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第二章:鬼神の出陣
第十話「影の名を知るとき」
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風が、南から吹いていた。
乾いた大地を撫でるように、かすかに砂埃を巻き上げながら、野営地の幕を揺らしていた。
その日、静は目を覚ましたとき、自分が夢を見ていたことに気づいていなかった。
ただ、右手の指が、剣の柄を握っていた。寝巻の上から、硬く、深く。まるで、誰かを斬り落とした直後のように。
彼はその手をゆっくりと開いた。手のひらの中には、爪の跡が半月のように残っている。
――名を呼ばれた気がしたのだ。
※
「……でさ、結局、いたんだよ。“白い鬼神”。」
飯盒炊爨の煙がたちのぼるなか、若い兵が言った。
「俺の兄貴の部隊のやつが見たってさ。まっしろな着物でさ、髪は一つに束ねてんだ。顔はよく見えない。でも、剣を抜いたら一瞬だったって。三人が倒れて、そいつはひと言も発さないで、またいなくなったんだって」
「顔が見えないってことは……?」
「見ない方がいいって、そういうことじゃね? 人間じゃないんだよ、あれは」
笑い混じりのようで、どこか本気の響きを孕んだ声。
煙の向こうに立つ彼らの姿は、どこか現実から浮いて見える。
それを、静は水汲み場の陰で聞いていた。
「“白い鬼神”……」
その言葉を口の中で転がしてみる。
舌に乗せても、重みはなく、味もない。ただ、どこか遠くのもののように感じた。
自分のことを、そう呼ぶ者がいるという噂は、幾度となく耳にしていた。
だが、目の前で、こうして誰かが“語る”のを聞いたのは初めてだった。
まるで、自分という人間がこの場にいないかのように、語られる。
実在の者ではなく、誰かの目撃談の登場人物として。
そして、気づいてしまった。
――誰も、彼の名前を知らない。
※
出陣の朝は、いつも静かだ。
天幕のなかで装束を整えながら、静は、自分の手の動きが少しだけ硬くなっていることに気づいた。
淡い生成りの下衣を身に纏い、胸に紐を結び、腰に帯を巻く。
その上から、真っ白な外衣――戦場で彼が着る、例の“白装束”を羽織る。
これを選んだのは、自分だ。
あの初陣の日、血の泥にまみれた衣服の重みを洗い流し、自ら布を手にとって“白”を選んだのは、他でもない、自分だった。
理由はただひとつ。
――死者にふさわしいからだ。
名を持たぬ剣士として、誰かのために斬り、誰にも知られず倒れるならば。
白は、その色として、相応しい。
帯に差したのは、名も無き一振りの剣。
刃文は流れるようでいて、どこか無骨な揺れを帯びていた。
徴兵された際に、軍から支給されたものだった。
天幕の外では、もう足音が行き交っていた。
槍を担いだ兵、荷車を引く者、司令を叫ぶ声――
それらが朝の空気に溶けていく。
静はゆっくりと顔を上げ、幕を押して外へ出た。
光が差し込む。
野営地の丘の上、朝の光がかすかに露を照らし、草を濡らしていた。
風が、白装束の裾を揺らす。隊列の端で立ち尽くすその姿に、何人かの兵が目をやる。
だが、誰も声をかけない。誰も、名を呼ばない。
沈黙が、彼の名になっていた。
※
出陣前の整列が始まった。
副隊長が兵を並ばせ、通達を叫ぶ声が空に響く。
だが、列の最後尾から、誰かがささやく。
「白い鬼神がいるぞ」
「前の部隊、全滅しかけたけど、あれに助けられたってよ」
「あの剣は、振り下ろされる前に終わるってさ」
それは崇敬でもあり、恐怖でもあり、羨望でもあった。
だが、どれも“人間”へのものではなかった。
静は列に加わる。
だが、そこにはいつも“間”があった。彼の隣には誰も並ばない。
剣の柄に手をかけているわけでもないのに、空気が張り詰めていた。
前を向く彼の目に、何の感情も浮かばない。
だが、誰も気づかない。
“鬼神”には、心がないと思われているから。
