キズアト

笹原うずら

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 朝のチャイムが、無機質な音を響かせる。急いで教室に戻る男子生徒。集まっていた一つの席から、自分の席に戻り始める女子生徒。変わらない、何も変わらない日常。僕が好きだったいつもの時間と違うのは、この教室に、星見さんも海斗もいないことだ。とはいえ、海斗は、もうほとんど体調は回復している。今月中には、学校には来られると彼は言っていた。だからきっとこの場所に戻ってこないのは、星見さんだけだ。

 一時間目の授業は、山井先生の古典の授業だった。僕は、よくかかわる人の機嫌だけは損ねないようにするため、担任の授業は他の先生の授業よりも真剣に受ける。しかし、今日だけは、そんな気は全く起こらなかった。古典の文法や訳し方は、星見さんの抱えている問題に対して何の役にも立たないことが分かっているからだ。それに心なしか山井先生の声にいつもの覇気がなくて、それが一層、怠ける気分を促進させた。

 ただ機械的に黒板を写している間に終了のチャイムが鳴った。もう五十分たったのか。そんなことを考えながら、惰性に任せて起立と例をする。

「おい、平谷、今日昼休み職員室に来れるか」

 山井先生は、生徒の礼を見届けた後、僕に対してそう言った。まずい、不真面目に授業を受けている態度が癇に障ったのだろうか。

「はい。わかりました」

 僕は、少しだけ顔をゆがませながら、声だけは、はきはきさせて返事をした。

 二時間目が、聞いているだけの歴史の授業で、三、四時間目が体育の授業だったこともあり、昼休みの時間は思ったよりも早く訪れた。僕は急いでジャージから制服に着替え、山井先生のもとへと急ぐ。

 職員室に入ると、ほかの教師たちが、好奇心を伴う視線を向けてきた。懐かしいこの感覚。そういえば、星見さんの事でも一度こうやって山井先生に呼び出しを受けたことがあった。あの頃は確か夏祭りの話を海斗としていたころだった。

 猛烈な寂しさに襲われながらも、僕は、静かに山井先生のもとへ歩いて行った。彼は、僕の姿を見つけると、あの時と同じように丸椅子を出した。どうやら今回も怒られるということはなさそうだ。

「よく来たな。まあ座ってくれ」
「はい」
「で、どうだった?星見の様子は」

 彼は、僕が座るとすぐにその質問を僕にぶつけてきた。大方山井先生は、僕が職員室に呼ばれた理由が星見さんの事だと察していると思ったから、唐突にその質問をぶつけてきたのだろう。けれども、先ほどまで授業態度について注意されると思っていた僕は、彼の意図を悟り、あわててその質問に答えを返した。

「あ、えっとはい、その、元気そうではなかったです」

 なんだこの答え、とはさすがに自分でも思った。でも、どこまで正直に話していいかわからなかったのも本当だった。星見さんの母親から聞いていたこと、星見さんの不登校の原因、星見さんの過去、これらのことすべて自分がどこまで担任に伝えればいいかわからなかったのだ。先生の事を信用していないわけでは決してないが、きっとこの状況を話したとしても、何かの解決には繋がらないだろうと思った。

「そっか」

 山井先生は、ため息交じりにそうつぶやくと、机の上のお茶を一口飲んだ。

「あれから俺も電話したんだが、星見は転校するんだってな。次行く学校の目処が立ったら手続きを始めるらしい。お前も聞いたんだろ」

 彼の口にした声は、水分を含んだのにもかかわらず、一層と乾いて聞こえた。そこで僕は、一時間目の彼の授業に、覇気がなかった理由に気づいた。彼はきっと、自身の無力感に嘆き、活力を失っていたのだろう。いつの間にか教え子が転校するほど追い込まれていた。それに気づくことができなかった自分が悔しく、生徒の楽しい学校生活を奪ったことが何よりも悲しいのだ。

「はい、そうだと聞きました」

 僕は、視線を落とし、静かにそう言葉を返した。先生の気持ちは生徒にはわからない。だが、彼の星見さんに対して覚える無力感だけは、苦しいほど理解できる気がした。

 彼は、またお茶を口に運び、僕に言った。

「ごめんな。お前の友達に何もしてやれなくて」

 普段の彼からは想像もできないほど活力を失い、乾ききってはいるが、確かにやさしい教師の声。その声を聞いたとき、胸から苦しさとか、いろいろな感情が押し上げてくるのがわかった。でも、先生方の前でそれをさらけ出すことはできず、僕は、かすかにうるんだ声で、彼に告げた。

「いえ、何もできなかったのは、僕も同じですから」


 重い足取りで、ゆっくりと教室に向かう。まだ昼休みの時間は続いている。正直、今は何も食べたくない気分ではあるが、母が作ってくれた弁当を無下にするわけにはいかない。教室にかえり、まあまあ仲のよいグループに混ざって、昼食を食べる。

