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第一章

―もう一人のオーナー・弐―

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 ――俺が笑わなくなったのは、いつからだったっけか。
 まだ小学四年生までは、違ったはずだ。
 なら、いつからだ?
 ――あいつが、こっちに来てから、なのか?
 ――あぁ、きっとそうだ。
 あいつが来て、椎夏が居て、二人が仲良くなっていって……。
 それで?
 それで……気づいた。
 なら今の俺がこうなったのは、きっとあの時が原因なんだろう。
 
 
 そんな事を、微睡まどろみの中で思った。
 ここは夢なのだろうか、はたまた幻なのだろうか、閉じたはずの視界には暗闇が広がっており、光の一てきすら見受けられない。即ち、全くもっての暗黒であり、視界は閉じたままなのか、或いは開いているのかすら不明であった。
(ここは……)
 口に出したはずのその言葉ですらも、思うように音にならず、極めて不快で不安を煽るにはこの上ない不気味さであり、それでいて不思議な魅力を感じずにはいられなかった。
 だが、そんな中にいても弘は、ふとある事を思い出した。
(この感覚、あの時の……)
 忘れるはずもない、あの不快な違和感を。
 一つ、動作として嘆息をするも、吐いた息が表に出ることはなく、またそもそもしたという感覚すらなかった。
 ふと、振り返るような動作をしてみれば、けれど何もなく、行動を起こせているのかすらが不明である。
(何なんだ?ここは)
 声にならない言葉を呟けば、けれど予想外なことに、呼応する存在がそこにはいた。
 空間の中、眼前で虚空に深紅の灯火が浮かび上がり、そうしてそれは不定形を保ち、やがて――弘へと襲いかかった。
(何が――)
 けれど弘はその場を動かない。否、動けない。退こうにも行動は起こせている感覚はなく、であれば弘は傍目棒立ちで佇んでいるようにしか見えないのである。
  やがて灯火――もはや炎と言って差し支えないそれ――は、まず一度、弘の周りを周回してみせ、そうして弘を見つめるように、意思があるようにその目の前で静止。そうして――弘の右腕を一度、弘の右手首を一度周回した後、右の中指を器用に周回すると、その灯火は消え失せ、視界は再びの暗黒へと化した。
(何だったんだ?今の)
 答えのない問を投げ返すも、答える人は居らず。チラッと右中指を覗けば、そこには真紅の何かが確かにあった。
 けれどその事に気づくや否や、視界の闇は剥がれ落ちるように、ガラスが割れるように暗黒の景色を崩れ落としていく。ただただ呆然と景色を覗いていれば、やがて視界は純白に豹変し、中指のそれも、もはや見ることは敵わない。
 ――背景の純白に、溶け込んでいったらしい。
 ならばと視界を左右に揺らしてみれば、どこもかしこも純白でいて、もはや縦も横も不明瞭である。立っているのか、或いは横になっているのかも不明である純白の世界は、けれど振り返ればそこに何か別の光を感じられた。
(光……?)
 純白の中にいて、それでも認識できるような、存在を主張することを許されたような、そういう光。
 心なしか、光は弘を凝視しているようであり、弘は妙な違和感を感じずにはいられない。否、それは先程から感じていたはずのものであり、であれば違和感の正体がこの光、と言うこのなのだろう。
「俺に、何のようだ……?」
 瞬間、弘は驚愕の色を示した。自分の発したと思っていた言葉が、キチンと音となって現れたのである。
 目を丸くする弘に、しかし光は答えるはずもなく、ただ某っとそこにあるのみであった。
「用があるから、来たんだろ?」
 光が、頷いたようにみえた。
 勿論それはあくまでそう思っただけであり、現実には――ここが現実化はさて置き――光はそこにただ浮かぶのみであり、相変わらずの現象に過ぎない。
 けれど弘はそう見えたわけであり、次の瞬間には、弘はその両の腕を光へと伸ばしていた。
「お前が何を望むのかは知らない」と弘、「けれど……こうするべきなんだろうな」
 その言葉は、光に向けたものであり、けれどどこか内心自分に向けたものでもあった。
 光に手を触れることはない。ただその右手で翳すと、光はその姿を縮ませ、渦を描き、そうして新たな姿を描き始めた。
 描いた姿は、一枚の――カード。
 弘は嘆息すると、その未だ光で全容を窺い知れないそのカードを、けれど臆する事無く手にとれば、世界は今度は崩れ始めた。
 けれど動じる事なく、崩れ落ちる世界の濁流に身を任せながら、弘はそのカードを凝視し続けていた。
「結局、関わるハメになりそうだな……」
 もう一度嘆息を洩らすと、弘は顔を上げ、やがて訪れる暗転を待ち望みながら――目を閉じた。
 ――それからの光景は、最早弘には見ることが叶わず、そもそもこの後に何かがあった訳ではなく、ひょっとしたら元来存在し得なかったのかもしれなかった。
 要するに、虚構であると、虚無であると。
 ――今はまだ、微睡みにうつつを抜かしているのだと。
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