キズアト

笹原うずら

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月下湊

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 海斗の事故から一か月ほどの年月が経過し、僕たちは夏休みも終え、二学期を迎えていた。蝉の声はすっかりと聞こえなくなり、風は冷たい空気を運んでくるようになった。徐々に木の葉も緑から色を変え、美しく鮮やかな色を表す。もうすぐ、秋が始まる。そんなことを思いながら、僕は、もう周りに違和感を覚えられることもなくなった長袖に身を包んで、学校への道のりを歩いた。

 校舎にたどり着き、玄関に靴をしまう。自分の教室につくと、既に来ていたクラスメイトの女子がある話題で騒いでいた。

「ねえねえ聞いた? 今日新しく転校生が来るんだってさ」
「聞いた聞いた。男子かな? 女子かな?」

 彼女らの話を聞いて、不意に教室を見渡すと、窓側に一つ席が足されていることに気づいた。どうやら確かな情報のようだ。

 転校生が来る。それはきっと誰もが一度は言葉の響きに胸を弾ませる一大イベントの一つだ。例え、その転校生が顔の整った異性であろうとなかろうと、新たな級友が来るというのは、定着し、固定化した変化のない退屈なクラスの空気を、換気する良い契機となりうる。

 でも、実際のところ僕自身は、転校生が来るというイベントがあまり好きではなかった。先述した通り、転校生という存在は、定着したクラスの雰囲気に変化をもたらしてくれる。けれども僕は、その変化というもの自体を好ましく思わない傾向があった。

 勝手に自分への人の評価を決めつけて、自分の体に刻み付ける。それほどまでに人の評価を気にしすぎてしまう自分にとってみてみれば、やはり評価を気にすべき対象が増えるのは良い気がしない。

 一人また一人とどんどん教室に人が入ってくる。皆が口々に声をそろえて転校生の話を口にする。唐突に、ある程度話したことのある席の近い男子が『転校生どんな子なんだろ?美人だといいな』と話を振ってきた。『うん。そうだね』僕は、曖昧な笑みを浮かべながら、彼の言葉に同意する。全員が新しいクラスメイトのことを待ち望んでいる。僕はそんなクラスの雰囲気に、全く逆らう様子もなく、周囲のみんなと意見を同調させた。

 なんとなく僕は心に忍び寄る冷たさを感じ、あたりを見渡す。僕の親友は、まだ、リハビリ中のためクラスにはいない。星見さんは、学校には来ているが、何やら寝不足だったのか、ずっと机の上に伏せて昼寝をしている。僕は、本当に今まで自分の意見を開示できる人を作ってこなかったんだな。海斗がいなくなってからは、よくそのことを実感するようになった。

 ガラガラと、教室のドアが開く音がする。そしてその古びた音は、チャイムの音と重なって、学校生活の始まりを告げる。山井先生は教壇に立ち高い身長で僕らのことを見下ろすと、言った。

「よし、じゃあこれから、ホームルームを始めるぞ。今日はみんなに新しいクラスメイトを紹介する。月下。入ってこい」

 すると、ドアの奥から、ゆっくりとした足取りで一人の女子が入ってきた。小ぶりな身長にも関わらず、腰のあたりまで伸びた美しい髪がさらさらと揺れている。一目でわかるほどに、きれいな人だった。彼女は、僕ら新しいクラスメイトに対してにこりと微笑みかけ、透き通るような声で言った。

「はじめまして。月下湊です。親の仕事の都合でこっちに引っ越してくることになりました。みなさん。どうか仲良くしてください」

 月下さんが、ぺこりとお辞儀をする。男子たちが、小さな声で、一斉に歓声を上げる。そんな様子を見て女子たちの顔がほんのわずかに険しくなる。僕は、そんな彼らの表情の変化を、なんとなく観察する。

「よし、じゃあ、みんなよろしくな。月下の席はな。ああ、あの寝ている奴の二つ後ろだ。おい、星見起きろ。転校生だぞ」
「ん、あ、はい。すいません」

 星見さんは、目をこすりながら、顔を挙げて転校生の方を見た。すると、その時、なぜだかほんの少しだけ星見さんの表情がゆがんで見えた。決して僕の目が途端におかしくなったわけではない。わずかではあったが確かにそのとき星見さんの表情がいつもより険しくなったような気がした。

