キズアト

笹原うずら

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さようなら

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「ありがとう。私がさ、ずっと大好きなバンドなんだ。やっと良さ、分かってくれたんだね」

 彼女は、僕にそう言うと、黙って座る位置をずらし、僕の場所を空けてくれた。どうやら話もしたくないほど避けられているわけではないようだ。僕は、あの日と同じように一人分開けて静かに彼女の隣に座った。

 今日は、いつもよりも風が強い日だった。大きな風が吹くたびに、木々がざわざわと音をたてる。暑くも寒くもないちょうどよい気温の秋風は、とても心地よく、できればこのまま今抱えている問題なんて忘れて、風に体を預けてしまいたかった。

 けれど、もちろんそういうわけにもいかない。僕は横目で星見さんの様子を盗み見る。彼女は、ギターをいじり、何か手入れをしている様子だった。彼女はきっと、次の僕の言葉を待っているのだろう。

 僕は、彼女から視線を外し、木々の揺れに目を向けた。そして、言葉を口からこぼすように彼女に向けて言った。

「さっきさ。星見さんの家に行ってきたんだよ」
「そう」
「そこでさ。星見さんの話をいろいろ聞いてきた」
「そうなんだ」
「星見さんの卒業アルバムも見せてもらったよ」
「うん」
「なんで星見さんはさ。あの頃どんなに暑くても長袖を着ていたの?」 

 彼女は、この言葉には何の相槌も返さなかった。ただうつむき、握り締めた自分の拳を見つめる彼女に僕は、言う。

「傷だらけだったんでしょ。その体。そして今、その傷が戻ってきてるんでしょ。同じだったんだね。星見さんも」

 星見さんは、まだうつむき、口を開こうとはしなかった。僕は構わず続ける。

「それが分かったときさ、今までずっと疑問だったことが解決したんだ。僕はさ。ずっとわからなかったんだよ。放課後の教室で、僕の傷を見た時から、どうしてこんなに星見さんは僕に構うようになったんだろうって。だっておかしいじゃんか。急に連絡先も交換されて、CDも貸してきて、わかんないけど理由もなくされるようなことじゃないでしょ。でも、ようやく全部つながったんだ。星見さんは、昔の自分と僕を重ねていたんだね。そして、僕を、人の評価という鎖から解き放とうとしてくれたんだ。そうなんでしょ? 自分自身が、過去のトラウマを乗り越えるために」

 僕の言葉を受けて、星見さんは、どこか悲しそうな笑みを浮かべた。彼女は僕に言った。

「すごいね。全部合ってる。やっぱり君は人を見る目があるよ。えっと、ごめんね」
「何が?」
「だって、ある意味で私はさ。君のことを利用してたんだよ。自分が自分のトラウマを克服したいがためだけに、君に近づいていたんだよ。こんなにも優しい平谷君をそんな目で見てて。思い返しても、私は自分が嫌になる」
「そんなこと思わないよ。最初がなんであれさ。僕は、今、星見さんと会えて本当に良かったって思ってる。むしろさ。僕はこの傷に感謝してるくらいなんだ」
「優しいね、平谷君は」

 彼女は、ぼくから視線を外し、呟くようにそう言った。僕も彼女から視線を外し、呟くように言葉を紡ぐ。

「でも、許せなかったこと一つだけあるよ」
「何?」
「やっぱり、言ってほしかったよ。こんな形で聞くんじゃなくて、星見さんの口から聞きたかった。星見さんが持っているものは、一人で持てる重さじゃないよ。誰にも助けを求めないことは、決して強さなんかじゃない」
「そっか」

 空を仰ぎながら、彼女は、ため息交じりでそう言った。彼女から放たれた言葉が、空気となって、空へと吸収されていく。

「じゃあ、ここまで来てくれた、君には話すよ。きっと私はもっと早いうちからそうしなきゃいけなかったのかもね。それがきっと君に対して誠意を表すってことなんだ」

 そうして彼女は、背もたれに深く体を預け、ゆっくりと、ゆっくりと、話し出した。


「私さ、ずっと自分が嫌だったんだよ。普通の人はさ、まあそれが普通っていうのも嫌なんだけど、みんな男の人が好きでしょ。だから自分だけが違くて、気持ち悪くて。みんなが好きな男の子の話をするときは、いつも、お前は違う存在だって体中に刻み付けられているようだった。誰にも自分を伝えたくなくて、でも、伝えないと辛い思いをすることになって。そんなときに伝えてもいいやって初めて思えたのが月下湊さんだったんだ」

 彼女は僕の表情を見てはにかむ。力のない笑顔で。

「はは。意外でしょ。昔は本当に仲良かったんだよ。でも、月下さんに本当のことを伝えた時ね。『気持ち悪い』って言われたんだ。そのときさ。そっか、私はやっぱり気持ち悪いんだって思っちゃったんだ。そして私のことをやっぱりクラスメイトは気持ち悪いって思ってるんだろうなって思うようになった。それでそこからいろいろあっていじめにも発展するようにもなって、みんなに私を否定されるようになって、そしたらクラスメイトだけじゃなくて、世界中のどんな人も、私のこと、気持ち悪いって思ってるんじゃないかって感じてきて。そしたらさ。気づいたら、今みたいになっちゃったんだ」

