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第一章:道場の少年
第四話 「外から来た声」
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梅雨はとうに過ぎたというのに、空の色は鈍く、空気はいつまでも湿気を含んでいた。
朝から霧のような雨が降っていた。降るともなく、止むともなく、ただ景色の輪郭を柔らかく削いでいくような雨だった。
その日の朝、道場には誰よりも早く静が現れていた。
彼はまだ小さな背で、重そうな桶を二つ抱え、黙々と稽古場の板を濡らして拭いていた。
その所作には迷いがなかった。丁寧ではあるが、妙な職人めいた無駄のなさがある。まるで彼の中には、そうすることしか残されていないかのように。
“静は、生きることそのものが所作になっている”――
そんなふうに、誰かがぽつりと言ったことがあった。
何のために、誰のために、どうしてそこにいるのかを知らないまま、ただ整えるように、生きている。何も語らないくせに、どこまでも語っている背中だった。
※
午前の稽古が終わる頃、道場の門が叩かれた。
門下生たちは互いに目を合わせた。
この時間に来客があるのは珍しい。宗兵衛のもとへ親族が来ることはあったが、こうした湿った朝の来訪は記憶にない。
榎本が門を開けると、見慣れぬ男が立っていた。
旅装に近い羽織と袴、雪駄にわずかに泥がついている。笠はかぶっておらず、髪は短く、目つきは鋭い。どこか、道場の空気とは違う匂いがした。
「……失礼、此方に榊宗兵衛殿はおいでか」
声は低く、しかしどこか抑制のきいた柔らかさがあった。
榎本は一礼し、奥へと案内した。
男は道場に入ると、静かに全体を見回した。
目の奥に、計測するような光があった。何かを“測っている”のだ。畳の幅、柱の太さ、弟子たちの身なり。視線が、すべてをひとつずつ確かめるように動いた。
宗兵衛が縁側に姿を見せたのは、その直後だった。
「――このようなところへ、よくいらした」
宗兵衛の声には、礼と警戒が滲んでいた。
「お噂はかねがね。剣心館の名、京の方にも届いております」
「名などございませんよ。ただの田舎道場です」
男は笑った。だがその笑みにも、どこか冷めた陰があった。
「拙者、文月と申します。軍事視察の役目を仰せつかっております」
その言葉に、榎本は小さく息を呑んだ。
軍――それは、この静かな山村とは無縁に思えた存在だった。
だが、道場の人々のなかには、かすかに緊張の色が広がっていた。
文月は宗兵衛に軽く頭を下げると、道場の中央に立った。
「もし許されるならば、拝見したい。そちらで育てておられる門下の剣を――」
※
午後の稽古が始まった。
門下生たちの緊張は明らかだった。
木刀を握る手がいつもより力んでおり、動きは不自然なまでに整っていた。彼らは“見られている”ということに過敏だった。視線が自分たちを値踏みしていると知るだけで、心が乱れる。
そのなかにあって、静は変わらなかった。
淡々と動き、汗をかき、木刀を握り、打ち合いを繰り返す。
けれど、文月の視線はそこから離れなかった。
やがて稽古が終わる頃、文月が宗兵衛に声をかけた。
「ひとつ、お願いできますか」
「なんでしょう」
「先ほどの、あの白い少年――名をお聞きしても?」
宗兵衛は静かに目を細めた。
「沖田静。……と、呼ばれております」
「名は?」
「ございません。過去も、ございません。ですが、今はここにおります」
文月の眉がわずかに動いた。
「――あの子の剣、見せていただけますか」
※
道場の中央、再び構えが取られた。
静の前に立ったのは、新藤だった。
「やれるか」と聞かれ、静はただ頷いた。
文月が見つめるなか、二人が向かい合う。
「始め!」
宗兵衛の号令。
その一瞬、空気がすっと消えたように、静の姿が薄れた。
新藤が竹刀を振る。が、当たらない。
