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第一章

―もう一人のオーナー・伍―

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 『皇帝エンペラー』のアルカナを中心に展開される魔法陣の中央、その上に光の粒子が吸収され始めた。光にはまるで意思があるようであり、或いはその先に誰かが居るかのようですらあった。
 半ば諦めたような顔で見上げる弘は、それを示すかのように嘆息した。
 集まっていく光は、次第に楕円形のまゆのような形を形成して行き、そうして光が収まったと同時に、それは弾けた。
「全く、冗談キツイな……」
 光の中から現れたのは、現実味を失うには十分で、夢だと言われた方がよっぽど説得力のある存在であった。大きさは掌ほどだろうか、思いの外小さい……トカゲ。けれどそれが、炎が形作ったような翼を広げて宙に浮いているのである。
 光の粒子がその姿を描き出すまでの一時を、何かの映画でも見ているように静観していると、その飛ぶトカゲはゆっくりと目を開いた。マンダリンガーネット色の瞳を覗かせ、額には白いヤブランの花が刻まれているた。
 そうして、
「初めまして、『第三オーナー』
 渋い男性声で、そう話しかけたのである。
「悪いが人違いじゃないか?」
「いいえ、貴方の事です」と彼、「私は火の精霊、サラマンダー。どうぞお好きにお呼び下さい」
 しかし弘はサラマンダーを見据えるばかりで、口を開こうとはしない。
「時に、名を教えていただけますでしょうか?」
「どうして、教える必要がある?」
「必要だからです」
 しかし頑なに教える気は無いらしく、弘は口をまた閉ざした。
 嘆息するサラマンダーは、「やれやれ」と呟いた後で、
「これは契約に必要なものです。私は貴方を選んだ、これは少し違うのです。私ではなく、その『皇帝』が貴方を選んだのです」
 そう言うと、今の今まで宙にあったそのアルカナは、一人でに弘の元へと行き、しかし手に取る気がないとわかると、胸元の前で静止した。
「まるでこのカードに意思がある見たいな口ぶりだな」
 するとサラマンダーは点頭してみせ、
「えぇ、その通りですとも、これらには意思がある」とサラマンダー、「私含め、大アルカナには意思が宿っています。ですがそれは全て魔術によるもの、言わば仮初でございます」
「ならばその仮初に付き合う言われはないはずだが」
 しかしサラマンダーはかぶりを振った。
「いえ、とんでもない。仮初は、主がいてようやく成り立つ。貴方はその三人目に――選ばれたのです」
「だとしても、俺で無くては行けない理由は、あるのか?」
 するとまたサラマンダーはゆっくりと点頭して見せ、真のある口調で、
「えぇ、ありますとも」とサラマンダー、「選ばれた、と言う事は、数少ない候補者に選ばれた――言わばヒーローのようなものです」
「ヒーローに憧れる歳は、とっくに過ぎてる」
 サラマンダーは再度かぶりを振って、
「憧れというものは、いつも心の底にあるものです」とサラマンダー、「ましてや歳を言い訳にするなど、それは己に嘘を付いている、弱い者の常套じょうとう手段です」
 弘は嘘、と言われ、どこか確信を突かれた気分になった。そうしてふと思い返すのは数日前のショッピングモールでの出来事であり、知らず知らずの内に、ぶら下がった拳を、固く結んでいた。
「貴方は嘘に慣れているらしい」とサラマンダー、「それはとても強い……が、同時に弱くもある」
「分かっているような口ぶりだな」
 どこか他人事のように返す弘の表情は、ぶっきらぼうで、まるで何も悟らせまいとしているかのようであった。
 しかしサラマンダーは無視し、さっさと本題に路線を戻してしまう。
「もう一度訪ねましょう。貴方、名をなんと言いますか?」
「今のやり取りで、俺が教えると思ったか?」
 サラマンダーはマンダリンガーネット色の瞳で弘を見据えたまま、
「えぇ、少なくとも私には、この力を手にするだけの資格が、貴方にはあると思うのです」
「何を根拠に」
 サラマンダーは弘の元まで近づいて行き、そっと『皇帝』のアルカナにその前足で触れてみせた。
「このアルカナが、貴方の心に――惹かれたからです」とサラマンダー、「そして私も、貴方を気に入った。根拠はそんな所でしょうか」
 弘は、思わず嘆息した。
「心に……惹かれた、ねぇ」
「えぇ、心に……」
 それっきり、また弘の部屋には静寂が訪れた。鳴りを上げるのは秒針の規則的なリズムであり、うぐいすの鳴く声であり、外を走る車の過ぎ去る音である。そうして分針が相槌を一度鳴らした寸分後に、嘆息し、
「……紅葉弘」
「感謝します、弘様」
 一礼するサラマンダーは、正面を向いたまま後退、現れた場所まで戻ると、また一礼した。
「それでは弘様、始めます」
 そう言うと、サラマンダーはそのやたら渋い声を持って、呪文のようなものを唱え始めた。
 ――もう、引き返すことはできない。

「我、『ルス』の力を守護せし四方の一角、火のサラマンダーが契約の契を結ばん。少年、『皇帝』を呼び寄せし者なり。名を紅葉弘、契約を結ぶに値せし者なり。汝、『皇帝』の手を取り、望みを叶える力を巡るべく、参加の意をここに表明せよ」

 タロットカードの力が、サラマンダーの元に集まるのを確かに感じた。
 ――否、タロットカードそのものが、『皇帝』のカードが、独りでに宙を舞って、サラマンダーの前まで行った。
 そうしてやがて『皇帝』のアルカナは、サラマンダーの詠唱が終わると同時に、弘の元までやってきた。
「さあ、名を呼んで上げて、手を触れてやってください」
 躊躇うことなく、弘はその右手をアルカナの元へとかざすと――
「……『皇帝』」
 光が炸裂した。一瞬の閃光に目が眩んだ後、そのホワイトアウトした視界が止むまで、咄嗟とっさに目をつむった。
(もう……引き返せない……)
 確かな覚悟をだらしなく下がった左の拳に込めると、ゆっくと、目を開いた。
 中指に有ったのは、サラマンダーの瞳と同じ輝きを放つ宝石が中石として埋め込まれた――指輪。
 その輝きが示すのは、三人目のオーナーの誕生であり、刻一刻と進む非日常的な光景そのものであった。
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