 星見さんは、自らの袖をゆっくりと捲った。『きもちわるい』『わかんない』『ふつうじゃない』目に映るだけで気分が悪くなるほどの残酷な文字が、赤々とした、苛烈なインクで書かれていた。そのおびただしい量の傷跡は、彼女の肌の色が分からなくなるくらい、細い腕を覆っていた。

 彼女は続ける。

「一度は治ったんだよ。母さんから聞いたでしょ。両親や先生の温かい支援のおかげで、傷のない体を取り戻したんだ。それでやっとさ。人の評価が気にならないようになってきた。でもね。見ての通りさ。また戻った。それでね、私気づいちゃったんだ。結局私はさ、克服なんかしてなかったんだよ。どんなに平谷君のその傷を治そうとしても、結局私は何も変わってなかったんだ」
 
 彼女の目が少しずつ、確かに潤いを帯びていく。

「平谷君。私ね。心の中ではさ、傷跡にならないだけで、ずっと私は人の評価を気にしながら生きていたんだよ。だからきっと、本当の自分を君たち二人にずっとさらけ出せなかったんだろうね。だからもうさ。私は、それを受け入れてくしかないんだなって、思ったんだ。ずっと、本当の自分は、他の人には、隠すけど、その上で、楽しく、生きていこうと、思ったんだ。でも、これって、正しい、ことなのかな」

 二つの目に涙を浮かべ、単語一つ一つを押し出すようにして、彼女はそう言葉を終えた。その姿は指先で触れただけでも壊れてしまいそうで、初めて会った時のしたたかな彼女の姿は、もうどこにもなかった。

 ――何か言葉をかけなきゃならない。

 そんな彼女を見て僕は強くそう思った。本当の自分を隠して生きていくことは、正しいことなのか、その答えを、きっと彼女に伝えなくてはならない。

 だがこの問いに対して、道徳の授業のように、本音で向き合うことの大切さを説いただけでは、きっと彼女の心は晴れないのだ。借り物の考えや借り物の正義じゃ、どんな言葉でも彼女の抱えているものを、軽くすることなんてできやしない。

 だからこそ、僕は自分の思いを、彼女にぶつけようとした。潤んだ目で僕を見つめる彼女に、僕は、僕自身の考えを彼女にぶつけようとした。

 しかし、結局僕は、彼女の目から静かに目をそらすことしかできなかった。

「そうだよね。ごめんね。こんなこと聞いて」

 彼女は、また言葉を絞り出すようにしながら、無理に笑顔を浮かべて、そう言った。

 僕は、強くこぶしを握り締めた。彼女に言葉をかけたかった。彼女の抱えているものを少しでも軽くしてあげたかった。そのために僕はここに来た。

『なにもいってくれないんだね』

 そのような言葉が、右腕にかすかに刻まれたような感触を覚えた。わかってはいる。これは星見さんの言葉ではない。だが、その傷の感触は、僕が、言葉をかけられなかった理由を十分に示してくれていた。

 僕は今まで過去を乗り越えた気でいた。だが、それは星見さんと同じように、過去を忘れていただけに過ぎない。乗り越えたわけでは決してない。僕もまだ、切り傷の後の生き方を見つけられていないのだ。

「ごめん、私そろそろ帰るね」

 星見さんは、ギターをケースにしまい、ベンチから立ち上がった。僕は、そんな星見さんの背中をただ眺める。『待って』何も考えずにそう言葉にすることが出来たらどんなに楽だろう。でもきっと、その言葉は、彼女の質問に答えてからでないと、言ってはいけない気がした。

「じゃあ、平谷君。来てくれてありがとね。約束、守れそうになくてごめんね。――さようなら」

 約束とはきっと僕たちが屋上で交わした約束の事を言うのだろう。彼女が自分の色を見つける。僕はそれまで見守っている。確かに僕らはあの場所でそのような約束を交わした。

 その約束は、きっともう果たされることはない。それは彼女の『さようなら』という言葉から推測できた。

 そう言葉を残し、彼女は、ゆっくりと公園を後にした。

 ――また結局何もできなかったのか。

 僕は、去っていく彼女の姿を見送って、心の中でそうつぶやいた。思えば、約束の時もそうだった。彼女は、僕に対して自分の色を見つけると言っていた。それなのに僕は、見守ると言っただけで、自分から何か行動しようとは言わなかった。

 ――そんな自分に何かが変えられるわけないだろう。

 『娘をよろしくね』真紀さんの言葉が脳裏をよぎる。その言葉に応えられなかった自分が、彼女の抱えているものを軽くできなかった自分が、たまらなく憎くてしょうがなかった。寂れた公園の真ん中、秋風が吹く中で、僕はただ、自分のこぶしを強く握りしめていた。
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