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第二章:鬼神の出陣
第七話「白い異端」
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斬らなかったことについて、誰も何も言わなかった。
それが、最初に静が感じた“異変”だった。
報告書は形式通りに通され、命令違反とは記録されなかった。
しかし、それが正式な評価を伴わないまま通過した事実そのものが、むしろ彼を孤立させた。
言葉にならない空気が、目に見えぬまま、幕舎の隙間から、炊爨の煙の匂いに紛れて、じわじわと兵たちの間に染み渡っていった。
剣士・沖田静。
命令を下された斥候任務において、敵を斬らなかった。
命を救ったとも、戦果を挙げなかったとも言われないまま、
ただ一言、「斬らなかった」という行為だけが、ひとり歩きを始めていた。
※
「なあ、おまえさ、斥候の帰り、何があったんだよ」
声をかけてきたのは、先月から同じ第三中隊に配属された年長の兵、村上だった。
野良出の元狩人で、背が高く、言葉も粗いが、年下に妙に世話を焼く性格で知られていた。
静は、火番の交代で立ち寄った炊爨所の脇で、何も言わず薪をくべていた。
指の先に煤がついても、彼は黙ったまま薪を組み直していた。
村上は肩をすくめて、湯気の立つ釜のふたを片手で押さえた。
「俺ァさ、おまえみたいに“剣の筋”があるわけでもねぇけどよ。斥候帰りのやつが一言も口きかねぇのは、見りゃわかるんだよ。……何かあったろ?」
その声に、静はふと手を止めた。
火の粉が、ひとつ、薪の上で弾けた。
焚き火の熱が頬にあたり、沈黙がその上に降った。
「……何も、ありませんでした」
静の声は、まるで灰が舌先にかかったように、乾いていた。
「そうかよ」と村上は吐き出すように言った。
それ以上、何も訊かなかった。
ただ、湯が沸くまでの数分、彼はそばに座っていただけだった。
※
数日後。
中隊の若手のあいだで、噂が立った。
「あの白いやつ、敵兵を前にして、刀を抜かなかったらしいぜ」
「じゃあ何のために送り込まれたんだ? ただの見物人か?」
「いや……誰にも気づかれずに帰ってきたって話だろ? そっちのほうがよっぽど怖い」
「本隊の連中、皆“あいつが本気になったら誰も止められねぇ”って言ってるよ」
「じゃあ、斬らなかったんじゃなくて、“斬る必要がなかった”んじゃ……?」
囁きは、音にならぬまま、伝播していった。
やがて、静は“斬らなかった男”ではなく、“斬るまでもなかった男”として語られはじめる。
その噂の、どこに真実があり、どこが虚構だったか、誰も気にしていなかった。
“白い鬼神”――
まだ、誰もそうは呼んでいなかった。
だが、その片鱗は、静かに形をとり始めていた。
※
夕刻の剣の稽古。
静は、誰からも声をかけられなくなった。
元々、彼の佇まいは寡黙で、誰とも馴れ合うことがなかった。
けれど、それでも一緒に竹刀を交え、肩を並べる者たちはいた。
今ではそれが、いつの間にか、自然と遠巻きにされていた。
斬らない者は、信頼されない。
命令に背く者は、恐れられる。
その両方を背負った静は、剣の間合いの外側に追いやられていた。
ある晩、稽古場の片隅に立っていた静に、初老の指導役が声をかけた。
「沖田、おまえ、今日も誰とも組んでないのか」
「はい」
それだけを答えて、静は頭を下げた。
指導役は、何か言いたげに口を開きかけて、結局、言葉を飲み込んだ。
そして、わずかにうなずき、こう言った。
「なら、今日は俺が相手をしよう」
竹刀を握る手に、静は初めて、微かに熱を感じた。
斬らずにいたこと。
その行為が、誰かの命を救ったことになるのか。
それとも、それはただの“臆病”にすぎなかったのか。
答えは出なかった。
だが、その夜、静は、久しぶりに正面から誰かの竹刀を受けた。
その重さが、言葉より深く彼の胸に残った。
※
その数日後の夜――
哨戒から戻った兵士が、幹部テントに報告を届けに来た。
「昨夜の斥候区域に、敵軍の遺棄品がありました」
「遺棄品?」
「はい。武具はすべてそのままに、軍旗だけが折られておりました。……まるで、“戦わずに退いた”ような」
報告を受けた上官は、黙って地図の上を睨んでいた。
「……あのとき、斬っていたら、奴らは応戦しただろうな」
それだけを呟き、上官は地図を巻き、封をした。
その報告は、静の元には届かなかった。
けれどその夜、彼は一人、寝台の上で、剣の柄を胸に置いて眠った。
夢の中で、誰かが剣を抜こうとして、抜かずに去っていく背を見た。
その影は、夜の中に溶けていった。
斬らぬという選択。
