、川辺の村人達が屋敷の方へ走っているのが見えた。
また、河が凄まじい勢いで増水しているのが遠目で見ても分かったのである。
川辺の村人達はいち早く増水に気付き、屋敷のある森の方角へと逃げながら村へ注意を呼びかけていたのだ。
カイエンは急いで服を着替え、剣を佩くと、マーサを起こした。
寝ぼけ眼のマーサに、大河が増水して氾濫すると伝え、サニヤを頼んだ。
「た、頼んだと言われましても、私は何をすれば……」
「おそらく氾濫はこの屋敷にまで来ます。サニヤを連れて切り拓いた所へ避難して下さい」
「こんな大雨ですよ!? 赤ちゃんが死んでしまいます!」
「河に呑まれるよりはマシでしょう」
異を唱えるマーサにサニヤを任せ、カイエンは屋敷を飛び出した。
まっすぐに河の方へと走る。
逃げまどう人々が向かってきていた。
「屋敷の向こうへ! 私達で切り拓いた場所へ向かえ!」
カイエンはあらん限りの声で叫ぶ。
その声を聞いた人々は、ただ漠然と河から逃げていた足を開拓地へと運び出した。
「カイエン様!」
カイエンが開拓地へ向かうように伝え回っていると、三人の若者を連れた中年男性に声かけられる。
彼はマーサの旦那で、リーリルの父親だ。
三人の若者も、リーリルの兄である。
彼らは、顔に焦りの色を浮かべて険しい表情をしていた。
何かただならぬ気配をカイエンは感じる。
「どうしました!」
「リーリルを! リーリルを見てませんか!」
リーリルが居ない?
なぜ居ないのか?
「この騒ぎの中ではぐれてしまったんです! どこにも見つからなくて!」
今や村人全員が逃げまどっているのだ。
小さな女の子など、すぐに人ごみへ紛れて見えなくなってしまったのである。
「分かりました。あなたたちは開拓地へ避難して下さい。私が必ずリーリルちゃんを見つけます」
彼らは何かを言いたげな顔をしたが、何も言わなかった。
領主に任せて親が子を見捨てるなどと許せなかったのだ。
しかし、その意地がこの緊急事態に一体どれほどの役に立つと言うのか。
カイエンほどの有能な男に任せざる得ないと彼らは思ったのである。
彼らはカイエンにリーリルを頼んで開拓地へ走っていった。
もちろん、ただ逃げているだけではなく、リーリルを探しながら避難している。
一方、カイエンは、開拓地へ逃げるように伝えながらリーリルを探す。
「カイエン様はどこに行かれるのですか!」
逃げる人々と真逆に、河へと向かうカイエンへ村人の一人が聞いた。
「逃げ遅れた者が居ないか確認する!」
「でしたら私の馬を使って下さい!」
その男は農馬を連れて避げていた。
軍用馬ほど足は速くないが、それでも人よりずっと速い。
カイエンにとってこれほど助かるものは無かった。
「すみません! 恩に来ます!」
カイエンはその馬にためらう事無く乗る。
普段ならば断る所であるが、もはやそのような事を言っている状況ではなく、リーリルを探さなくてはいけない関係上、喜んで馬の背に乗ったのだ。
この馬は荷馬にも使用していたのか、背中に人を乗せる事を嫌がらない馬であった。
その馬を走らせながら河へと向かう。
「開拓地へ向かってください! リーリルちゃんを見てませんか!」
交互にそう叫び、やがて村人は誰も居なくなる。
激しく打ち付ける雨の中、カイエンは馬を止めた。
周囲を見渡してもリーリルは見えない。
恐らく、人々と一緒に逃げたのでは無いだろうか?
リーリルは賢い子だ。
恐らくきっとそうに違いない。
それに、これ以上大河へ近づくのは無理だった。
増水した河は家々を流して畑を呑みながら屋敷の方へと向かってきている。
カイエンも早く逃げなくては、河へと呑み込まれてしまうだろう。
リーリルが避難して居ることを願いながら馬を反転させようとした時、河の濁流から逃げている小さな人影が見えた。
逃げ遅れた人が居たのか?
