宇宙を超えて

荒谷宗治

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4章

第20話 苦しみと慰めとあの子の夢

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 玄関のドアを開けると、薄暗くて冷たい廊下が奥の暗闇へと続いている。靴を脱いで足を踏み出し進んでいくと、澱んだ空気が肺の中に満ちていく。あたしを出迎えてくれたのは不快な羽音を立てる虫と、音を立てて崩れるゴミと、何かが腐った臭いだった。それでも私は進み、部屋の扉を開ける。

「ただいま……」

 あたしの声か気配か、それともドアの開く音か、足の踏み場もない部屋の中で横になっていた1人の人間が起き上がる。手入れのされてないボサボサの髪を携え、何日も洗っていないヘロヘロの服に包まれた折れてしまいそうなくらいに細い身体をした彼女は私を見ると弱々しい笑みを浮かべて言った。

「お姉ちゃん……お帰り……」

 その言葉に私はホッと胸を撫で下ろし、彼女に触れようと手を伸ばして頭を撫でると笑顔を作って応えてくれた。

「お姉ちゃん……」
「うん……」

 結衣の呼びかけにあたしは首を軽く縦に振るって彼女を抱きしめる。すると、彼女の表情が少しだけ和らぐ。ここのところ、結衣は寂しいからと毎日これをねだってくる。

「テレビつける?」
「……いい」
「そっか……」

 少し前まではつけっぱなしにしていたテレビももう見る気にならないらしい。家にある食材はとっくに尽きていた。この家であたし達の口に入れられる物は水道の水しか無く、最低限学校の給食があるあたしと違い、結衣の食事は家にいるときは眠っているか、たまに玄関先で誰かと喧嘩している母が気まぐれに買ってきた菓子パンやおにぎり、それとあたしが無断で持って帰ってくる給食だった。
 当然、その程度で充分な栄養が摂れるわけがない。ただでさえ細かった結衣の身体は更に細くなってきている。あたしは、なるべく結衣の望みに応えながら何かきっとこの状況を壊す変化が来ると祈るような期待をして日々を過ごす。祈りが通じてしまったのか、変化はやってきた。あたしが決して望まない形で。

「結衣!? どうしたの!? 結衣!?」

 学校から帰ってきたある日、結衣は息を切らして苦しげに咳き込んでいた。額に触れると、彼女の身体が熱を持っているのがわかる。風邪……だったのかどうかは今となってはわからない。あの時のあたしは、雪崩のように押し寄せる今すぐ大声を上げて泣き出したい本音を、結衣を助けないとと言う理性がせきとめていた。

「お姉ちゃん……お腹空いた……」

 目に涙を溜めながら言った結衣の声は、消え入るようなか細い声だった。だけどあたしの耳には何よりもはっきりと響いていた。

「お腹空いた……お腹空いたよぅ……ゲホッ……! お姉ちゃん……お腹空いた……!」

 口に出したことで抑え込んでいた感情が噴き出したのだろう、大粒の涙を流しながら訴えてくる結衣。年相応に泣きじゃくる彼女の姿に、身が引き裂かれそうな思いになったことを、今でもはっきりと覚えている。

「ごめんね……! ごめんね結衣……! すぐにご飯用意するから……! 今までずっと我慢させてごめん……! ちょっとだけ待ってて……!」

 そう言ってあたしは涙を流し続ける結衣を置いて、あるはずの無い食材を探しにキッチンへ向かう。開けられるものは全て開け、調べられるところは全て調べた。当然、食べられるものなんてどこにも無い。

「ない……! ない……!」

 その事実に呼吸は浅くなり、心臓は痛いくらい激しく振動を繰り返す。涙で視界を滲ませながらどうすればいいかを必死に考えると、あたしは縋るような思いで母の部屋に向かう。扉を開けると、鼻腔には香水の匂い、視界には服が散乱した様相が飛び込んでくる。ここはあたし達が滅多に足を踏み入れない場所。つまり、この家で唯一何があるかを把握していない場所でもあった。化粧品で埋められ、スペースのない机の上を祈るような思いでかき分ける。しかし、どれだけ掘り進めても口に入れられるような物は何も出てこない。着実に選択肢が無くなっていっていることに吐き気を覚えながらも机の引き出しを開いていくと、ある長方形の入れ物に目を奪われ、反射的に中身を確認する。
 中に入っていたのはお札と小銭だった。そう、あたしの手にあるのは母の財布。何故こんなところに? 母が忘れていったのだろうか? そんなどうでもいい考えを振り払い、あたしは走り出し玄関に向かうと、ドアノブに手をかける。

