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第二章:鬼神の出陣
第五話「剣に名はなく、ただ斬るばかり」
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――風が、ない。
その晩、兵営の空は、まるで息を潜めていた。
雲は低く垂れ込め、月は見えず、虫の音もなかった。
ただ、遠くで誰かが火を焚いている匂いが、湿った夜気に混じっていた。
沖田静は、その静けさの中にいた。
天幕の隅で、彼は剣を膝に置いて座っていた。
灯りは落としていた。
この夜の暗さを、自分の目で測りたかったのだ。
先日の戦で、敵兵を斬らずに“見逃した”という噂は、あっという間に広がった。
それが事実であるかどうかは、もはや問題ではなかった。
――“白い鬼神が、剣を止めた”。
その事実だけが、一種の異常として、兵たちの間に伝播していた。
沈黙が、静の居場所を蝕みはじめていた。
最初に変化が現れたのは、配属された中隊の編成だった。
以前までは三人の班と共に行動していたが、次の任務から静は単独行動を命じられるようになった。
理由は「機動性の確保」とされた。
だが、静にはわかっていた。
彼は「集団に属さぬ剣」として扱われはじめていたのだ。
※
初めての単独任務は、山間の廃村の偵察だった。
敵の斥候が拠点にしているという情報があり、様子を探れという命令だった。
廃村の集落は静かだった。
風に揺れる戸板の音と、崩れかけた屋根の影が、午後の陽を裂いていた。
静は歩を進めながら、心の中に奇妙な違和感を抱いていた。
ここには、誰もいない。
けれど、何かがいた気がする。
誰かがここに、生きていた気配――
土間の跡に残った足跡、灰になりかけた炭火、誰のものともわからぬ、子どもの靴。
戦は、人の営みを壊す。
だが、壊されたその跡にも、人が、生きていた。
ふと、自分が手にする剣が重く感じられた。
自分は、何を護ったのか。
何を壊したのか。
今、自分が立っているこの地に、“命”があったというだけで、背負っているものが、見えない重さを帯びてくる。
※
任務を終えて戻った翌朝。
兵営の食堂で、静はひとりで粥を啜っていた。
そのとき、隣の卓で、二人の兵士が話しているのが耳に入った。
「なあ……あいつ、ほんとに人か?」
「なにがだ」
「いや、“白いやつ”。……斬らねえで帰ってきたって噂だろ」
「でも、死なずに帰ってくるんだぜ。どいつも……あいつが行った後は、敵がいなくなってんだ」
「それが、よけいに怖えんだよ……」
笑い声ではなかった。
ただ、恐怖と不確かさの滲む囁きだった。
静は、それに何の感情も抱かなかった。
怒りも、哀しみも、安堵もなかった。
ただ、粥の味がわからなくなっていた。
※
その夜、静は剣を持って歩いた。
兵営の裏から森へ、そしてさらに奥へと。
誰にも言わなかった。
命令でもない。
ただ、歩きたかった。
土を踏みしめる音、
葉が衣擦れに触れる音、
自分の呼吸。
そのすべてが、剣の音に聞こえた。
なぜ、斬るのか。
なぜ、斬らぬのか。
なぜ、剣を持たねばならないのか。
静は、その問いを口にはしなかった。
声にした瞬間、
その問いが“言葉に堕ちる”ような気がしたからだ。
だが、心の奥には確かにあった。
――剣に名はない。
――けれど、誰かがそれに名前をつける。
鬼神。
剣鬼。
白い悪魔。
死神。
英雄。
どれも、自分ではない。
けれど、誰もがそう呼びたがる。
それは、恐怖をかき消すためだろうか。
あるいは、罪悪を誰かに預けるためだろうか。
静は、草の茂みに腰を下ろした。
夜風が吹いた。
頬にあたる風は、わずかに湿っていた。
そして、その風の音に紛れて、誰かの声がした気がした。
――「それでも、おまえは、剣を捨てぬのか」
静は立ち上がった。
返す言葉はなかった。
だが、剣を見た。
それは、沈黙していた。
何も語らない。
何も否定しない。
だからこそ、
その沈黙は、何よりも重かった。
※
翌朝、静は報告書を提出しに本部に向かった。
そこで、初めて言われた。
「沖田静――貴君を、前線の斥候隊へ転属させる」
前線。
つまり、それは“最も早く斬るべき場所”。
斥候――敵の影を探し、足跡を追い、死の香りを先んじて嗅ぐ者。
命令に逆らう権利はなかった。
静は、ただ頭を下げた。
そのとき、上官のひとりが、目を伏せたまま呟いた。
「……貴様の剣が、本当に“斬るためのもの”であることを、示せ」
静は、黙って頷いた。
何も言えなかった。