激しい雨だから、もしかしたら見間違いでは無いかと懸念し、目を凝らす。
しかし、確かに小さな人影が、雨の中、小さな足を必死に動かしているのは間違いなかった。
そして、その人影はリーリルだという事をカイエンは確認した。
リーリルの家はもうずっと前に越えていた。
しかし、何で河の方からリーリルが走ってくるのだろうか?
それに、必死に河から逃げているリーリルは、胸元に何かを抱きかかえていた。
一体何を?
しかし、そんな疑問はどうでも良く、カイエンは馬を駆けた。
「リーリル! こっちだ!」
叫ぶが、激しい雨に声が掻き消され、リーリルに届いていない。
濁流はとても速くて、すでにリーリルの背後へと迫っていた。
リーリルが振り向く。
駄目だ。振り向くな。
まっすぐこっちへ走ってきてくれ。
そうカイエンは祈る。
しかし、カイエンの祈りは虚しく、リーリルは直後に濁流へ呑み込まれた。
「リーリル!」
カイエンは馬から飛び降り、鎧を脱ぎ捨てた。
そして、何を思ったか濁流へと駆けだしたのである。
よもやリーリルを助け出そうと言うのか?
馬は差し迫る濁流に恐れて逃げ出す。
そう。普通ならば逃げ出すべき所だ。
カイエンとて、濁流に呑み込まれた女の子をどう助けられるというのだ。
気が動転していたか、あるいは混乱していたのか。
あるいは、カイエンにとってサニヤとリーリルの笑顔が何よりの宝物となっていたからだろうか。
カイエンはリーリルを助けねばならないと思い、そのまま濁流へと飛び込んだ。
激しい衝撃と共に水に包まれる。
上も下も無く、濁流に翻弄され、まともに動けない。
それでも必死にリーリルを探し、手足をばたつかせた。
当然ながら、濁流の中で子供一人見つける事など出来る訳が無い。
濁った水は視界も悪かったが、それでもカイエンは必死にリーリルを探す。
しかし、ごぼりと口から泡が出た。
呼吸が限界に達してきていた。
濁流に抗いながら、人を探して手足をばたつかせたのだから、息が上がってしまい、呼吸を止める事が出来なかったのである。
「はあ!」
しかし、偶然にも濁流に押し上げられ、水面から顔を出せた。
空気がある。
呼吸ができる。
口から喉から、肺へと湿った空気が満たす。
肺に空気がある。
果たしてこれほどの幸せがあっただろうかと言うほどに心地が良い。
カイエンは息を必死に吸いながら周囲を見る。
遠目に開拓地と森が見えた。
あそこへ泳いでいけば、恐らく助かる。
もちろん、まだリーリルは見付かっていないが、見付かるはずも無い。
そもそもまだ生きているかすら絶望的だ。
しかし、カイエンは息を深く吸い込むと、意を決して濁流へと潜った。
カイエンに逃げるという選択肢は無い。
必ずリーリルを見つけ出し、そして生きて帰るという想いだけだ。
必死に濁流を掻き分けてリーリルを探す。
そんなカイエンの背中を何かが押した。
振り向くと木目が見える。
木?
いや違うとカイエンはすぐに分かった。
木にしては大きすぎると。
これは……家だ。
家が丸々濁流に流され、カイエンを押しているのだ。
家に押され、濁流に張り付けにされ、このままでは身動きがまったく取れない。
カイエンは壁へ指をかけて、荒れ狂う水の中で必死に家から逃れた。
何とか壁の淵から脱出し、背後を家が流れ過ぎる。
家の通った後は乱れた流れで、カイエンはその乱流に引きずり込まれた。
ゴボボと口から泡が出る。
家から逃れる為に力を使いすぎて、呼吸が止められなくなっていた。
しかし、乱流に激しく回転し、視界はぐるぐると回る。
必死に手足をばたつかせ、姿勢を整えようとした。
腕を必死に振り回す。
すると、何か細いものが手に当たる。
柔らかくて枝では無い事が分かった。
もしや!
