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第二章:鬼神の出陣
第一話「軍道、白き影を連れ」
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その日、馬の蹄の音はなかった。
道場を発って軍へと赴く静の足取りは、まるで“音”というものを拒絶していた。
白装束の上に簡素な外套を羽織り、背に一本の木刀だけを携えて。
彼は、誰にも手を振らなかった。
誰にも告げずに、ただ“行く”という行為だけを置いてゆくように、山道を下っていった。
誰も、止めなかった。
止められなかった。
すでに彼は、“名を持たぬ者”として、この世のどこにも属していなかったからだ。
※
軍の駐屯地は、麓の町からさらに馬車で半日かかる平野にあった。
砦というほどでもない。仮設の野営地に近い、未完成の軍営。
そこに静は連れてこられた。
十五になったばかりの少年としての身体に、与えられたのは粗末な兵衣。
洗っても落ちきらない血と泥の染みが、布地の底に沈んでいた。
それを羽織ることは、「おまえもまた“戦場のもの”だ」と言われるようなものだった。
木刀は、取り上げられた。
代わりに――剣が、与えられた。
本物の、鉄の剣。
誰かを斬り、血を吸い、また新たな命を奪うためだけに存在する道具。
静は、その重みを何度も握り直した。
何も言わず、誰にも問わず、ただ重さだけを確かめるように。
※
「名は」
隊長格の男が問うた。
声は硬質で、刃がこすれるような語調だった。
「沖田静、と呼ばれております」
「本名ではないな」
「……はい。僕は、戸籍がありません」
「剣は使えるのか」
「振れます」
その答えに、男は眉を動かさなかった。
ただ、一言だけ発した。
「なら、斬れ」
その言葉が、静の胸に重く落ちた。
斬れ、と言われた。
名も、過去もいらない。ただ斬ること。それが“戦場の役割”だと、告げられた。
静は頷いた。
拒まなかった。けれど、頷いた瞬間、どこかの空が少しだけ、色をなくした気がした。
※
初日は、何も命じられなかった。
ただ、座らされ、待たされた。
その静けさのなかにあっても、静は落ち着いていた。
むしろ、静寂を好んだ。
道場でもそうだった。声が交わされる前の沈黙が、静にはいちばん“落ち着く場所”だった。
だが、軍の沈黙には意味がなかった。
そこには“恐れ”も“怒り”も“感情”もなかった。
ただ、命令が下るのを待つだけの“生きた兵器”たちの、使われる順番を待つだけの空気。
その沈黙のなかに、静は少しだけ違和感を覚えた。
――ここには、「問い」がない。
そう思った。
剣は、問いかけるものだった。
誰かと向き合うとき、自分自身を写すとき、それは“答え”を求める手段ではなく、“問い”そのものとして在った。
だが、ここでは違った。
剣はただ“使われる”。
問いも、理由も、何もいらなかった。
※
翌日、命令が下った。
「周辺の斥候を掃討せよ」
「追撃部隊に参加せよ」
「必要であれば、斬れ」
配属されたのは“第六小隊”。
新兵と徴集兵で構成された、いわば“捨て駒”だった。
静は文句を言わなかった。
他の兵も、何も言わなかった。
最前線ではなかった。
だが、“いつ死んでもおかしくない場所”には、間違いなかった。
※
初陣は、森だった。
雨のあとの湿った草が靴のなかに入り込み、地面はやわらかく、歩を重ねるたびに“ぬるり”と土の手が足首を握ってくるようだった。
敵は、数人。
偵察中の部隊だったと記録にはある。
けれど、静の目には、まるで“闇”のなかに潜む獣のようにしか見えなかった。
初めて剣を抜いた。
その瞬間、自分の中で何かが変わった。
空気の流れが変わった。
指先が鋭くなる。
耳が、音の細部を捉える。
敵の息づかい、足音、空の雲の動きまでもが、全部“音”になった。
――斬れる。
そう、思った。
自分が、“斬れるように作られている”とわかってしまった。
その事実に、静は一瞬、息を呑んだ。
敵兵がこちらに気づくより早く、動いた。
歩を踏み出す。
斜めに跳ぶ。
剣を振る。
音はなかった。
一人、二人、三人。
誰も叫ばなかった。
ただ、倒れた。
血が跳ねた。
白装束の袖口が赤く染まった。
その赤を、静は見つめた。
“これは、自分の色ではない”
そう思った。
だから、振り返らなかった。
倒れた者を見なかった。
けれど、確かに、自分の剣が“命”を断ったことだけは、わかっていた。
※
その日から、噂が広がり始めた。
――「白い影が、森で兵を斬った」
――「音もなく、刃も見えず、ただ全員が倒れていた」
――「鬼神のようだった」
静は、自分が何をしたのか、誰を斬ったのかを、覚えていなかった。
斬ること自体が、記憶を曇らせるようだった。
だが、あるとき――雨の夜、ふと思った。
「……剣とは、何を護るためにあるのか」
その問いだけが、自分のなかにぽつりと残っていた。
斬った命の重みは感じなかった。