 すると、僕が視線を星見さんの方へ向けているときにその転校生はこう言った。

「あ、京子さんか! 懐かしい! 中学校ぶりだね」

 その発言を受けてクラスメイトの視線が一気に星見さんに注がれる。『あ、久しぶり』星見さんはそうつぶやき、軽く頭を下げた。その様子を見ている先生は言う。

「そうか。そういえば二人は同じ中学校だった時もあったんだな。じゃあ月下授業を始めるから席についてくれるか」
「はいわかりました」

 そう言って月下さんはゆっくりと自分の席に向かった。そしてその席へ向かう道の途中にある星見さんの席へ足を止めると、彼女は言った。

「雰囲気変わったね。気づかなかったよ。でも、なんだか京子さんらしい服装だね」

 彼女は、先ほど僕らの前で見せた笑顔と変わらぬ笑顔を星見さんに向けていた。しかし星見さんは、その笑顔から目をそらすと、つぶやくようにこう言った。

「うん、ありがとう。そう言ってくれて嬉しいよ」

 他のクラスメイトから、この会話がどういうものに見えていたのかわからない。しかし、僕は、この単純な二言に、何重にも緊張の糸が張り巡らされているような感覚を覚えた。細々としていて、今にも途切れてしまいそうなほど、ほつれた糸。それらをどうにか紡いで、今、クラスメイトの前で平静を装おうとしている。彼女らを見ていると、そんな気がしてならなかった。


 毎週月曜日は、星見さんと一緒に、海斗のお見舞いに行く日だった。僕らは、学校が終わると、いつも二人でお金を出しあって何か果物を買い、海斗のいる病院に向かった。受付を済ませてエレベーターで五階まで上がる。薬品や、消毒のにおいに身を包まれながら、廊下を歩く。そして病室にたどり着き、ドアを開ける。

「おお、二人とも一週間ぶり。元気だった?」

 ドアが開き、ぼくら二人に気づくと、海斗はすぐに僕らに声をかけた。そんな海斗に星見さんが言葉を返す。

「私たちは元気だよ。海斗君も、だいぶ包帯外れてきたね」
「でしょ。最近ようやく体も動かせるようになってきてさ。多分今月中には退院できると思う」

 言われてみれば、あれほど事故当時、彼の体を覆ってた包帯も、ずいぶん数が少なくなった。こうして徐々に親友の容体が回復していくのを見ていると、やはり、感慨深いものがある。僕は言った。

「本当に良かったね。轢かれた当初は、もう死んじゃうんじゃないかって思ったもの」
「それから割とすぐに目を覚ましただろ。まあ和也は目を覚ましてもすぐに見舞いに来てくれなかったけどな」
「それはごめんて」

 僕は苦笑いを浮かべながらも、海斗に対して謝罪の言葉を並べる。星見さんはそんな僕の様子を見てくすくす笑っていた。あの事故から一か月。僕がひとりでに罪悪感を覚え、海斗の見舞いにしばらくいけなくなってしまった時の話は、今ではこうして笑い話にすることができていた。あのまま何も解決することができずに、絶交することがなくて本当に良かったと思う。

「気にしてないよ。あ、椅子そこにあるから、二人で座ってくれ」

 海斗はそう言って、緑色のクッションが張ってある丸椅子を僕たちに進めた。僕と星見さんは、進められるがままに、そこに座る。僕がそこにしばらく腰を落ち着けていると、星見さんが言葉を発した。

「そうか、東根君ももうすぐ退院なんだ。じゃあもうすぐこうして病院に来ることもなくなっちゃうんだね」

 僕は答える。

「そうだね。海斗が退院したらもうこうして見舞いに行くこともなくなるのか。さびしくなるね」
「なんだよ。まるで治らない方がいいみたいな言い方だな。でも、夏休みまるごとつぶした入院生活もこれで終わりか。本当に退屈だったなあ。まあそれほど勉強が遅れないのは幸いだけど」

 海斗は、懐かしむようにそう言葉を吐いた。きっと物寂しくなるこの感情は無理もないことなのだろう。始まりが最悪だったとはいえ、彼はこの病室で一か月もの月日を過ごしたのだ。慣れ親しんだ環境に別れを告げることは、そうさばさばとこなせるものではない。

「なあ、和也」

 不意に、海斗が僕にそう呼び掛けてきた。僕は彼の方に視線を移した。彼は続ける。

「俺はもうすぐ元気になるけどさ。和也の方は、大丈夫なのかよ。その傷の奴。一回ちゃんと医者に行ってみたんだろ」
「ああ、これか」

 僕は袖を捲って二人に傷を見せる。この傷の言葉が思い込みだと発覚してからは、僕は本格的にこの傷の治療を試みるようになった。人の気持ちを理解できる、その利点を考慮して今まではこの傷を治す努力をしてこなかった。ところが、その傷の言葉の正体が、僕の後ろ向きな心だと分かった以上、半袖も着られないこの僕の特性は、ただただ煩わしいだけだったのだ。けれど、その治療の結果はあまり芳しいものではなかった。

