あなたの代わりに恋をする、はず、だった

清谷ロジィ

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あの日の「本当」

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 あれは、五歳のときだった。
 当時、うちが所有していた海沿いの別荘に行く夏の家族旅行に、チーも一緒に行きたいと駄々をこねたのは私だった。
 私たちは二人で一人。一人だと半分。そう信じていたから。
 仕事があって行けないというおばさんとママが話し合って、オッケーが出たとき、私とチーはハイタッチをして大喜びした。
 その興奮は、旅行当日までの日々も、移動中の車の中も、到着してからもずっと続いていた。

「私、海で泳ぐの初めてなんだ! プールと違うのかなぁ」

 別荘に到着して、海を目にしたときのチーの素直な言葉に、私もパパもママも笑った。
 しかし、タイミング悪く、旅行の日程が台風の上陸とかち合ってしまった。

「逸れると思ったんだがなぁ」

 パパは気まずそうに空を見上げ、ママは「明日になれば晴れるからね」と、私たちを慰めた。
 昼食後のお昼寝をしていた私は、誰かに揺さぶられて目を覚ました。その正体であるチーは、いたずらっぽく笑って、しーっと言った。

「ねえ、カー。あの部屋から音楽が聞こえる」
「だめだよ、チー。パパとママが音楽を聞いてるときはお部屋に入っちゃいけないんだよ」

 目をこすりながら、私はそう言った。
 クラシック音楽の鑑賞はパパとママの趣味。
 だけど、仕事が忙しいパパがママと一緒に聴けるのは、この別荘に来たときくらいだ。
 チーはあちこちのドアを開ける癖があって、ちゃんと言っておかないと叱られてしまう、と思ったから。
 チーはふぅん、と鼻を鳴らすように返事をして、窓のところに歩いていった。
 私も布団から出て、チーの隣に立った。木々が、まるで見えない巨人の手に撫でられてでもいるように大きく揺れている。

「すごい風だねぇ」
「わたし、本をたくさん持ってきてるよ。いっしょに読もう」

 チーはぶんぶんと首を横に振った。

「カーのいじわる。わたしが本を読むと眠くなっちゃうの知ってくるくせに。それより、チーはランドセル何色にするの?」
「うーん、どうしようかなぁ」
「赤にしようよ。わたしねぇ、帰ったらママとランドセル買いに行くんだ」
「チーが赤にするならわたしもそうするね」
「ね、カー。かくれんぼしようよ。わたし、たいくつで死んじゃう」
「うん、いいよ」

 じゃんけんの結果、チーが鬼になった。

「ぜったいにチーには見つけられないとこにかくれるから」
「わたし、カーを見つけるのじょうずだからへいきだよ」

 くすくす笑い合って、チーは壁に顔を伏せ、私は部屋を飛び出した。いーち、にーい、さーん……。
 足音を忍ばせて音楽が聞こえる部屋の前を通り過ぎると、階段を下りてきょろきょろとあたりを見回した。
 どこに隠れてもチーに見つかる気がした。
 チーの言うとおり、チーは私を見つけるのがうまかった。どこに隠れてもすぐ見つかったし、迷子になってもいつだって迎えに来てくれた。
 だから、かくれんぼは私の連戦連敗。
 今日こそは、と意気込んだ私は一生懸命に考えた。そして、閃いてしまった。
 そうだ、外に出たことにしよう、と。

「もういいかい」

 チーの声が降ってきた。

「まーだだよ」

 急がなくちゃ、と私は自分のサンダルを靴箱の奥に押し込んだ。階段を下りる足音。
 今だ。背伸びをして鍵をひねり、ドアを開ける。甘いにおいのする生ぬるい風が体を包んだ。

「うわー、すごい風!」

 足音が止まった。私は音を立ててドアを閉めると、玄関わきのクローゼットに素早く滑り込んだ。

「カー?」

 チーの声がして、私はクローゼットの隙間からそっと外をのぞいた。
 白地に青やピンク、黄色の小花がプリントされたワンピースが目の前を横切る。私が着ているワンピースも同じようなデザインだった。私たちはいつだって、よく似ていた。
 がちゃり、とドアの開く音。