(『そしたらお母さんあんた達のことなんて知らないから』)

 瞬間、母の言葉がフラッシュバックして弾かれたように手を離す。そして胸の奥底から不安や恐怖を始めとした負の感情がゴボゴボと不快な音を響かせ湧き上がってくる。足が止まり、数秒間その場に立ちつくすが今はそんな状況じゃない。扉を開けてあたしは家を出た。


 
「結衣! 買ってきたよ結衣!」

 家に戻るやいなや、あたしはそう言って靴を脱ぎ捨てスーパーで買った菓子パンやおにぎりなんかが入っているレジ袋の擦れる音を鳴らしながら廊下を走ると、奥の扉が勢いよく開いた。

「あ……お母さ……」

 現れたのは家に居ないはずの母だった。ひゅっと息を吸い込み足が止まりドクドクと心臓が鼓動を速める。母は不機嫌な表情を浮かべながらあたしの手元へ視線を動かすと眉をピクリと動かす。

 「あんた……それ……!」

 目が見開かれたかと思った瞬間、母の表情がみるみるうちに怒りで染まっていく。だってね、だってお母さん――。

 ――だってお腹が空いてしょうがなかったんだもん。

 乾いた音が部屋に響く、刺すような頬の痛みに耐えるあたしの前には怒りに震える女性がいた。

「あんた……! 勝手に私のお金を盗むなんて……! 一体どういうつもりなの!?」

 まるで人殺しでも見るかのような形相で私を睨みつける彼女の姿にあたしは気づいたら恐怖のあまり目を逸らしてた。けれどそのまま黙っているという選択肢は無かった。そうする訳にはいかない理由があったからだ。

「だって……! 結衣がお腹空いてるって……! それに熱もあって……!」

 そこまで言ったところで再び乾いた音が部屋に響く、何度も何度も。

「だからって! こんなことして良いと思ってるの!? あんた自分が何をやったのかわかってるの!? 人のお金を盗むのは犯罪なのよ!!!」

 怒りに理性を飲まれた彼女は私の髪を乱暴に掴み、引き寄せるように引っ張ってくる。痛みに目を閉じ、涙を滲ませて抵抗するように足を踏ん張る。また乾いた音が部屋に響いた。

「ほら! ごめんなさいは!? 悪いことしたら謝らないと駄目でしょ!! 言いなさい!! 言え!!!」
「ごめんなさい……」

 怒り狂った形相に理性を失ったかのような怒声、激情に身を任せた暴力に晒されたあたしはいつの間にか声を漏らしていた。それでもなお、彼女は激しさを増していく。

「謝って済むなら警察はいらないの!! あんた無くなったお金どうするつもりなの!? まさか働いて返すなんて言うんじゃないでしょうね!?」
「ごめんなさい……! ごめんなさい……!!」
「あんたが勝手に使ったそのお金はね! お母さんが必死に働いて稼いだお金なの!! 分かる!? あんたはお母さんの苦労を踏みにじったのよ!? ああ悲しい!! お母さんほんと悲しいわ!!!」
「ごめんなさい!! ごめんなさい!!!」

 掴んだ髪をグイグイと乱暴に引っ張られながら身体のあちこちを殴打される。その度に私の声も段々と大きくなっていく。だけど母の暴行が止まることはない。あの時あたしは確かに死を覚悟していたと思う。
 
「ご飯なら前にあげたでしょ! 本当に意地汚い子なんだから!!」

 母に突き飛ばされ、背中を強く打ったあたしはそのまま崩れ落ち、痛みを耐えるように蹲る。

「あーもしもし? 今日の予定なんだけどねー……なんかウチのガキが勝手に私の金使ってたみたいなのよー……いや、大した額じゃないんだけどさー……はぁー……ほんっと最悪……マジふざけんじゃねえっつうのクソガキが……」
 
 蹲るあたしを他所に、母は携帯で誰かと通話していた。通話相手の顔も名前も、あたしには知るよしもないし知ることもできない。知りたいとも思わなかった。だけど、その人があたしの知らない男の人だということだけは、なんとなく理解していた。

「……そう、だから金貸してくんない? はあ? 駄目よあいつは~! 誰の入れ知恵か知らないけど最近騙せなくてさ~! いっちょまえに断ってくんの!!」

 遠くなっていく母の声、大きな音を立てて閉まるドア。ドア越しだというのにハッキリと聞こえてくるドスドスという足音に、ほとんど聞き取ることはできないが不満と愚痴だということは分かる母の通話。やがてそれすらも聞こえなくなる。

