15 / 21
第二章:鬼神の出陣
第六話「斥候の夜、剣の沈黙」
しおりを挟む
夕餉の鐘が遠くで鳴っていた。
響きはかすかだった。まるで、誰かの祈りが地の底でくぐもったような音。
斥候としての初任務――その出撃前、沖田静は、隊の者とは別の天幕にいた。
すでに着替えを終え、装束を正し、帯刀していた。
薄鼠の旅装は、動きを殺すために襞が深く、外気を吸ってやや湿っている。
布の内側の冷たさが、身体を少しずつ戦いの温度に染めていった。
静の耳に届くのは、風音と、自分の鼓動だけだった。
軍の命令は簡潔だった。
――北東の尾根を越えた山道沿いに敵軍の移動がある。部隊数の推定と、行軍路の把握。
発見されることなく戻り、必要なら斬れ。
判断は任せる。
任せる、というのは、命を預けるという意味ではない。
判断を誤った時、誰も助けないという意味だった。
孤独は、命令よりも先に彼に付き従っていた。
静は顔を上げ、天幕の布を払って外に出た。
夜は深い。
黒ではなく、藍でもなく――どこか、鉛のような色をしていた。
風がないのに、空が揺れている気がした。
※
斥候の道は、ほとんど音のない時間だった。
落ち葉を踏まず、風にまぎれて移動する。
呼吸を抑え、目に映るものすべてから情報を拾う。
それは“戦う”というよりも、“消える”ことに近かった。
山道を進んで五里ほど、静は獣道の分岐を抜けた先で、敵の足跡を見つけた。
刃の先ほどの土の凹み。草のなぎ倒され方。
枝に触れた衣の繊維が微かに残っている。
すべてが、何人かの兵士が数時間前に通った証だった。
気配が、生温い。
まだ近くにいるかもしれない。
静は、息を吸った。
そして、森に身を溶かすように、一歩、踏み込んだ。
※
彼が見たのは、四人の敵兵だった。
おそらくは斥候の一隊。軽装、短剣と弓。
皆、若く、戦い慣れているというより、警戒の仕草に癖がない者たち。
ただ、そのうちのひとり――左の奥に控えていた若い男が、膝を抱えて震えていた。
疲労か、病か。
あるいは、恐怖か。
静は、彼らに気づかれぬよう、木立の陰に立ったまま、視線を注いだ。
剣には手をかけない。
命令通りなら、彼らを殺すべきだった。
気づかれる前に、一息で片をつける。それが“優秀な斥候”だった。
しかし、静の足は動かなかった。
声が聞こえた。
「……なあ、戻ろうぜ。もう、俺、無理だよ……」
「だめだ、あと少しで本隊と合流できる。地図だって半分しかないんだぞ」
「でもさ、あんたも気づいてるだろ……あっちの山道で全滅した部隊の話」
「“白い影に斬られた”ってやつか。迷信だろ」
「本当にいたんだよ……全部、一撃だったって……」
その会話を、静はただ聞いていた。
目を伏せ、耳を澄ませ、誰の呼吸が浅く、誰が斬る意思を持っていないか、すべてを感じ取っていた。
そして、最後に、心の中でつぶやいた。
――彼らは、斬られるべき存在だろうか。
※
その問いが、静の足を止めさせた。
戦いは続いている。
敵を見逃すということは、仲間が死ぬ可能性を増やすことだ。
“情”をかけることは、裏切りだと教えられてきた。
けれど、それでも。
目の前にいる者たちは、戦っていなかった。
誰も、剣を振るってはいなかった。
ならば――今ここで、何を以て、彼らの命を奪うのか。
静は、一歩、前に出た。
枯れ枝が折れる音が、夜に響いた。
敵兵が、一斉に振り向いた。
短剣を構え、弓を取った者もいたが、
そのうちのひとりが、静を見た瞬間、声を失った。
「……おまえ……!」
声が、宙で切れた。
そして、沈黙のなかに、剣の鯉口が切られる音だけが走った。
静は、剣を抜いた。
だが、それは、斬るためではなかった。
腰を落とし、柄を横に、刃を上に構え――
まるで、こちらが“敵意を持たぬこと”を示すように。
敵兵たちは固まった。
誰も動けなかった。
その静けさが、どれほど続いたか、誰にもわからない。
そして、次の瞬間、
静は、背を向けた。
一歩、また一歩。
夜の森に、音もなく歩いてゆく。
敵兵たちは、追わなかった。
斬られなかったことに、言葉も持たなかった。
ただ、その背中を見ていた。
月の光が、雲間からわずかに差した。
“白い”旅装が、森に溶けて消えた。
※
斥候任務からの帰還後、静は報告書を提出した。
「敵兵、四名。軽装。接触を回避し、移動方向のみ確認。交戦なし」
その文面に、誰も異議を唱えなかった。
だが、司令部の空気は冷えていた。
命令に反して敵を斬らなかった――その事実は、誰も明言せずとも、すでに知れ渡っていた。
静は、剣を手入れするため、道具箱を開いた。
布に油を染ませ、刀身をぬぐう。
今日、斬らなかった剣。
血を浴びていない刃。
その重さだけが、確かに、手に残っていた。
響きはかすかだった。まるで、誰かの祈りが地の底でくぐもったような音。
斥候としての初任務――その出撃前、沖田静は、隊の者とは別の天幕にいた。
すでに着替えを終え、装束を正し、帯刀していた。
薄鼠の旅装は、動きを殺すために襞が深く、外気を吸ってやや湿っている。
布の内側の冷たさが、身体を少しずつ戦いの温度に染めていった。
静の耳に届くのは、風音と、自分の鼓動だけだった。
軍の命令は簡潔だった。
――北東の尾根を越えた山道沿いに敵軍の移動がある。部隊数の推定と、行軍路の把握。
発見されることなく戻り、必要なら斬れ。
判断は任せる。
任せる、というのは、命を預けるという意味ではない。
判断を誤った時、誰も助けないという意味だった。
孤独は、命令よりも先に彼に付き従っていた。
静は顔を上げ、天幕の布を払って外に出た。
夜は深い。
黒ではなく、藍でもなく――どこか、鉛のような色をしていた。
風がないのに、空が揺れている気がした。
※
斥候の道は、ほとんど音のない時間だった。
落ち葉を踏まず、風にまぎれて移動する。