※
戦の始まりを告げる号令が、野に響いた。
隊がゆっくりと動き出す。砂を踏む音、鎧の擦れる音、唾を呑む音――すべてが、ひとつの流れになって、前へと進んでいく。
静は、最後列を歩いていた。
風のなか、白装束がひとりだけ、異質な光を放つ。
彼の歩みは軽い。
重ね着の下で、呼吸は深く、一定だ。
だが、彼の視線の先には、誰もいない。
戦場など、見ていない。彼は、彼自身のなかにある“問い”を見ていた。
――自分は、何を斬ってきたのか。
――なぜ、斬らずに済んだ命のほうが、記憶に残るのか。
――剣とは、本当に“護る”ものなのか。
問いに、答えはない。
だが、それでも歩みは止まらない。
※
昼を過ぎた頃、前線に着いた。
敵影はまだ見えない。
山の尾根を越えた先で、煙がひと筋上がっている。
それが敵軍の野営地だと、斥候が言った。
「……静」
その名を、誰かが呼んだ。
振り返る。
そこにいたのは、補給隊の湯浅だった。
「……本当に、来てしまったな」
そう呟いた彼の目に、静は何も言わずうなずいた。
「……お前のことを、みんな“鬼神”だなんて言う。けどな、俺は違うと思う。……お前は、ただの若者だ。少しだけ、剣が上手くて、他のやつより少し、静かなだけだ」
静は、小さく笑った。
「……それで十分です。ありがとうございます」
風が、ふたりのあいだを抜けていった。
次の瞬間、前線から矢文が届いた。
敵軍、進軍を開始。
明朝、激突の恐れあり。
※
その夜、静はひとりで剣を磨いた。
天幕の外には月が昇り、草むらに露が降りていた。
剣を見つめる。
その刃に、月の光がひとすじ映り込んだ。
それはまるで、彼の中にある“問い”を映すかのようだった。
――名がないということは、どういうことなのか。
それは、自由か。孤独か。罪か。赦しか。
誰も答えてくれない。
誰も、彼の本当の名前を知らない。
だからこそ、彼はまだ“斬れる”のかもしれなかった。
その夜、彼は、再び夢を見た。
剣を持たぬ自分が、誰かの名を呼び、呼び返される夢だった。
けれど、その名は――聞こえなかった。
乾いた大地を撫でるように、かすかに砂埃を巻き上げながら、野営地の幕を揺らしていた。
その日、静は目を覚ましたとき、自分が夢を見ていたことに気づいていなかった。
ただ、右手の指が、剣の柄を握っていた。寝巻の上から、硬く、深く。まるで、誰かを斬り落とした直後のように。
彼はその手をゆっくりと開いた。手のひらの中には、爪の跡が半月のように残っている。
――名を呼ばれた気がしたのだ。
※
「……でさ、結局、いたんだよ。“白い鬼神”。」
飯盒炊爨の煙がたちのぼるなか、若い兵が言った。
「俺の兄貴の部隊のやつが見たってさ。まっしろな着物でさ、髪は一つに束ねてんだ。顔はよく見えない。でも、剣を抜いたら一瞬だったって。三人が倒れて、そいつはひと言も発さないで、またいなくなったんだって」
「顔が見えないってことは……?」
「見ない方がいいって、そういうことじゃね? 人間じゃないんだよ、あれは」
笑い混じりのようで、どこか本気の響きを孕んだ声。
煙の向こうに立つ彼らの姿は、どこか現実から浮いて見える。
それを、静は水汲み場の陰で聞いていた。
「“白い鬼神”……」
その言葉を口の中で転がしてみる。
舌に乗せても、重みはなく、味もない。ただ、どこか遠くのもののように感じた。
自分のことを、そう呼ぶ者がいるという噂は、幾度となく耳にしていた。
だが、目の前で、こうして誰かが“語る”のを聞いたのは初めてだった。
まるで、自分という人間がこの場にいないかのように、語られる。
実在の者ではなく、誰かの目撃談の登場人物として。
そして、気づいてしまった。
――誰も、彼の名前を知らない。
※
出陣の朝は、いつも静かだ。
天幕のなかで装束を整えながら、静は、自分の手の動きが少しだけ硬くなっていることに気づいた。
淡い生成りの下衣を身に纏い、胸に紐を結び、腰に帯を巻く。