「うう……ううう……」
 
 先程までの喧騒が嘘のように静かな部屋に残されたあたしは、しばらくの間その場でうずくまり、痛みに耐えていた。


 痣と傷だらけの身体を引きずってあたしはゆっくりと部屋の扉を開ける。ドアが軋む音と同時に、真っ暗な部屋の中に廊下の光が差し込んでいき、ベッドの上にいた人物を照らし出す。

「お姉ちゃん……?」

 赤く腫らした目の端にくっきりと涙の跡を作った結衣がか細い声で呟く。ぼさぼさで手入れされていない肩まで伸ばした黒髪に枯れ枝のように細い手足、ヨレヨレの服から覗く不健康な白い肌は栄養が足りずに荒れている。あたしは笑顔を作ると、ゆっくりと近づいていく。

「怖かったね。もう大丈夫だよ。お母さんもう怒ってないから大丈夫」
「お姉ちゃん……怪我してるの……?」
「うん、ちょっとだけね。でも大丈夫。ご飯食べよっか」

 不安そうに尋ねる結衣に、あたしは未だ痛みを訴えてくる痣と腫れまみれの顔で笑顔を作る。
 
「……うん」

 幼いながらに何かを察してくれたのか、言いたいことを飲み込んで微かに頷く結衣にあたしは改めてニコリと笑い、部屋に隠していた菓子パンを取り出すと袋を開く。

「はい。お姉ちゃんはもうお腹いっぱいだから結衣が全部食べていいよ」
 
 そう嘘をついてパンを渡すと結衣はすぐに口を付けず、ジッと手元のパンを見つめている。

「……どうしたの? もしかして別の奴が良かった……? ……ごめんね! 今はもうそれしかないの……! 今度は違うやつ買ってくる――」

 そこまで言ったところで結衣がパンを2つに分け、あたしに渡してきた。

「……え? いいよお姉ちゃんは! 結衣お腹すいてるんでしょう!? 全部食べ――」
「お姉ちゃんと食べたいから……」

 そう言って真っすぐあたしを見つめてくる結衣に目を逸らす。

「……ありがとう」

 パンを受け取り、口に運んで咀嚼し始めた後、結衣もパンを食べ始める。それを確認したあたしは妹に背を向け、溢れる涙を堪えながら口にパンを突っ込む。
 すると、誰かに頭を撫でられるような感覚がしてパンを食べる手を止め思わず振り返る。そこには泣き腫らした顔で優しげな目をした結衣がいた。

「いつもありがとう。お姉ちゃん」

 涙の跡を残したままそう言って笑う結衣の表情は穏やかで柔和。記憶の隅にある、父が亡くなる前の母の表情と重なって見えた。

「うう……ひぐっ……うあぁ……うあああああ!!!」

 嗚咽と共に堰を切ったように溢れ出した涙が傷口に沁みる。それを皮切りに嗚咽は号泣へと変わり、ゴミ溜まりの部屋をあたしの叫びが満たしていく。心の奥に無理矢理押し込めた感情が決壊して、自分でも訳の分からないまま泣き声を上げるあたしのそれが止まるまで結衣は優しく頭を撫で続けてくれていた。



 どれくらい時間が経っただろうか、疲れもあってあたしがようやく泣き止むと結衣も手を離す。

「お姉ちゃん」

 その言葉に顔を上げると、微笑みながらも真剣さを感じる表情をした結衣が目に映る。

「お姉ちゃん。私、服屋さんになりたい」

 その言葉に目を丸くするあたしに結衣は話を続ける。

「服屋さんになって、綺麗で可愛い服をいっぱい作りたい。それで、お姉ちゃんにも着てもらいたい。そうすればきっと、お姫様みたいに幸せになれるから……」

 少し震えた声で夢を語る結衣。今思い返せば、正確にはその夢は服屋ではなくファッションデザイナーの方が近いのかもしれない。でも、持っている知識と、未来への淡い希望と、自分自身の憧れと、童話やアニメのハッピーエンドから連想した幸せの証拠と、あたしへの思いやりを、今の結衣なりに繋げ合わせた結果だということは、当時のあたしでも理解できた。だからあたしは思わず結衣を抱きしめていた。

「ありがとう……結衣は優しいね……」
「お姉ちゃん……早く元気になって……」
「うん……なるよ……。結衣も早く元気になってね……」

 結衣の体温を感じながらしたその会話に、少しだけだけど確かに心が軽くなったことを今でも覚えてる。その日以来、母はより一層家を留守にすることが多くなった。
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