「なんか、ダメだったよ。結構いろいろなところに言ったんだけど、なかなか直すことは難しいみたい。精神科の先生が言うには、この傷は精神的なものだから、自分の中のトラウマを克服しないと根本的に直すことはできないんだって。なんだろうね。僕のトラウマって」

 二人に事情を説明しながら、僕は病院にて医者に言われたことを思い出す。ベテランという言葉を彷彿とさせる、白髪交じりのその医者は、僕が『そんなトラウマなんてもの、身に覚えがないです』と言った時、こう返した。

『いいかい、和也君。心というものはね。なにで傷がつくか本当にわからないものなんだ。他人、そして自分自身でさえも、大したことないと思っていた物事が、気づけば心の奥底を深く傷つけているものなんだよ。だから和也君、君はまず自分を知るところから始めなさい。自分が何を大事にして、何で傷つく人間なのか考えてごらん』

 大したことのない物事でも、心の奥では傷ついていることがある。そんなこと考えたこともなかった。本当は気づかなかっただけで、僕の心は傷だらけだったのだろうか。しかし、だとしたらいったいなにで傷ついたのいうのだろう。

「そっか。大変だな。和也のトラウマなんて覚えがないしなあ。なんかあったっけなあ」
「平谷君の、トラウマかあ。まあ何もないのにそんな傷ができるわけはないよね」

 考えるそぶりを見せながら、二人は言った。僕はそんな二人に言葉を返す。

「まあ、そんな急いで治したいわけでもないから、ゆっくり探していくことにするよ。別に思い込みだってわかった今でも、僕はこの傷のこと嫌いになったわけじゃないんだ。これは、今まで僕が人の評価を誰よりも気にしてきたって証拠で、それがあったからこそ、今の自分がつくられたわけだしね」
「そっか。お前がそう思えたんならよかったよ。まあ俺もなんか思いだしたら和也に言うよ」

 海斗は、どこか安堵したような表情を僕に向けた。まるで血のつながりのある兄弟のように優しく温かく、彼は僕を案じてくれていた。

「うん、ありがとう」

 僕は彼にそう言葉を発した。本当に海斗と、あのまま仲違いせずにいられて良かった。僕は改めてそのことを実感した。

 それから僕らはしばらく時間が過ぎるのも忘れて、だらだらと話をしていた。先生に出された課題のこと、癖の強い社会科教師のこと、クラスメイトの恋愛事情など、毎週会っているのにもかかわらず話題が尽きることはなかった。

 そうして一時間ほどそのような話を続けていると、不意に海斗が何かを思い出したかのようなそぶりをして、僕らに尋ねた。

「あ、そうそう、そういえばうちのクラスに新しく転校生が来たんでしょ? どんな子だった?」
「へー知ってるんだ。ずっと病院にいたのに、どうして知ってるの?」

 そのように彼に質問を返したのは、星見さんだった。海斗は、彼女の疑問に答え、そして再び尋ねる。

「なんかクラスの奴が連絡してきたんだよ。かわいい子が転校してきたぞって。で、和也。どんな子だったの。写真ある?」

 相変わらず、次の恋へ切り替えようとする気持ちはすごいな。僕は、彼の心情を推し量り、あきれ、ため息をついた。別に他の恋を探そうとする姿勢は良いと思うが、その姿をよくもまあ、振られた人の前でも見せられるものだ。

 ばかばかしくて、滑稽で、ほんの少しだけうらやましく見える切り替えの早さ。そんなメンタルをもつ親友に対して、僕は答える。

「うん。確か月下湊さんだったかな。写真はないけど、確かに結構綺麗な人だったよ。多分前の学校でもそこそこ人気だったと思うよ」
「まじか。あ、あとこれもクラスの奴が言ってたんだけどさ、その転校生って星見さんと同じ中学だったんでしょ。月下さんだっけ? どんな子だったの?」

 海斗は星見さんの方へ向き直りそう尋ねる。

「うん? ああ、えっと確かに結構人気な子だったよ。ファンクラブとかもあったし。まあ顔もいいし、それに、えっと、いい子だったしね」

 彼女は、海斗の質問に対して笑顔でそう返した。いつも、三人で遊んでいるときに彼女が見せる顔をくしゃっとする笑顔。しかし、僕にはそんないつもの笑顔に、少しだけ、ほころびが見えたような気がした。
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