痛みも、熱も、怒りもなかった。
ただ、その問いだけが、ひとつの“切れ端”のように、自分の胸に貼りついていた。
道場を発って軍へと赴く静の足取りは、まるで“音”というものを拒絶していた。
白装束の上に簡素な外套を羽織り、背に一本の木刀だけを携えて。
彼は、誰にも手を振らなかった。
誰にも告げずに、ただ“行く”という行為だけを置いてゆくように、山道を下っていった。
誰も、止めなかった。
止められなかった。
すでに彼は、“名を持たぬ者”として、この世のどこにも属していなかったからだ。
※
軍の駐屯地は、麓の町からさらに馬車で半日かかる平野にあった。
砦というほどでもない。仮設の野営地に近い、未完成の軍営。
そこに静は連れてこられた。
十五になったばかりの少年としての身体に、与えられたのは粗末な兵衣。
洗っても落ちきらない血と泥の染みが、布地の底に沈んでいた。
それを羽織ることは、「おまえもまた“戦場のもの”だ」と言われるようなものだった。
木刀は、取り上げられた。
代わりに――剣が、与えられた。
本物の、鉄の剣。
誰かを斬り、血を吸い、また新たな命を奪うためだけに存在する道具。
静は、その重みを何度も握り直した。
何も言わず、誰にも問わず、ただ重さだけを確かめるように。
※
「名は」
隊長格の男が問うた。
声は硬質で、刃がこすれるような語調だった。
「沖田静、と呼ばれております」
「本名ではないな」
「……はい。僕は、戸籍がありません」
「剣は使えるのか」
「振れます」
その答えに、男は眉を動かさなかった。
ただ、一言だけ発した。
「なら、斬れ」
その言葉が、静の胸に重く落ちた。
斬れ、と言われた。
名も、過去もいらない。ただ斬ること。それが“戦場の役割”だと、告げられた。
静は頷いた。
拒まなかった。けれど、頷いた瞬間、どこかの空が少しだけ、色をなくした気がした。
※
初日は、何も命じられなかった。
ただ、座らされ、待たされた。
その静けさのなかにあっても、静は落ち着いていた。
むしろ、静寂を好んだ。
道場でもそうだった。声が交わされる前の沈黙が、静にはいちばん“落ち着く場所”だった。
だが、軍の沈黙には意味がなかった。
そこには“恐れ”も“怒り”も“感情”もなかった。
ただ、命令が下るのを待つだけの“生きた兵器”たちの、使われる順番を待つだけの空気。
その沈黙のなかに、静は少しだけ違和感を覚えた。
――ここには、「問い」がない。
そう思った。
剣は、問いかけるものだった。
誰かと向き合うとき、自分自身を写すとき、それは“答え”を求める手段ではなく、“問い”そのものとして在った。
だが、ここでは違った。
剣はただ“使われる”。
問いも、理由も、何もいらなかった。
※
翌日、命令が下った。
「周辺の斥候を掃討せよ」
「追撃部隊に参加せよ」
「必要であれば、斬れ」
配属されたのは“第六小隊”。
新兵と徴集兵で構成された、いわば“捨て駒”だった。
静は文句を言わなかった。
他の兵も、何も言わなかった。
最前線ではなかった。
だが、“いつ死んでもおかしくない場所”には、間違いなかった。
※
初陣は、森だった。
雨のあとの湿った草が靴のなかに入り込み、地面はやわらかく、歩を重ねるたびに“ぬるり”と土の手が足首を握ってくるようだった。
敵は、数人。
偵察中の部隊だったと記録にはある。
けれど、静の目には、まるで“闇”のなかに潜む獣のようにしか見えなかった。
初めて剣を抜いた。
その瞬間、自分の中で何かが変わった。
空気の流れが変わった。
指先が鋭くなる。
耳が、音の細部を捉える。
敵の息づかい、足音、空の雲の動きまでもが、全部“音”になった。
――斬れる。
そう、思った。
自分が、“斬れるように作られている”とわかってしまった。
その事実に、静は一瞬、息を呑んだ。
敵兵がこちらに気づくより早く、動いた。
歩を踏み出す。
斜めに跳ぶ。
剣を振る。
音はなかった。
一人、二人、三人。
誰も叫ばなかった。
ただ、倒れた。
血が跳ねた。
白装束の袖口が赤く染まった。
その赤を、静は見つめた。
“これは、自分の色ではない”
そう思った。
だから、振り返らなかった。
倒れた者を見なかった。
けれど、確かに、自分の剣が“命”を断ったことだけは、わかっていた。
※
その日から、噂が広がり始めた。
――「白い影が、森で兵を斬った」
――「音もなく、刃も見えず、ただ全員が倒れていた」
――「鬼神のようだった」
静は、自分が何をしたのか、誰を斬ったのかを、覚えていなかった。
斬ること自体が、記憶を曇らせるようだった。
だが、あるとき――雨の夜、ふと思った。
「……剣とは、何を護るためにあるのか」
その問いだけが、自分のなかにぽつりと残っていた。
斬った命の重みは感じなかった。
痛みも、熱も、怒りもなかった。
ただ、その問いだけが、ひとつの“切れ端”のように、自分の胸に貼りついていた。
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