名もなき剣に、雪が降る

斎宮たまき/斎宮環

文字の大きさ
6 / 21
第一章:道場の少年

第五話 「灰と硝子と、春を越える風」

しおりを挟む
 風は高く抜けていた。
 春の気配はまだ村に残っていたが、それは何かの名残のように、どこか所在なく漂っているだけだった。
 花は咲いても、香らなかった。木々は芽吹いても、柔らかな青さを見せることはなかった。
 その年、村の空はやけに“遠かった”と、人々はのちに語る。
 空を見上げる者は減り、風を読む者だけが、ただ目を伏せて耳を澄ました。
 何かが、変わりはじめていた。
 それは音もなく、匂いもなく、ひたひたと水が染みるように、静かに足元を満たしていく変化だった。
     ※
 視察役・文月が去ったあとの道場には、しばしの沈黙があった。
 言葉にできないものを、誰もが口に出そうとはしなかった。
 それは“空気”として残っていた。
 竹刀を振る音の裏に、掃除をする足音の影に、茶を啜る湯気のなかに。
 宗兵衛は、何も言わなかった。
 彼が言葉を飲み込むとき、それは往々にして「いずれ来る波に、先に立って抗っても無意味である」と見極めたときだった。
 老練の剣士にとって、剣とは“水に立つ橋”のようなものだ。
 重ねた稽古は力ではなく流れを知るためのものであり、技術とは己を律するための器に過ぎない。
 だから、彼はわかっていた。
 文月が最後に残した言葉――
「……あの子を、“ここ”に置くには、大きすぎる」
 それは警告ではない。
 ただの“予告”であり、“通知”であったのだと。
 嵐は、やがて来る。
 名もなき少年の周囲に、風はすでに巻きはじめていた。
     ※
 視察報告は、文月の手によって短く、端的に記された。
 彼は多くを語らなかった。
 だが、そのなかにいくつかの言葉だけが、印となって残された。
 ――“即応的天賦の剣筋を有する、無名の少年あり”
 ――“反応と間合いの判断、極めて異常。型に拠らず、殺の構えを制しておる”
 ――“白布のごとく、印象を持たぬ。然れど眼に映れば、強く焼きつく”
 報告は軍の書記局へと届き、そこから軍監察室を経て、中央の選抜局に提出された。
 わずか一週間後、白封筒が宗兵衛のもとへ届いた。
     ※
 その封筒を開くとき、宗兵衛の手はわずかに震えた。
 文字は端正だった。内容は短かった。
 しかし、その簡潔さが逆に、背筋を冷たくした。
 > 拝啓
 >
 > 当国軍部、選抜局より通知申し上げます。
 >
 > 剣心館において特段の技量を有する少年一名、当局の注視対象として登録するものといたします。
 >
 > 必要あらば、後日、召見の旨を別途通達いたします。
 >
 > 本通知は、貴道場における少年育成に不都合を与えるものではなく、今後の適正な配属検討のためのものであることを、特に申し添えます。
 >
 > 敬具
 そこには名前がなかった。
「沖田静」の文字は、どこにも記されていなかった。
 それでも、宗兵衛にはわかっていた。
 名が書かれていないことが、何よりも恐ろしかった。
     ※
 その夜、宗兵衛は榎本を呼んだ。
 縁側には夜の風が吹いていた。月は細く、山の端にかかっていた。
「……来たのですか」
 榎本の問いに、宗兵衛は頷いた。
「今のうちは“通達”に過ぎぬ。拘束力も、命令でもない。だが、布石にはなる」
「“布石”……」
「いずれ“徴”が来る。軍というものは、ひとたび目をつけたら逃さぬ」
 榎本は言葉を失った。
 宗兵衛が、決して冗談を言わぬことを知っていた。
「……僕に、何かできるでしょうか」
 その問いに、宗兵衛はしばらく黙していた。
 やがて、ぽつりと答えた。
「“見守る”ということが、どれほど重いかを知るがいい」
 それは、「助けろ」とも「守れ」とも言わない言葉だった。
 けれど、それこそが、最も深く、長く続く祈りのかたちだった。
     ※
 翌朝。静は変わらず、道場にいた。
 何事もなかったかのように、床を拭き、木刀を持ち、稽古を始めていた。
第五話 「灰と硝子と、春を越える風」

 外からの風など、届いていないかのように。
 だが、榎本はわかっていた。
 静も、気づいている。
 文月の視線の意味を、手紙の重みを、周囲の変化を。
 それでも、彼は言わない。何も語らない。
 なぜなら――
 彼は“名がないまま”、生きる覚悟をすでに決めていたからだ。
 それは、逃げではなかった。
 立ち向かうでもなかった。
 ただ、“そのまま在り続ける”という、生きる姿勢だった。
     ※
 その日の午後、静は珍しく、自ら宗兵衛に声をかけた。
「師範」
「……なんだ」
「僕の剣は、正しいですか」
 宗兵衛は、目を細めた。
「正しさというのは、何を指して言う」
「人を斬ること。守ること。選ばれること」
 静の言葉は、まるで石を積むようだった。
 一つひとつが慎重で、どこにも感情の色がない。
 宗兵衛は、しばし考え、ゆっくりと答えた。
「……おまえの剣は、おまえだけのものだ。誰のためでも、何のためでもなくていい。だが――“名”を持ったとき、その剣は違う意味を持ち始めるだろう」
 静は少し黙ったあと、問い返した。
「……では、名を持たなければ、僕は斬らずにいられますか」
 その問いに、宗兵衛は何も言わなかった。
     ※
 外の風が吹いていた。
 遠くの雲が、かすかに崩れはじめていた。
 季節はまだ春のはずだったが、空の色はすでに灰のようだった。
 静は、剣を握る手を見ていた。
 その掌のなかに、未来があるのか、過去があるのか、自分でもわからなかった。
 だが、彼は握っていた。
 ただ、静かに、指を閉じて。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

別れし夫婦の御定書(おさだめがき)

佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★ 嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。 離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。 月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。 おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。 されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて—— ※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません

ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは 私に似た待望の男児だった。 なのに認められず、 不貞の濡れ衣を着せられ、 追い出されてしまった。 実家からも勘当され 息子と2人で生きていくことにした。 * 作り話です * 暇つぶしにどうぞ * 4万文字未満 * 完結保証付き * 少し大人表現あり

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

処理中です...