カイエンは直感的にその細いものを強く握りしめ、決して離すまいとした。
濁った乱流の中、その細いものを引き寄せると、体と頭がある。
小さい。まだ子供だ。
リーリルだろうか。
あるいは、逃げ遅れた別の子供だろうか。
すでに意識は無いようで、ぐったりとしている。
濁流の中では誰なのかを確認出来なかったが、しかし、なんにせよ、カイエンはしっかりと抱き寄せて、濁流に引き離されまいとした。
しかし、激しい流れに弄ばれている状況に変わりは無い。
先ほど水面から顔を出せたのでさえ奇跡だったのだ。
今度も水面へ顔を出せる可能性はほとんど無いだろう。
息ももう持たない。
ガボッと最後の息が泡となって口から出て行った。
今、彼が不安に思うことはただ一つ、明日、リーリルが帰る時にサニヤをどうしようかという問題だ。
今日の夕食時にサニヤが大泣きした。
それが明日も明後日も続いたら、その度にサニヤが泣き疲れて眠るまでリーリルに負担をかけることになる。
それを懸念しているのだ。
この問題に対してマーサが言うには、リーリルと親しくなって寂しいだけだから、私かカイエン様がリーリルと同じくらい親しい仲になれば解決するでしょうとの事である。
しかし、自分は午後になれば開拓に行くし、マーサも料理や掃除などに忙しい。
結局、リーリルしか面倒を見てくれる人が居ないのだから、リーリルと親しくなる一方では無いか。
さてどうしたものかとカイエンが考えていると、ザアッと雨が窓を打ちだした。
「雨が降ってきたか」
明日の開拓は中止だな。
カイエンがそう思い、同時に、サニヤと一日ずっと居られるじゃないかと考えた。
サニヤを一日あやして、彼女がカイエンに懐いてくれれば、きっとリーリルが居なくなってもぐずって泣いたりしないだろう。
この雨はカイエンにとって恵みの雨か。
思えば、ここしばらく雨は降ってなかった。
土地を潤すのにもちょうど良い。
この村は大河のお陰で水不足など無いが、それでも、雨が降らねば大地は乾く。
カイエンにとって、二つの意味で恵みの雨だった。
しかし、雨は時として、恐ろしい牙を剥くことを忘れてはならない。
窓を打つ雨音は次第に激しくなっていき、一向に弱まる気配を見せない。
そればかりか、遠くから雷のゴロゴロとした音まで聞こえてくる。
カイエンは、ふと大河の事が心配になった。
彼が開拓を急いだ理由は、そもそも大河が増水して村を呑み込む事を危惧したからである。
今がまさにその時なのでは無いかと思ったのだ。
そして、カイエンのその予想は的中である。
数日前より風は湿り気を帯びていた。
この村は晴れていたが、風上の方には雨雲があり、時として雨を降らせていたのである。それが風に湿り気を帯びさせて村へと吹いていたのだ。
そして、風上とは、大河の河上であった。
今、村に雷を伴う雨雲が到来した。
大河は数日前より上流で降った雨を集めて、圧倒的な激流で村へと迫っている。
村の前で雷雨と激流が融合して、凄まじい増水となるのだ。
カイエンが窓から外を見ると、川辺の村人達が屋敷の方へ走っているのが見えた。
また、河が凄まじい勢いで増水しているのが遠目で見ても分かったのである。
川辺の村人達はいち早く増水に気付き、屋敷のある森の方角へと逃げながら村へ注意を呼びかけていたのだ。
カイエンは急いで服を着替え、剣を佩くと、マーサを起こした。
寝ぼけ眼のマーサに、大河が増水して氾濫すると伝え、サニヤを頼んだ。
「た、頼んだと言われましても、私は何をすれば……」
「おそらく氾濫はこの屋敷にまで来ます。サニヤを連れて切り拓いた所へ避難して下さい」
「こんな大雨ですよ!? 赤ちゃんが死んでしまいます!」
「河に呑まれるよりはマシでしょう」
異を唱えるマーサにサニヤを任せ、カイエンは屋敷を飛び出した。
まっすぐに河の方へと走る。
逃げまどう人々が向かってきていた。
「屋敷の向こうへ! 私達で切り拓いた場所へ向かえ!」
カイエンはあらん限りの声で叫ぶ。
その声を聞いた人々は、ただ漠然と河から逃げていた足を開拓地へと運び出した。
「カイエン様!」
カイエンが開拓地へ向かうように伝え回っていると、三人の若者を連れた中年男性に声かけられる。
彼はマーサの旦那で、リーリルの父親だ。
三人の若者も、リーリルの兄である。
彼らは、顔に焦りの色を浮かべて険しい表情をしていた。
何かただならぬ気配をカイエンは感じる。
「どうしました!」
「リーリルを! リーリルを見てませんか!」
リーリルが居ない?