「カー、外は危ないよ」

 その声と、サンダルを履いた足音が遠ざかり、もう一度がちゃん、とドアが閉まる音がした。
 外にいないと気付いたらチーはまた中に戻ってくるはず。だから、ちゃんと隠れておかなくちゃ。
 チーが「こうさん」したら、ここから飛び出してびっくりさせてやるんだから。
 当時の私はそう考えて、暗いクローゼットの中でほくそ笑んでいた。
 クローゼットにはクリーニングから帰ってきた服が、薄いビニールをかけたまま吊るされていた。
 少し動くだけで、かさかさ、しゃらしゃらと音を立てる。それが汗ばんだ肌にまとわりつくのが気持ち悪くて、私はじっと縮こまっていた。
 その音に風と雨の音が混じる。
 ざあざあ、ごうごう。
 風はさっきより強くなっているようだった。
 かさかさ、しゃらしゃら。ざあざあ、ごうごう。かさかさ、しゃらしゃら。ざあざあ、ごうごう。ざあざあ、ごうごう……。
 お昼寝の途中で起こされた私は、真っ暗なクローゼットに充満する音に包まれて、いつの間にか眠ってしまった。

****

 ――突然のまぶしさに目を覚ます。けれど、強すぎる光にうまく目が開けられない。
 ぼんやりとした視界に映ったのは、ずぶ濡れで真っ青な顔をしたパパだった。

「パパ、どうしたの?」

 目をこすりながらそう言った私の頬をパパが思いきり打った。
 顔面が吹き飛んだのかと思うくらいの衝撃。クローゼットにぶら下がったビニールがまた、かさかさ、しゃらしゃらと音を立てた。

「澤野さん、落ち着いて!」

 雨合羽を着た大人たちが大勢なだれ込んできて、父を羽交い締めにする。白も透明も紺色も黄色も黒も、みんな濡れて、てらてらと光っていた。
 その中で紺色の人が私に手を伸ばした。私を抱き上げようとする紺色の人からは、潮のにおいがした。パパやママとは違う、無遠慮な力と感触に私は怯えた。
 やだ、離して。触らないで。叫びたいのに声が出ない。

「大丈夫だよ。さあ、こっちへ」

 嘘だ。そう直感した。この人、嘘をついてる。
 パパに打たれた頬が、どんどん速くなる心臓の鼓動に合わせて脈打つように痛んだ。まるでもう一つの心臓がそこにあるようだった。
 混乱の極みに達した私の体から、ようやく言葉がこぼれた。

「チーは?」

 大人たちが動きを止めた互いに顔を見合わせて、なにかを探り合っている。

――かさかさ、しゃらしゃら。ざあざあ、ごうごう。

「チーはどこ? かくれんぼしてたの」
「千佳ちゃん!」

 やはりずぶ濡れのママが、玄関に飛び込んできて、私を抱きしめる。

「千佳ちゃん! よかった! あなたじゃなかったのね!」

 バターと卵たっぷりのふわふわなお菓子を作るママからは想像もできないほどの力だった。
 なにか普通じゃないことが起こっているのだと本能的に分かっているのに、なにが起こっているのかが分からない。それが、怖くて仕方なかった。
 感情の発露を求めて、目から涙が一つこぼれると、私は火が点いたように泣き出した。
 足の間がじんわり温かくなって、クローゼットにアンモニア臭が充満した。
 もうずっとしていなかったお漏らしをしたことにショックを受けて、私の泣き声はさらに大きくなった。
 汗ばんだ肌にビニールがまとわりつくことも、ママが「よかった」と繰り返し続けながら抱きしめてくることも、いやでいやでたまらなかった。

「泣くな!」

 パパが叫んだ。
 稲妻が走り、間を置いて建物がどぉんと揺れた。ふっと明かりが消え、誰かが「停電だ」と呟いた。
 雷が落ちるたび、白い光が真っ暗な世界を切り裂く。白黒の世界で浮かび上がるのは、ずぶ濡れのパパが、ずぶ濡れの大人たちに囲まれながら叫んでいる姿。いつもの優しい顔とは違う、怒りに歪んだ顔。

「泣くな!」

 パパは、どうしてあんなに大きな声を出しているんだろう。

「千佳ちゃん、本当によかった!」

 ママは、どうしてわたしを壊しちゃいそうなくらい抱きしめるんだろう。 

――かさかさ、しゃらしゃら、ざあざあ、ごうごう。

 チーはどこ? わたしの半分。わたしを探しているはずなのに。
 わたしたちはずっと一緒。一人だと半分。一人だと生きられない、のに。
 光が走った。
 白と黒の世界で、わたしはただただ繰り返す。
 どうしてなんだろう。
 どうして、どうして、どうして。

――かさかさ、しゃらしゃら、ざあざあ、ごうごう……。
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