名もなき剣に、雪が降る

斎宮たまき/斎宮環

文字の大きさ
10 / 21
第二章:鬼神の出陣

第一話「軍道、白き影を連れ」

しおりを挟む
 その日、馬の蹄の音はなかった。
 道場を発って軍へと赴く静の足取りは、まるで“音”というものを拒絶していた。
 白装束の上に簡素な外套を羽織り、背に一本の木刀だけを携えて。
 彼は、誰にも手を振らなかった。
 誰にも告げずに、ただ“行く”という行為だけを置いてゆくように、山道を下っていった。
 誰も、止めなかった。
 止められなかった。
 すでに彼は、“名を持たぬ者”として、この世のどこにも属していなかったからだ。
     ※
 軍の駐屯地は、麓の町からさらに馬車で半日かかる平野にあった。
 砦というほどでもない。仮設の野営地に近い、未完成の軍営。
 そこに静は連れてこられた。
 十五になったばかりの少年としての身体に、与えられたのは粗末な兵衣。
 洗っても落ちきらない血と泥の染みが、布地の底に沈んでいた。
 それを羽織ることは、「おまえもまた“戦場のもの”だ」と言われるようなものだった。
 木刀は、取り上げられた。
 代わりに――剣が、与えられた。
 本物の、鉄の剣。
 誰かを斬り、血を吸い、また新たな命を奪うためだけに存在する道具。
 静は、その重みを何度も握り直した。
 何も言わず、誰にも問わず、ただ重さだけを確かめるように。
     ※
「名は」
 隊長格の男が問うた。
 声は硬質で、刃がこすれるような語調だった。
「沖田静、と呼ばれております」
「本名ではないな」
「……はい。僕は、戸籍がありません」
「剣は使えるのか」
「振れます」
 その答えに、男は眉を動かさなかった。
 ただ、一言だけ発した。
「なら、斬れ」
 その言葉が、静の胸に重く落ちた。
 斬れ、と言われた。
 名も、過去もいらない。ただ斬ること。それが“戦場の役割”だと、告げられた。
 静は頷いた。
 拒まなかった。けれど、頷いた瞬間、どこかの空が少しだけ、色をなくした気がした。
     ※
 初日は、何も命じられなかった。
 ただ、座らされ、待たされた。
 その静けさのなかにあっても、静は落ち着いていた。
 むしろ、静寂を好んだ。
 道場でもそうだった。声が交わされる前の沈黙が、静にはいちばん“落ち着く場所”だった。
 だが、軍の沈黙には意味がなかった。
 そこには“恐れ”も“怒り”も“感情”もなかった。
 ただ、命令が下るのを待つだけの“生きた兵器”たちの、使われる順番を待つだけの空気。
 その沈黙のなかに、静は少しだけ違和感を覚えた。
 ――ここには、「問い」がない。
 そう思った。
 剣は、問いかけるものだった。
 誰かと向き合うとき、自分自身を写すとき、それは“答え”を求める手段ではなく、“問い”そのものとして在った。
 だが、ここでは違った。
 剣はただ“使われる”。
 問いも、理由も、何もいらなかった。
     ※
 翌日、命令が下った。
「周辺の斥候を掃討せよ」
「追撃部隊に参加せよ」
「必要であれば、斬れ」
 配属されたのは“第六小隊”。
 新兵と徴集兵で構成された、いわば“捨て駒”だった。
 静は文句を言わなかった。
 他の兵も、何も言わなかった。
 最前線ではなかった。
 だが、“いつ死んでもおかしくない場所”には、間違いなかった。
     ※
 初陣は、森だった。
 雨のあとの湿った草が靴のなかに入り込み、地面はやわらかく、歩を重ねるたびに“ぬるり”と土の手が足首を握ってくるようだった。
 敵は、数人。
 偵察中の部隊だったと記録にはある。
 けれど、静の目には、まるで“闇”のなかに潜む獣のようにしか見えなかった。
 初めて剣を抜いた。
 その瞬間、自分の中で何かが変わった。
 空気の流れが変わった。
 指先が鋭くなる。
 耳が、音の細部を捉える。
 敵の息づかい、足音、空の雲の動きまでもが、全部“音”になった。
 ――斬れる。
 そう、思った。
 自分が、“斬れるように作られている”とわかってしまった。
 その事実に、静は一瞬、息を呑んだ。
 敵兵がこちらに気づくより早く、動いた。
 歩を踏み出す。
 斜めに跳ぶ。
 剣を振る。
 音はなかった。
 一人、二人、三人。
 誰も叫ばなかった。
 ただ、倒れた。
 血が跳ねた。
 白装束の袖口が赤く染まった。
 その赤を、静は見つめた。
 “これは、自分の色ではない”
 そう思った。
 だから、振り返らなかった。
 倒れた者を見なかった。
 けれど、確かに、自分の剣が“命”を断ったことだけは、わかっていた。
     ※
 その日から、噂が広がり始めた。
 ――「白い影が、森で兵を斬った」
 ――「音もなく、刃も見えず、ただ全員が倒れていた」
 ――「鬼神のようだった」
 静は、自分が何をしたのか、誰を斬ったのかを、覚えていなかった。
 斬ること自体が、記憶を曇らせるようだった。
 だが、あるとき――雨の夜、ふと思った。
「……剣とは、何を護るためにあるのか」
 その問いだけが、自分のなかにぽつりと残っていた。
 斬った命の重みは感じなかった。
 痛みも、熱も、怒りもなかった。
 ただ、その問いだけが、ひとつの“切れ端”のように、自分の胸に貼りついていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

別れし夫婦の御定書(おさだめがき)

佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★ 嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。 離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。 月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。 おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。 されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて—— ※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い

青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。 神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。 もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。 生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。 過去世と同じ轍を踏みたくない……

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

処理中です...