なぜ居ないのか?
「この騒ぎの中ではぐれてしまったんです! どこにも見つからなくて!」
今や村人全員が逃げまどっているのだ。
小さな女の子など、すぐに人ごみへ紛れて見えなくなってしまったのである。
「分かりました。あなたたちは開拓地へ避難して下さい。私が必ずリーリルちゃんを見つけます」
彼らは何かを言いたげな顔をしたが、何も言わなかった。
領主に任せて親が子を見捨てるなどと許せなかったのだ。
しかし、その意地がこの緊急事態に一体どれほどの役に立つと言うのか。
カイエンほどの有能な男に任せざる得ないと彼らは思ったのである。
彼らはカイエンにリーリルを頼んで開拓地へ走っていった。
もちろん、ただ逃げているだけではなく、リーリルを探しながら避難している。
一方、カイエンは、開拓地へ逃げるように伝えながらリーリルを探す。
「カイエン様はどこに行かれるのですか!」
逃げる人々と真逆に、河へと向かうカイエンへ村人の一人が聞いた。
「逃げ遅れた者が居ないか確認する!」
「でしたら私の馬を使って下さい!」
その男は農馬を連れて避げていた。
軍用馬ほど足は速くないが、それでも人よりずっと速い。
カイエンにとってこれほど助かるものは無かった。
「すみません! 恩に来ます!」
カイエンはその馬にためらう事無く乗る。
普段ならば断る所であるが、もはやそのような事を言っている状況ではなく、リーリルを探さなくてはいけない関係上、喜んで馬の背に乗ったのだ。
この馬は荷馬にも使用していたのか、背中に人を乗せる事を嫌がらない馬であった。
その馬を走らせながら河へと向かう。
「開拓地へ向かってください! リーリルちゃんを見てませんか!」
交互にそう叫び、やがて村人は誰も居なくなる。
激しく打ち付ける雨の中、カイエンは馬を止めた。
周囲を見渡してもリーリルは見えない。
恐らく、人々と一緒に逃げたのでは無いだろうか?
リーリルは賢い子だ。
恐らくきっとそうに違いない。
それに、これ以上大河へ近づくのは無理だった。
増水した河は家々を流して畑を呑みながら屋敷の方へと向かってきている。
カイエンも早く逃げなくては、河へと呑み込まれてしまうだろう。
リーリルが避難して居ることを願いながら馬を反転させようとした時、河の濁流から逃げている小さな人影が見えた。
逃げ遅れた人が居たのか?
激しい雨だから、もしかしたら見間違いでは無いかと懸念し、目を凝らす。
しかし、確かに小さな人影が、雨の中、小さな足を必死に動かしているのは間違いなかった。
そして、その人影はリーリルだという事をカイエンは確認した。
リーリルの家はもうずっと前に越えていた。
しかし、何で河の方からリーリルが走ってくるのだろうか?
それに、必死に河から逃げているリーリルは、胸元に何かを抱きかかえていた。
一体何を?