振り下ろしたはずの軌道を、静が避けていた。
避けたというより、“ずれた”。
それは空間がたわむような感覚だった。
静の身体はごく微かに横へ流れ、その流れのまま、竹刀が新藤の右肩すれすれに止まった。
息を呑む音が道場に広がる。
「一本……!」
宗兵衛の声は淡々としていたが、その目には微かに何かが揺れていた。
文月は、目を細めていた。
「……なるほど」
※
その日の夕刻。
門弟たちは稽古を終え、掃除をし、夕餉の支度に入っていた。
静はひとり、縁側の端に座っていた。
文月が、その傍に静かに腰を下ろした。
「……君は、何を守るために剣を振るう?」
その問いに、静はすぐには答えなかった。
彼の目が、遠くの山のほうを見ていた。けれど、何かを見ているというより、“何もない”ということを見ているようだった。
「――わかりません。ただ、振れるだけです」
「振ることに、意味を見いだしていない?」
静は首を横に振った。
「意味があるのなら、それを教えてほしいです」
その答えに、文月はしばし黙した。
風が笹を鳴らす音が、微かに響いていた。
「君のような者が、今の世には必要だ」
その言葉に、静はかすかに目を伏せた。
文月は立ち上がり、足元に視線を落とした。
「名もなく、過去もなく、ただ剣を持っている者。戦があれば、最前に立てる」
それは、褒め言葉ではなかった。
ただの“事実”として言われた言葉だった。
そして、静が初めて、わずかに息を吸った。
「――僕は、名前がないから、斬ってもいいのですか」
その問いに、文月は何も答えなかった。
※
文月が去ったのは翌日の朝だった。
雨は上がり、空気は澄んでいた。
榎本が見送りに出たとき、文月はふと立ち止まり、言った。
「……あの子を、“ここ”に置くには、大きすぎる」
「それでも、ここにしかいないのです」
榎本の返事に、文月は少し笑った。
「そうだろうな。……だが、世界のほうが放っておかないかもしれない」
それが、始まりだった。
白装束の剣士・沖田静。
その名が、外の世界の“目”に触れた、最初の朝だった。
朝から霧のような雨が降っていた。降るともなく、止むともなく、ただ景色の輪郭を柔らかく削いでいくような雨だった。
その日の朝、道場には誰よりも早く静が現れていた。
彼はまだ小さな背で、重そうな桶を二つ抱え、黙々と稽古場の板を濡らして拭いていた。
その所作には迷いがなかった。丁寧ではあるが、妙な職人めいた無駄のなさがある。まるで彼の中には、そうすることしか残されていないかのように。
“静は、生きることそのものが所作になっている”――
そんなふうに、誰かがぽつりと言ったことがあった。
何のために、誰のために、どうしてそこにいるのかを知らないまま、ただ整えるように、生きている。何も語らないくせに、どこまでも語っている背中だった。
※
午前の稽古が終わる頃、道場の門が叩かれた。
門下生たちは互いに目を合わせた。
この時間に来客があるのは珍しい。宗兵衛のもとへ親族が来ることはあったが、こうした湿った朝の来訪は記憶にない。
榎本が門を開けると、見慣れぬ男が立っていた。
旅装に近い羽織と袴、雪駄にわずかに泥がついている。笠はかぶっておらず、髪は短く、目つきは鋭い。どこか、道場の空気とは違う匂いがした。
「……失礼、此方に榊宗兵衛殿はおいでか」
声は低く、しかしどこか抑制のきいた柔らかさがあった。
榎本は一礼し、奥へと案内した。
男は道場に入ると、静かに全体を見回した。
目の奥に、計測するような光があった。何かを“測っている”のだ。畳の幅、柱の太さ、弟子たちの身なり。視線が、すべてをひとつずつ確かめるように動いた。
宗兵衛が縁側に姿を見せたのは、その直後だった。
「――このようなところへ、よくいらした」
宗兵衛の声には、礼と警戒が滲んでいた。
「お噂はかねがね。剣心館の名、京の方にも届いております」
「名などございませんよ。ただの田舎道場です」
男は笑った。だがその笑みにも、どこか冷めた陰があった。
