名もなき剣に、雪が降る

斎宮たまき/斎宮環

文字の大きさ
14 / 21
第二章:鬼神の出陣

第五話「剣に名はなく、ただ斬るばかり」

しおりを挟む
 ――風が、ない。
 その晩、兵営の空は、まるで息を潜めていた。
 雲は低く垂れ込め、月は見えず、虫の音もなかった。
 ただ、遠くで誰かが火を焚いている匂いが、湿った夜気に混じっていた。
 沖田静は、その静けさの中にいた。
 天幕の隅で、彼は剣を膝に置いて座っていた。
 灯りは落としていた。
 この夜の暗さを、自分の目で測りたかったのだ。
 先日の戦で、敵兵を斬らずに“見逃した”という噂は、あっという間に広がった。
 それが事実であるかどうかは、もはや問題ではなかった。
 ――“白い鬼神が、剣を止めた”。
 その事実だけが、一種の異常として、兵たちの間に伝播していた。
 沈黙が、静の居場所を蝕みはじめていた。
 最初に変化が現れたのは、配属された中隊の編成だった。
 以前までは三人の班と共に行動していたが、次の任務から静は単独行動を命じられるようになった。
 理由は「機動性の確保」とされた。
 だが、静にはわかっていた。
 彼は「集団に属さぬ剣」として扱われはじめていたのだ。
     ※
 初めての単独任務は、山間の廃村の偵察だった。
 敵の斥候が拠点にしているという情報があり、様子を探れという命令だった。
 廃村の集落は静かだった。
 風に揺れる戸板の音と、崩れかけた屋根の影が、午後の陽を裂いていた。
 静は歩を進めながら、心の中に奇妙な違和感を抱いていた。
 ここには、誰もいない。
 けれど、何かがいた気がする。
 誰かがここに、生きていた気配――
 土間の跡に残った足跡、灰になりかけた炭火、誰のものともわからぬ、子どもの靴。
 戦は、人の営みを壊す。
 だが、壊されたその跡にも、人が、生きていた。
 ふと、自分が手にする剣が重く感じられた。
 自分は、何を護ったのか。
 何を壊したのか。
 今、自分が立っているこの地に、“命”があったというだけで、背負っているものが、見えない重さを帯びてくる。
     ※
 任務を終えて戻った翌朝。
 兵営の食堂で、静はひとりで粥を啜っていた。
 そのとき、隣の卓で、二人の兵士が話しているのが耳に入った。
「なあ……あいつ、ほんとに人か?」
「なにがだ」
「いや、“白いやつ”。……斬らねえで帰ってきたって噂だろ」
「でも、死なずに帰ってくるんだぜ。どいつも……あいつが行った後は、敵がいなくなってんだ」
「それが、よけいに怖えんだよ……」
 笑い声ではなかった。
 ただ、恐怖と不確かさの滲む囁きだった。
 静は、それに何の感情も抱かなかった。
 怒りも、哀しみも、安堵もなかった。
 ただ、粥の味がわからなくなっていた。
     ※
 その夜、静は剣を持って歩いた。
 兵営の裏から森へ、そしてさらに奥へと。
 誰にも言わなかった。
 命令でもない。
 ただ、歩きたかった。
 土を踏みしめる音、
 葉が衣擦れに触れる音、
 自分の呼吸。
 そのすべてが、剣の音に聞こえた。
 なぜ、斬るのか。
 なぜ、斬らぬのか。
 なぜ、剣を持たねばならないのか。
 静は、その問いを口にはしなかった。
 声にした瞬間、
 その問いが“言葉に堕ちる”ような気がしたからだ。
 だが、心の奥には確かにあった。
 ――剣に名はない。
 ――けれど、誰かがそれに名前をつける。
 鬼神。
 剣鬼。
 白い悪魔。
 死神。
 英雄。
 どれも、自分ではない。
 けれど、誰もがそう呼びたがる。
 それは、恐怖をかき消すためだろうか。
 あるいは、罪悪を誰かに預けるためだろうか。
 静は、草の茂みに腰を下ろした。
 夜風が吹いた。
 頬にあたる風は、わずかに湿っていた。
 そして、その風の音に紛れて、誰かの声がした気がした。
 ――「それでも、おまえは、剣を捨てぬのか」
 静は立ち上がった。
 返す言葉はなかった。
 だが、剣を見た。
 それは、沈黙していた。
 何も語らない。
 何も否定しない。
 だからこそ、
 その沈黙は、何よりも重かった。
     ※
 翌朝、静は報告書を提出しに本部に向かった。
 そこで、初めて言われた。
「沖田静――貴君を、前線の斥候隊へ転属させる」
 前線。
 つまり、それは“最も早く斬るべき場所”。
 斥候――敵の影を探し、足跡を追い、死の香りを先んじて嗅ぐ者。
 命令に逆らう権利はなかった。
 静は、ただ頭を下げた。
 そのとき、上官のひとりが、目を伏せたまま呟いた。
「……貴様の剣が、本当に“斬るためのもの”であることを、示せ」
 静は、黙って頷いた。
 何も言えなかった。
 何も言わなかった。
 だが、その沈黙の奥で、ひとつの声が確かに生まれていた。
「僕は、斬るためだけに、生きるのか」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

別れし夫婦の御定書(おさだめがき)

佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★ 嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。 離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。 月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。 おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。 されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて—— ※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

影武者の天下盗り

井上シオ
歴史・時代
「影武者が、本物を超えてしまった——」 百姓の男が“信長”を演じ続けた。 やがて彼は、歴史さえ書き換える“もう一人の信長”になる。 貧しい百姓・十兵衛は、織田信長の影武者として拾われた。 戦場で命を賭け、演じ続けた先に待っていたのは――本能寺の変。 炎の中、信長は死に、十兵衛だけが生き残った。 家臣たちは彼を“信長”と信じ、十兵衛もまた“信長として生きる”ことを選ぶ。 偽物だった男が、やがて本物を凌ぐ采配で天下を動かしていく。 「俺が、信長だ」 虚構と真実が交差するとき、“天下を盗る”のは誰か。 時は戦国。 貧しい百姓の青年・十兵衛は、戦火に焼かれた村で家も家族も失い、彷徨っていた。 そんな彼を拾ったのは、天下人・織田信長の家臣団だった。 その驚くべき理由は——「あまりにも、信長様に似ている」から。 歴史そのものを塗り替える——“影武者が本物を超える”成り上がり戦国譚。 (このドラマは史実を基にしたフィクションです)

処理中です...