「ねえねえ聞いた? 星見さん転校するらしいよ」

 ふとそんな声が聞こえた。気づけば、僕たちのグループから一席ほど離れた場所に、月下さんを含んだ女子グループがいた。僕と山井先生の会話を聞いていたのか、あるいはそれ以前に山井先生からそれを聞いたのか。ともかく、一大スクープを誰よりも早く手にしたつもりの彼女はやけに大きなひそひそ声で話を続ける。

「やっぱレズだって知られたから引っ越しちゃうのかな? でもまだ、学校にも来てないのに繊細すぎじゃない?」

 他の女子生徒が、それに言葉を返す。

「なんか前の学校でいじめとかあったんじゃないの? でも、このクラスでもあまり打ち解けられてないみたいだったし、転校したほうが幸せかもね」

 ――うるさいな。

 わかっている。きっと彼女に罪などない。彼女たちは、決して知らないのだ。彼女がどれだけその真実を知られることに怯えてきたか、どれほどその真実のせいで苦しい目にあってきたか。それがわからないのだから、そういった背景を考慮して発言することはできない。知らないことは罪ではない。

 理屈ではわかっていた。だが、どうしても怒りが収まらなかった。気づけば、無意識に箸を握り締めている自分に気づく。

 その時、二人の女子の言葉を受けて、月下さんがこう言った。

「そうだよね。でもレズってすごいよね。私も聞いたとき衝撃だったもん。なんかあんまり大きな声では言えないけどさ。正直ちょっとだけ気持ち悪いなって思っちゃうよね」

 ――ガタン。

 教室に、椅子が倒れる音が、響いた。気が付くと、一人立ち上がっている自分がいた。そうか。僕は、今椅子を倒して立ち上がったのか。じゃあきっと相当目立つだろうな。

 視線の端々に、怯えたような、恐れるような表情を浮かべたクラスメイトが映る。その時体中に痛覚が走る。

『え、なにきゅうにたってんの』『まさかほしみのためにおこったの』『きもちわる』『あれぐらいでおこるとかこわいんですけど』

 ――いったいなあ。

 針で刺されるような痛みを抱えながら、僕は静かに、月下さんの方へ歩いていく。彼女は、僕に怯えたような眼を浮かべてこう言った。

「どうしたの? 平谷君。怖いよ」

 ふと、彼女の顔を見て僕は、病室で彼女が星見さんに対して言った言葉に反論できなかった自分を思い出した。そして次に、あの雨の日に星見さんに何もできなかった自分を思い出した。最後に、公園で、彼女の涙に何も言葉を返せなかった自分を思い出した。そのどの瞬間も、何もできない自分に対して抱くのは、無力感という名の痛みだった。

 僕の方を見て、クラスメイトの視線は、一層怯えたものに変わる。

『え、なにするきなの』『こわ』『たかだかふざけたぐらいでなにむきになってるの』『ひらたにくんってあんなひとなんだ』『やっぱふだんおとなしいやつっておこるとこわいね』

 クラスメイト中の評価が、腕を覆い、すぐに胸のあたりまで傷が侵食してくる。そして、人が多いからか、海斗と救急車に乗った時をはるかにしのぐ速さで、傷は上半身を覆いつくす。ゆっくりと針を深く深く差していくような痛みが、僕自身を侵食していく。

 だが、きっとこんなものはもう僕にとって痛みでもなんでもなかった。あの日に何も声をかけられなかった無力感のほうが、もっと痛かった。あの日の痛みのほうがもっともっと重かった。

 ふと、天秤がゆっくりとかたむいていく様子が頭に浮かんだ。

 ――パアン。

 彼女の顔は僕から見て左に向けられ、僕の右の手のひらには、かすかな熱さが残っていた。

『なぐった』『いたそう』『おんなのこなぐるとかさいていじゃん』『ひらたにきれるとこわ』

 月下さんは、ゆっくりと僕に向き直り、敵意をむき出しにして僕をにらみつけた。僕の平手は、彼女が普段かぶっている仮面もはがしてしまったようだ。転校してから初めて、素の彼女と対峙したような気がした。

「いたっ。なんでこんなことするわけ? あのレズ女のため? だとしても暴力とかありえなくない?」

 生まれて初めて、人を殴った。だから、理由を聞かれても答えることは難しかった。この人が星見さんをいじめたのも、この人が星見さんの秘密を暴露したことも、この人が星見さんを気持ち悪いと言ったことも、正直許せない。

 だがきっと、僕が彼女の闇をここで暴露するのは違うはずだ。星見さんが誰にも打ち明けようとしなかった過去を、僕が、クラスのみんなに暴露するのは何の解決にもなりはしない。

 だから、正直な気持ちを話そうと思った。この人に、そしてクラスメイトに、『僕』の、いや、『俺』のありのままを伝えよう。

 俺は、彼女の眼を見据えて、言った。

「ごめん。星見さんのこと、俺も好きなんだ。だから、悪く言われたことが、許せなかった」
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