その上から、真っ白な外衣――戦場で彼が着る、例の“白装束”を羽織る。
これを選んだのは、自分だ。
あの初陣の日、血の泥にまみれた衣服の重みを洗い流し、自ら布を手にとって“白”を選んだのは、他でもない、自分だった。
理由はただひとつ。
――死者にふさわしいからだ。
名を持たぬ剣士として、誰かのために斬り、誰にも知られず倒れるならば。
白は、その色として、相応しい。
帯に差したのは、名も無き一振りの剣。
刃文は流れるようでいて、どこか無骨な揺れを帯びていた。
徴兵された際に、軍から支給されたものだった。
天幕の外では、もう足音が行き交っていた。
槍を担いだ兵、荷車を引く者、司令を叫ぶ声――
それらが朝の空気に溶けていく。
静はゆっくりと顔を上げ、幕を押して外へ出た。
光が差し込む。
野営地の丘の上、朝の光がかすかに露を照らし、草を濡らしていた。
風が、白装束の裾を揺らす。隊列の端で立ち尽くすその姿に、何人かの兵が目をやる。
だが、誰も声をかけない。誰も、名を呼ばない。
沈黙が、彼の名になっていた。
※
出陣前の整列が始まった。
副隊長が兵を並ばせ、通達を叫ぶ声が空に響く。
だが、列の最後尾から、誰かがささやく。
「白い鬼神がいるぞ」
「前の部隊、全滅しかけたけど、あれに助けられたってよ」
「あの剣は、振り下ろされる前に終わるってさ」
それは崇敬でもあり、恐怖でもあり、羨望でもあった。
だが、どれも“人間”へのものではなかった。
静は列に加わる。
だが、そこにはいつも“間”があった。彼の隣には誰も並ばない。
剣の柄に手をかけているわけでもないのに、空気が張り詰めていた。
前を向く彼の目に、何の感情も浮かばない。
だが、誰も気づかない。
“鬼神”には、心がないと思われているから。
※
戦の始まりを告げる号令が、野に響いた。
隊がゆっくりと動き出す。砂を踏む音、鎧の擦れる音、唾を呑む音――すべてが、ひとつの流れになって、前へと進んでいく。
静は、最後列を歩いていた。
風のなか、白装束がひとりだけ、異質な光を放つ。
彼の歩みは軽い。
重ね着の下で、呼吸は深く、一定だ。
だが、彼の視線の先には、誰もいない。
戦場など、見ていない。彼は、彼自身のなかにある“問い”を見ていた。
――自分は、何を斬ってきたのか。
――なぜ、斬らずに済んだ命のほうが、記憶に残るのか。
――剣とは、本当に“護る”ものなのか。
問いに、答えはない。
だが、それでも歩みは止まらない。
※
昼を過ぎた頃、前線に着いた。
敵影はまだ見えない。
山の尾根を越えた先で、煙がひと筋上がっている。
それが敵軍の野営地だと、斥候が言った。
「……静」
その名を、誰かが呼んだ。
振り返る。
そこにいたのは、補給隊の湯浅だった。
「……本当に、来てしまったな」
そう呟いた彼の目に、静は何も言わずうなずいた。
「……お前のことを、みんな“鬼神”だなんて言う。けどな、俺は違うと思う。……お前は、ただの若者だ。少しだけ、剣が上手くて、他のやつより少し、静かなだけだ」
静は、小さく笑った。
「……それで十分です。ありがとうございます」
風が、ふたりのあいだを抜けていった。
次の瞬間、前線から矢文が届いた。
敵軍、進軍を開始。
明朝、激突の恐れあり。
※
その夜、静はひとりで剣を磨いた。
天幕の外には月が昇り、草むらに露が降りていた。
剣を見つめる。
その刃に、月の光がひとすじ映り込んだ。
それはまるで、彼の中にある“問い”を映すかのようだった。
――名がないということは、どういうことなのか。
それは、自由か。孤独か。罪か。赦しか。
誰も答えてくれない。
誰も、彼の本当の名前を知らない。
だからこそ、彼はまだ“斬れる”のかもしれなかった。
その夜、彼は、再び夢を見た。
剣を持たぬ自分が、誰かの名を呼び、呼び返される夢だった。
けれど、その名は――聞こえなかった。
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