呼吸を抑え、目に映るものすべてから情報を拾う。
それは“戦う”というよりも、“消える”ことに近かった。
山道を進んで五里ほど、静は獣道の分岐を抜けた先で、敵の足跡を見つけた。
刃の先ほどの土の凹み。草のなぎ倒され方。
枝に触れた衣の繊維が微かに残っている。
すべてが、何人かの兵士が数時間前に通った証だった。
気配が、生温い。
まだ近くにいるかもしれない。
静は、息を吸った。
そして、森に身を溶かすように、一歩、踏み込んだ。
※
彼が見たのは、四人の敵兵だった。
おそらくは斥候の一隊。軽装、短剣と弓。
皆、若く、戦い慣れているというより、警戒の仕草に癖がない者たち。
ただ、そのうちのひとり――左の奥に控えていた若い男が、膝を抱えて震えていた。
疲労か、病か。
あるいは、恐怖か。
静は、彼らに気づかれぬよう、木立の陰に立ったまま、視線を注いだ。
剣には手をかけない。
命令通りなら、彼らを殺すべきだった。
気づかれる前に、一息で片をつける。それが“優秀な斥候”だった。
しかし、静の足は動かなかった。
声が聞こえた。
「……なあ、戻ろうぜ。もう、俺、無理だよ……」
「だめだ、あと少しで本隊と合流できる。地図だって半分しかないんだぞ」
「でもさ、あんたも気づいてるだろ……あっちの山道で全滅した部隊の話」
「“白い影に斬られた”ってやつか。迷信だろ」
「本当にいたんだよ……全部、一撃だったって……」
その会話を、静はただ聞いていた。
目を伏せ、耳を澄ませ、誰の呼吸が浅く、誰が斬る意思を持っていないか、すべてを感じ取っていた。
そして、最後に、心の中でつぶやいた。
――彼らは、斬られるべき存在だろうか。
※
その問いが、静の足を止めさせた。
戦いは続いている。
敵を見逃すということは、仲間が死ぬ可能性を増やすことだ。
“情”をかけることは、裏切りだと教えられてきた。
けれど、それでも。
目の前にいる者たちは、戦っていなかった。
誰も、剣を振るってはいなかった。
ならば――今ここで、何を以て、彼らの命を奪うのか。
静は、一歩、前に出た。
枯れ枝が折れる音が、夜に響いた。
敵兵が、一斉に振り向いた。
短剣を構え、弓を取った者もいたが、
そのうちのひとりが、静を見た瞬間、声を失った。
「……おまえ……!」
声が、宙で切れた。
そして、沈黙のなかに、剣の鯉口が切られる音だけが走った。
静は、剣を抜いた。
だが、それは、斬るためではなかった。
腰を落とし、柄を横に、刃を上に構え――
まるで、こちらが“敵意を持たぬこと”を示すように。
敵兵たちは固まった。
誰も動けなかった。
その静けさが、どれほど続いたか、誰にもわからない。
そして、次の瞬間、
静は、背を向けた。
一歩、また一歩。
夜の森に、音もなく歩いてゆく。
敵兵たちは、追わなかった。
斬られなかったことに、言葉も持たなかった。
ただ、その背中を見ていた。
月の光が、雲間からわずかに差した。
“白い”旅装が、森に溶けて消えた。
※
斥候任務からの帰還後、静は報告書を提出した。
「敵兵、四名。軽装。接触を回避し、移動方向のみ確認。交戦なし」
その文面に、誰も異議を唱えなかった。
だが、司令部の空気は冷えていた。
命令に反して敵を斬らなかった――その事実は、誰も明言せずとも、すでに知れ渡っていた。
静は、剣を手入れするため、道具箱を開いた。
布に油を染ませ、刀身をぬぐう。
今日、斬らなかった剣。
血を浴びていない刃。
その重さだけが、確かに、手に残っていた。
10
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
別れし夫婦の御定書(おさだめがき)
佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★
嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。
離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。
月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。
おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。
されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて——
※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
影武者の天下盗り
井上シオ
歴史・時代
「影武者が、本物を超えてしまった——」
百姓の男が“信長”を演じ続けた。
やがて彼は、歴史さえ書き換える“もう一人の信長”になる。
貧しい百姓・十兵衛は、織田信長の影武者として拾われた。
戦場で命を賭け、演じ続けた先に待っていたのは――本能寺の変。
炎の中、信長は死に、十兵衛だけが生き残った。
家臣たちは彼を“信長”と信じ、十兵衛もまた“信長として生きる”ことを選ぶ。
偽物だった男が、やがて本物を凌ぐ采配で天下を動かしていく。
「俺が、信長だ」
虚構と真実が交差するとき、“天下を盗る”のは誰か。
時は戦国。
貧しい百姓の青年・十兵衛は、戦火に焼かれた村で家も家族も失い、彷徨っていた。
そんな彼を拾ったのは、天下人・織田信長の家臣団だった。
その驚くべき理由は——「あまりにも、信長様に似ている」から。
歴史そのものを塗り替える——“影武者が本物を超える”成り上がり戦国譚。
(このドラマは史実を基にしたフィクションです)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる