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第二章:鬼神の出陣
第八話「鬼神の影、野を駆ける」
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夜だった。
月は翳り、曇天の裂け目から、灰色の光がわずかに洩れていた。
風は湿っていたが、生ぬるい。
焼けた土の匂いと、血の気配が、交互に地面を這っているようだった。
その夜、彼は確かにいた――と、彼らは言った。
「……白かったんだ。ほんとに、白かった。……人間の色じゃねえ」
斥候として先行していた敵軍の一兵、若い兵士が、布で口を拭いながら語る。
彼の手は、細かく震えていた。
「光もねえのに、見えたんだ。月の明かりじゃない。……あれは、“剣の光”だったんだと思う」
別の兵は、腰を抜かしていた。
「動かなかった。ずっと、立ってただけなんだ。けど、気づいたら……俺たちは全員、逃げてた。背を向けた奴が斬られたわけじゃねえ、なのに――誰もが、“自分が次に斬られる”って確信してた」
語られた話は、次第に尾ひれをまとっていく。
“森の白い影”
“声を持たぬ鬼神”
“剣が抜かれぬまま、斬られる”
“目があった瞬間に、心を折られる”
“影が動いたと思ったら、もう誰かが倒れていた”――
名前はなかった。だが、確かにそこに“何か”がいた。
そして彼らはそれを、こう呼んだ。
**「白い鬼神」**と。
※
同じ夜、静は野営地の外れにいた。
炊爨の匂いを避けて、小さな小川の近くに座っていた。
湯に通した布で顔を拭いながら、しばし、水の流れる音に耳を澄ませる。
剣を手にしていたわけではない。
だが、腰にあるそれは、身体の一部のように重く、静かだった。
斬らぬという選択のあと、彼はより一層、沈黙のなかに沈んでいった。
あの夜の敵兵の顔を、彼は覚えていた。
殺せなかった、のではない。
斬る意味が見いだせなかった。
ただ、剣を抜く理由が、どこにもなかった。
あの者たちは、剣を交える準備をしていなかった。
その気配が、彼の足を止めた。
だが、それは彼個人の感覚であって、軍の命ではなかった。
命令を逸脱した自覚はある。
それでも、どうしてもあのとき、斬れなかった。
あの冷たい風の夜に、剣を振るえば、それは“自分の意志”ではなかった気がした。
己の剣は、誰のために在るのか。
この問いが、数日、静の内部で燃えていた。
燻る火種のように、消えかけては再び息を吹き返す。
※
「おい、沖田。……今夜、ちょっと話せるか?」
静が水場から戻ろうとしたとき、呼び止めたのは村上だった。
「野営の裏に、焚き火ひとつ持ってきた。……黙ってるだけでも構わねえ。お前さんの顔、最近誰もまともに見てねぇだろ」
静はわずかに目を伏せた。
「……ありがたいです」
その夜、ふたりはほとんど言葉を交わさなかった。
村上が猪の干し肉を串に刺し、火にかける。
静はその焚き火の温度を、じっと指先で測るように見つめていた。
「なあ、沖田。……お前さ、“剣ってのは護るもん”だと思うか?」
唐突な問いだった。
だが、静はすぐには答えなかった。
その沈黙を咎めることなく、村上は少し目を細めた。
「俺はさ、正直わからねぇ。剣で護れるもんなんて、ほんの一握りだ。……けどな、お前の斬らなかったって話、俺は聞いても怖くねぇ。むしろ、ちょっと……ホッとしたんだよな」
「……なぜですか?」
「わかんねぇよ。けどよ、“斬らなかった”ってことが、“斬られなかった奴ら”の心を救ってることもあるんじゃねぇかと思ってさ」
静は、火を見つめながら、わずかに目を細めた。
剣とは、誰かを救うためにあるのか。
それとも、誰かを断つためにあるのか。
斬らないことが、救いである日があるならば、
斬らなければ、救えない日もまた、来るのだろう。
ただ、その境目が、いまはまだ、わからない。
己の心が、その線を定めるのかもしれない。
だとすれば――剣とは、つねに“問うもの”でなければならない。
※
翌朝、ひとりの伝令が本陣に駆け込んできた。
「敵方の野営地にて、複数の兵が“白装束の剣士に遭遇した”と証言しております!」
「斬られたのか?」
「……いえ。“目が合っただけで逃げ出した”、“影に睨まれた気がした”という者ばかりです」
幕僚たちは顔を見合わせた。
「そんな者、本当にいたのか? ただの噂ではないのか」
「ですが……彼らは口を揃えて、“白い鬼神”と――」
その名は、兵たちの間で、もう既に一人歩きを始めていた。
沖田静――
その名を知る者よりも早く、
“白い鬼神”という影が、野を駆けていた。
月は翳り、曇天の裂け目から、灰色の光がわずかに洩れていた。
風は湿っていたが、生ぬるい。
焼けた土の匂いと、血の気配が、交互に地面を這っているようだった。
その夜、彼は確かにいた――と、彼らは言った。
「……白かったんだ。ほんとに、白かった。……人間の色じゃねえ」
斥候として先行していた敵軍の一兵、若い兵士が、布で口を拭いながら語る。
彼の手は、細かく震えていた。
「光もねえのに、見えたんだ。月の明かりじゃない。……あれは、“剣の光”だったんだと思う」
別の兵は、腰を抜かしていた。
「動かなかった。ずっと、立ってただけなんだ。けど、気づいたら……俺たちは全員、逃げてた。背を向けた奴が斬られたわけじゃねえ、なのに――誰もが、“自分が次に斬られる”って確信してた」
語られた話は、次第に尾ひれをまとっていく。
“森の白い影”
“声を持たぬ鬼神”
“剣が抜かれぬまま、斬られる”
“目があった瞬間に、心を折られる”
“影が動いたと思ったら、もう誰かが倒れていた”――
名前はなかった。だが、確かにそこに“何か”がいた。
そして彼らはそれを、こう呼んだ。
**「白い鬼神」**と。
※
同じ夜、静は野営地の外れにいた。
炊爨の匂いを避けて、小さな小川の近くに座っていた。
湯に通した布で顔を拭いながら、しばし、水の流れる音に耳を澄ませる。
剣を手にしていたわけではない。
だが、腰にあるそれは、身体の一部のように重く、静かだった。
斬らぬという選択のあと、彼はより一層、沈黙のなかに沈んでいった。
あの夜の敵兵の顔を、彼は覚えていた。
殺せなかった、のではない。
斬る意味が見いだせなかった。
ただ、剣を抜く理由が、どこにもなかった。
あの者たちは、剣を交える準備をしていなかった。
その気配が、彼の足を止めた。
だが、それは彼個人の感覚であって、軍の命ではなかった。
命令を逸脱した自覚はある。
それでも、どうしてもあのとき、斬れなかった。
あの冷たい風の夜に、剣を振るえば、それは“自分の意志”ではなかった気がした。
己の剣は、誰のために在るのか。
この問いが、数日、静の内部で燃えていた。
燻る火種のように、消えかけては再び息を吹き返す。
※
「おい、沖田。……今夜、ちょっと話せるか?」
静が水場から戻ろうとしたとき、呼び止めたのは村上だった。
「野営の裏に、焚き火ひとつ持ってきた。……黙ってるだけでも構わねえ。お前さんの顔、最近誰もまともに見てねぇだろ」
静はわずかに目を伏せた。
「……ありがたいです」
その夜、ふたりはほとんど言葉を交わさなかった。
村上が猪の干し肉を串に刺し、火にかける。
静はその焚き火の温度を、じっと指先で測るように見つめていた。
「なあ、沖田。……お前さ、“剣ってのは護るもん”だと思うか?」
唐突な問いだった。
だが、静はすぐには答えなかった。
その沈黙を咎めることなく、村上は少し目を細めた。
「俺はさ、正直わからねぇ。剣で護れるもんなんて、ほんの一握りだ。……けどな、お前の斬らなかったって話、俺は聞いても怖くねぇ。むしろ、ちょっと……ホッとしたんだよな」
「……なぜですか?」
「わかんねぇよ。けどよ、“斬らなかった”ってことが、“斬られなかった奴ら”の心を救ってることもあるんじゃねぇかと思ってさ」
静は、火を見つめながら、わずかに目を細めた。
剣とは、誰かを救うためにあるのか。
それとも、誰かを断つためにあるのか。
斬らないことが、救いである日があるならば、
斬らなければ、救えない日もまた、来るのだろう。
ただ、その境目が、いまはまだ、わからない。
己の心が、その線を定めるのかもしれない。
だとすれば――剣とは、つねに“問うもの”でなければならない。
※
翌朝、ひとりの伝令が本陣に駆け込んできた。
「敵方の野営地にて、複数の兵が“白装束の剣士に遭遇した”と証言しております!」
「斬られたのか?」
「……いえ。“目が合っただけで逃げ出した”、“影に睨まれた気がした”という者ばかりです」
幕僚たちは顔を見合わせた。
「そんな者、本当にいたのか? ただの噂ではないのか」
「ですが……彼らは口を揃えて、“白い鬼神”と――」
その名は、兵たちの間で、もう既に一人歩きを始めていた。
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その名を知る者よりも早く、
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