「拙者、文月と申します。軍事視察の役目を仰せつかっております」
その言葉に、榎本は小さく息を呑んだ。
軍――それは、この静かな山村とは無縁に思えた存在だった。
だが、道場の人々のなかには、かすかに緊張の色が広がっていた。
文月は宗兵衛に軽く頭を下げると、道場の中央に立った。
「もし許されるならば、拝見したい。そちらで育てておられる門下の剣を――」
※
午後の稽古が始まった。
門下生たちの緊張は明らかだった。
木刀を握る手がいつもより力んでおり、動きは不自然なまでに整っていた。彼らは“見られている”ということに過敏だった。視線が自分たちを値踏みしていると知るだけで、心が乱れる。
そのなかにあって、静は変わらなかった。
淡々と動き、汗をかき、木刀を握り、打ち合いを繰り返す。
けれど、文月の視線はそこから離れなかった。
やがて稽古が終わる頃、文月が宗兵衛に声をかけた。
「ひとつ、お願いできますか」
「なんでしょう」
「先ほどの、あの白い少年――名をお聞きしても?」
宗兵衛は静かに目を細めた。
「沖田静。……と、呼ばれております」
「名は?」
「ございません。過去も、ございません。ですが、今はここにおります」
文月の眉がわずかに動いた。
「――あの子の剣、見せていただけますか」
※
道場の中央、再び構えが取られた。
静の前に立ったのは、新藤だった。
「やれるか」と聞かれ、静はただ頷いた。
文月が見つめるなか、二人が向かい合う。
「始め!」
宗兵衛の号令。
その一瞬、空気がすっと消えたように、静の姿が薄れた。
新藤が竹刀を振る。が、当たらない。
振り下ろしたはずの軌道を、静が避けていた。
避けたというより、“ずれた”。
それは空間がたわむような感覚だった。
静の身体はごく微かに横へ流れ、その流れのまま、竹刀が新藤の右肩すれすれに止まった。
息を呑む音が道場に広がる。
「一本……!」
宗兵衛の声は淡々としていたが、その目には微かに何かが揺れていた。
文月は、目を細めていた。
「……なるほど」
※
その日の夕刻。
門弟たちは稽古を終え、掃除をし、夕餉の支度に入っていた。
静はひとり、縁側の端に座っていた。
文月が、その傍に静かに腰を下ろした。
「……君は、何を守るために剣を振るう?」
その問いに、静はすぐには答えなかった。
彼の目が、遠くの山のほうを見ていた。けれど、何かを見ているというより、“何もない”ということを見ているようだった。
「――わかりません。ただ、振れるだけです」
「振ることに、意味を見いだしていない?」
静は首を横に振った。
「意味があるのなら、それを教えてほしいです」
その答えに、文月はしばし黙した。
風が笹を鳴らす音が、微かに響いていた。
「君のような者が、今の世には必要だ」
その言葉に、静はかすかに目を伏せた。
文月は立ち上がり、足元に視線を落とした。
「名もなく、過去もなく、ただ剣を持っている者。戦があれば、最前に立てる」
それは、褒め言葉ではなかった。
ただの“事実”として言われた言葉だった。
そして、静が初めて、わずかに息を吸った。
「――僕は、名前がないから、斬ってもいいのですか」
その問いに、文月は何も答えなかった。
※
文月が去ったのは翌日の朝だった。
雨は上がり、空気は澄んでいた。
榎本が見送りに出たとき、文月はふと立ち止まり、言った。
「……あの子を、“ここ”に置くには、大きすぎる」
「それでも、ここにしかいないのです」
榎本の返事に、文月は少し笑った。
「そうだろうな。……だが、世界のほうが放っておかないかもしれない」
それが、始まりだった。
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その名が、外の世界の“目”に触れた、最初の朝だった。
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