それは、世界から拒絶されるということ。
だがその拒絶が、彼にとって、最初の“赦し”だったのかもしれない。
それが、最初に静が感じた“異変”だった。
報告書は形式通りに通され、命令違反とは記録されなかった。
しかし、それが正式な評価を伴わないまま通過した事実そのものが、むしろ彼を孤立させた。
言葉にならない空気が、目に見えぬまま、幕舎の隙間から、炊爨の煙の匂いに紛れて、じわじわと兵たちの間に染み渡っていった。
剣士・沖田静。
命令を下された斥候任務において、敵を斬らなかった。
命を救ったとも、戦果を挙げなかったとも言われないまま、
ただ一言、「斬らなかった」という行為だけが、ひとり歩きを始めていた。
※
「なあ、おまえさ、斥候の帰り、何があったんだよ」
声をかけてきたのは、先月から同じ第三中隊に配属された年長の兵、村上だった。
野良出の元狩人で、背が高く、言葉も粗いが、年下に妙に世話を焼く性格で知られていた。
静は、火番の交代で立ち寄った炊爨所の脇で、何も言わず薪をくべていた。
指の先に煤がついても、彼は黙ったまま薪を組み直していた。
村上は肩をすくめて、湯気の立つ釜のふたを片手で押さえた。
「俺ァさ、おまえみたいに“剣の筋”があるわけでもねぇけどよ。斥候帰りのやつが一言も口きかねぇのは、見りゃわかるんだよ。……何かあったろ?」
その声に、静はふと手を止めた。
火の粉が、ひとつ、薪の上で弾けた。
焚き火の熱が頬にあたり、沈黙がその上に降った。
「……何も、ありませんでした」
静の声は、まるで灰が舌先にかかったように、乾いていた。
「そうかよ」と村上は吐き出すように言った。
それ以上、何も訊かなかった。
ただ、湯が沸くまでの数分、彼はそばに座っていただけだった。
※
数日後。
中隊の若手のあいだで、噂が立った。
「あの白いやつ、敵兵を前にして、刀を抜かなかったらしいぜ」
「じゃあ何のために送り込まれたんだ? ただの見物人か?」
「いや……誰にも気づかれずに帰ってきたって話だろ? そっちのほうがよっぽど怖い」
「本隊の連中、皆“あいつが本気になったら誰も止められねぇ”って言ってるよ」
「じゃあ、斬らなかったんじゃなくて、“斬る必要がなかった”んじゃ……?」
囁きは、音にならぬまま、伝播していった。
やがて、静は“斬らなかった男”ではなく、“斬るまでもなかった男”として語られはじめる。
その噂の、どこに真実があり、どこが虚構だったか、誰も気にしていなかった。
“白い鬼神”――
まだ、誰もそうは呼んでいなかった。
だが、その片鱗は、静かに形をとり始めていた。
※
夕刻の剣の稽古。
静は、誰からも声をかけられなくなった。
元々、彼の佇まいは寡黙で、誰とも馴れ合うことがなかった。
けれど、それでも一緒に竹刀を交え、肩を並べる者たちはいた。
今ではそれが、いつの間にか、自然と遠巻きにされていた。
斬らない者は、信頼されない。
命令に背く者は、恐れられる。
その両方を背負った静は、剣の間合いの外側に追いやられていた。
ある晩、稽古場の片隅に立っていた静に、初老の指導役が声をかけた。
「沖田、おまえ、今日も誰とも組んでないのか」
「はい」
それだけを答えて、静は頭を下げた。
指導役は、何か言いたげに口を開きかけて、結局、言葉を飲み込んだ。
そして、わずかにうなずき、こう言った。
「なら、今日は俺が相手をしよう」
竹刀を握る手に、静は初めて、微かに熱を感じた。
斬らずにいたこと。
その行為が、誰かの命を救ったことになるのか。
それとも、それはただの“臆病”にすぎなかったのか。
答えは出なかった。
だが、その夜、静は、久しぶりに正面から誰かの竹刀を受けた。
その重さが、言葉より深く彼の胸に残った。
※
その数日後の夜――
哨戒から戻った兵士が、幹部テントに報告を届けに来た。
「昨夜の斥候区域に、敵軍の遺棄品がありました」
「遺棄品?」
「はい。武具はすべてそのままに、軍旗だけが折られておりました。……まるで、“戦わずに退いた”ような」
報告を受けた上官は、黙って地図の上を睨んでいた。
「……あのとき、斬っていたら、奴らは応戦しただろうな」
それだけを呟き、上官は地図を巻き、封をした。
その報告は、静の元には届かなかった。
けれどその夜、彼は一人、寝台の上で、剣の柄を胸に置いて眠った。
夢の中で、誰かが剣を抜こうとして、抜かずに去っていく背を見た。
その影は、夜の中に溶けていった。
斬らぬという選択。
それは、世界から拒絶されるということ。
だがその拒絶が、彼にとって、最初の“赦し”だったのかもしれない。
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