しかし、そんな疑問はどうでも良く、カイエンは馬を駆けた。
「リーリル! こっちだ!」
叫ぶが、激しい雨に声が掻き消され、リーリルに届いていない。
濁流はとても速くて、すでにリーリルの背後へと迫っていた。
リーリルが振り向く。
駄目だ。振り向くな。
まっすぐこっちへ走ってきてくれ。
そうカイエンは祈る。
しかし、カイエンの祈りは虚しく、リーリルは直後に濁流へ呑み込まれた。
「リーリル!」
カイエンは馬から飛び降り、鎧を脱ぎ捨てた。
そして、何を思ったか濁流へと駆けだしたのである。
よもやリーリルを助け出そうと言うのか?
馬は差し迫る濁流に恐れて逃げ出す。
そう。普通ならば逃げ出すべき所だ。
カイエンとて、濁流に呑み込まれた女の子をどう助けられるというのだ。
気が動転していたか、あるいは混乱していたのか。
あるいは、カイエンにとってサニヤとリーリルの笑顔が何よりの宝物となっていたからだろうか。
カイエンはリーリルを助けねばならないと思い、そのまま濁流へと飛び込んだ。
激しい衝撃と共に水に包まれる。
上も下も無く、濁流に翻弄され、まともに動けない。
それでも必死にリーリルを探し、手足をばたつかせた。
当然ながら、濁流の中で子供一人見つける事など出来る訳が無い。
濁った水は視界も悪かったが、それでもカイエンは必死にリーリルを探す。
しかし、ごぼりと口から泡が出た。
呼吸が限界に達してきていた。
濁流に抗いながら、人を探して手足をばたつかせたのだから、息が上がってしまい、呼吸を止める事が出来なかったのである。
「はあ!」
しかし、偶然にも濁流に押し上げられ、水面から顔を出せた。
空気がある。
呼吸ができる。
口から喉から、肺へと湿った空気が満たす。
肺に空気がある。
果たしてこれほどの幸せがあっただろうかと言うほどに心地が良い。
カイエンは息を必死に吸いながら周囲を見る。
遠目に開拓地と森が見えた。
あそこへ泳いでいけば、恐らく助かる。
もちろん、まだリーリルは見付かっていないが、見付かるはずも無い。
そもそもまだ生きているかすら絶望的だ。
しかし、カイエンは息を深く吸い込むと、意を決して濁流へと潜った。
カイエンに逃げるという選択肢は無い。
必ずリーリルを見つけ出し、そして生きて帰るという想いだけだ。
必死に濁流を掻き分けてリーリルを探す。
そんなカイエンの背中を何かが押した。
振り向くと木目が見える。
木?
いや違うとカイエンはすぐに分かった。
木にしては大きすぎると。
これは……家だ。
家が丸々濁流に流され、カイエンを押しているのだ。
家に押され、濁流に張り付けにされ、このままでは身動きがまったく取れない。
カイエンは壁へ指をかけて、荒れ狂う水の中で必死に家から逃れた。
何とか壁の淵から脱出し、背後を家が流れ過ぎる。
家の通った後は乱れた流れで、カイエンはその乱流に引きずり込まれた。
ゴボボと口から泡が出る。
家から逃れる為に力を使いすぎて、呼吸が止められなくなっていた。
しかし、乱流に激しく回転し、視界はぐるぐると回る。
必死に手足をばたつかせ、姿勢を整えようとした。
腕を必死に振り回す。
すると、何か細いものが手に当たる。
柔らかくて枝では無い事が分かった。
もしや!
カイエンは直感的にその細いものを強く握りしめ、決して離すまいとした。
濁った乱流の中、その細いものを引き寄せると、体と頭がある。
小さい。まだ子供だ。
リーリルだろうか。
あるいは、逃げ遅れた別の子供だろうか。
すでに意識は無いようで、ぐったりとしている。
濁流の中では誰なのかを確認出来なかったが、しかし、なんにせよ、カイエンはしっかりと抱き寄せて、濁流に引き離されまいとした。
しかし、激しい流れに弄ばれている状況に変わりは無い。
先ほど水面から顔を出せたのでさえ奇跡だったのだ。
今度も水面へ顔を出せる可能性はほとんど無いだろう。
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