何も言わなかった。
だが、その沈黙の奥で、ひとつの声が確かに生まれていた。
「僕は、斬るためだけに、生きるのか」
その晩、兵営の空は、まるで息を潜めていた。
雲は低く垂れ込め、月は見えず、虫の音もなかった。
ただ、遠くで誰かが火を焚いている匂いが、湿った夜気に混じっていた。
沖田静は、その静けさの中にいた。
天幕の隅で、彼は剣を膝に置いて座っていた。
灯りは落としていた。
この夜の暗さを、自分の目で測りたかったのだ。
先日の戦で、敵兵を斬らずに“見逃した”という噂は、あっという間に広がった。
それが事実であるかどうかは、もはや問題ではなかった。
――“白い鬼神が、剣を止めた”。
その事実だけが、一種の異常として、兵たちの間に伝播していた。
沈黙が、静の居場所を蝕みはじめていた。
最初に変化が現れたのは、配属された中隊の編成だった。
以前までは三人の班と共に行動していたが、次の任務から静は単独行動を命じられるようになった。
理由は「機動性の確保」とされた。
だが、静にはわかっていた。
彼は「集団に属さぬ剣」として扱われはじめていたのだ。
※
初めての単独任務は、山間の廃村の偵察だった。
敵の斥候が拠点にしているという情報があり、様子を探れという命令だった。
廃村の集落は静かだった。
風に揺れる戸板の音と、崩れかけた屋根の影が、午後の陽を裂いていた。
静は歩を進めながら、心の中に奇妙な違和感を抱いていた。
ここには、誰もいない。
けれど、何かがいた気がする。
誰かがここに、生きていた気配――
土間の跡に残った足跡、灰になりかけた炭火、誰のものともわからぬ、子どもの靴。
戦は、人の営みを壊す。
だが、壊されたその跡にも、人が、生きていた。
ふと、自分が手にする剣が重く感じられた。
自分は、何を護ったのか。
何を壊したのか。
今、自分が立っているこの地に、“命”があったというだけで、背負っているものが、見えない重さを帯びてくる。
※
任務を終えて戻った翌朝。
兵営の食堂で、静はひとりで粥を啜っていた。
そのとき、隣の卓で、二人の兵士が話しているのが耳に入った。
「なあ……あいつ、ほんとに人か?」
「なにがだ」
「いや、“白いやつ”。……斬らねえで帰ってきたって噂だろ」
「でも、死なずに帰ってくるんだぜ。どいつも……あいつが行った後は、敵がいなくなってんだ」
「それが、よけいに怖えんだよ……」
笑い声ではなかった。
ただ、恐怖と不確かさの滲む囁きだった。
静は、それに何の感情も抱かなかった。
怒りも、哀しみも、安堵もなかった。
ただ、粥の味がわからなくなっていた。
※
その夜、静は剣を持って歩いた。
兵営の裏から森へ、そしてさらに奥へと。
誰にも言わなかった。
命令でもない。
ただ、歩きたかった。
土を踏みしめる音、
葉が衣擦れに触れる音、
自分の呼吸。
そのすべてが、剣の音に聞こえた。
なぜ、斬るのか。
なぜ、斬らぬのか。
なぜ、剣を持たねばならないのか。
静は、その問いを口にはしなかった。
声にした瞬間、
その問いが“言葉に堕ちる”ような気がしたからだ。
だが、心の奥には確かにあった。
――剣に名はない。
――けれど、誰かがそれに名前をつける。
鬼神。
剣鬼。
白い悪魔。
死神。
英雄。
どれも、自分ではない。
けれど、誰もがそう呼びたがる。
それは、恐怖をかき消すためだろうか。
あるいは、罪悪を誰かに預けるためだろうか。
静は、草の茂みに腰を下ろした。
夜風が吹いた。
頬にあたる風は、わずかに湿っていた。
そして、その風の音に紛れて、誰かの声がした気がした。
――「それでも、おまえは、剣を捨てぬのか」
静は立ち上がった。
返す言葉はなかった。
だが、剣を見た。
それは、沈黙していた。
何も語らない。
何も否定しない。
だからこそ、
その沈黙は、何よりも重かった。
※
翌朝、静は報告書を提出しに本部に向かった。
そこで、初めて言われた。
「沖田静――貴君を、前線の斥候隊へ転属させる」
前線。
つまり、それは“最も早く斬るべき場所”。
斥候――敵の影を探し、足跡を追い、死の香りを先んじて嗅ぐ者。
命令に逆らう権利はなかった。
静は、ただ頭を下げた。
そのとき、上官のひとりが、目を伏せたまま呟いた。
「……貴様の剣が、本当に“斬るためのもの”であることを、示せ」
静は、黙って頷いた。
何も言えなかった。
何も言わなかった。
だが、その沈黙の奥で、ひとつの声が確かに生まれていた。
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