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3.大学
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「……寿志」
「なに、母さん?」
喫茶店のシャッターを下ろし、最後に照明を落とした、その時だった。
母親が、少し躊躇うような声で俺を呼んだ。
「大学……行ってもいいのよ」
「……え?」
思わず、動きが止まる。
「急に、どうしたんだよ」
母さんは、エプロンの端をぎゅっと握りながら、少し俯いた。
「母さんね……ずっと、申し訳ないと思ってたの」
静かな声だった。
「あなたから、大事な時間を奪ってしまったって……」
胸の奥が、ちくっとする。
「だからさ、気にすんなって」
俺は近づいて、母さんの肩を軽く叩いた。
「辞めたのは、俺の意思だ。母さんは悪くない」
それは、嘘じゃない。
高校を辞めたのも、店を手伝うと決めたのも、全部自分で選んだ。
「……でもね」
母さんは、ゆっくり顔を上げた。
「母さんは、あなたにもっと遊んでほしいの」
「……遊ぶ?」
「ええ。友達と笑ったり、恋したり、失敗したり……そういう時間」
少し微笑んで続ける。
「病気もね、だいぶ良くなってきたし」
そして、ふっと目を細めた。
「それに……あなた、最近楽しそうなの」
「……え?」
思わず、聞き返した。
「前はね、ほんとに感情がなくて……仕事だけを淡々とこなしてる、そんな感じだった」
胸が、ざわつく。
「でも今は違うの。顔つきが柔らかいし、笑う回数も増えた」
母さんは、くすっと笑った。
「あの男の子でしょう?」
……やばい。
「毎日告白してくれる、あの子。もう一年くらい通ってくれてるわよね」
完全に、バレてた。
「……」
言葉が出ない俺を見て、母さんは優しく言った。
「あの子のおかげなのね」
——無自覚だった。
自分の中で、そんな変化が起きていたなんて、考えたこともなかった。
「だからね」
母さんは、少し真剣な表情になる。
「今からでも遅くないわ。勉強して、大学に行くのも、いいと思う」
……母さんは、本当に優しい。
俺は高認を取っている。
道が完全に閉ざされているわけじゃない。
「……」
少し、考えてから、答えた。
「……やってみる」
声は小さかったが、不思議と迷いはなかった。
大学。
俺には縁のない、遠い世界だと思っていた。
でも——
もしかしたら。
通えるかもしれない。
そんなふうに思えたのは、たぶん。
あの、しつこいくらい真っ直ぐな告白のせいだ。
———
「あれ、寿志さん、勉強してる。珍しいですね」
高校二年生になった辻が、いつものように店に入ってきた。
制服姿がすっかり板についていて、背もまた伸びた気がする。
「……辻」
「辻じゃなくて、祐飛です」
そこは、きっちり訂正してくる。
「……はいはい」
俺はため息をついてから、机の上の参考書を指で叩いた。
「俺さ、大学行こうかと思ってるんだ」
「……大学?」
祐飛が、ぱちりと瞬きをする。
「母さんから、行くのもありだって言われてな」
そう言って、参考書を閉じる。
「まあ、ブランクあるし。ちゃんと受験しようと思ったら、二年くらいはかかると思うけど」
「……」
祐飛は少し考えるような顔をしてから、言った。
「……じゃあ、俺と同じ学年ですね」
「……あ」
言われて、気づく。
確かにそうだ。
「祐飛は……大学、行くのか?」
「はい。一応」
あっさりした返事。
「実家の病院、継がなきゃいけないので」
「……は?」
一瞬、意味が理解できなかった。
「病院?」
「え?言ってませんでしたっけ。うちの両親、病院やってるんです」
そう言って、スマホを取り出し、画面をこちらに向ける。
——近所でも有名な、でかい総合病院。
「……マジかよ……」
思わず、声が漏れた。
「……しかも、お前」
視線が自然と下から上へ移動する。
「医学部目指せるくらい、勉強できんのかよ……」
「まあ……昔から、それなりに努力はしてるので」
さらっと言うな。
顔は国宝級。
身長は182センチ。
頭もいい。
両親は医者。
おまけに性格も真っ直ぐ。
——なんだ、このハイスペック人間。
胸の奥が、ざらっとする。
「……なあ」
気づいたら、そんなことを言っていた。
「今からでも遅くない。俺なんかやめろ」
祐飛が、目を見開く。
「もっと上の女とか、いるだろ」
自嘲気味に、笑う。
「俺みたいな、学歴もねぇ、店の手伝いしてるだけの人間よりさ」
「嫌です」
被せるように、即答された。
「俺がこれから先も共にするって決めてるのは、寿志さんです」
……重い。
いや、重すぎる。
「おいおい……」
思わず、笑ってしまう。
「まあ、元カノ全員にも、そう言ってきたんだろ?」
「言ってません」
真顔だった。
俺は、こいつがモテることを知っている。
だから、簡単には信じられない。
「……お前、誤魔化したりできない性格だからな…」
ぽつりと、独り言みたいに言った。
「たとえそこまで好きじゃなくても、きっと、付き合った相手には、向き合ってきたんだろうな」
「……寿志さん」
祐飛が、少しだけ声のトーンを変えた。
「もしかして、嫉妬、してます?」
にやっと笑う。
「……は?」
何を言い出すんだ。
「やっぱり!」
嬉しそうに言って、次の瞬間——ぎゅっと、抱きしめられた。
「ちょ、ちょっと……!」
「可愛いなぁ」
「離れろって……!」
「嫌です。可愛いこと言う寿志さんが悪い」
力が強い。
さすが、若い。
抵抗してもびくともしなくて、結局、されるがままだ。
やがて、ようやく離れる。
「寿志さん」
真っ直ぐな目で、言う。
「一緒に、大学生になりましょう」
「……」
「違う大学でもいい。学部も違っていい」
一歩、踏み込んで。
「それまでに、俺、付き合ってみせますから」
いつものように、迷いのない声。
……本当に、こいつは。
怖いくらい、真っ直ぐだ。
そして。
——俺の心は。
とっくの昔から、気づかないふりができないくらい、傾いていた。
「なに、母さん?」
喫茶店のシャッターを下ろし、最後に照明を落とした、その時だった。
母親が、少し躊躇うような声で俺を呼んだ。
「大学……行ってもいいのよ」
「……え?」
思わず、動きが止まる。
「急に、どうしたんだよ」
母さんは、エプロンの端をぎゅっと握りながら、少し俯いた。
「母さんね……ずっと、申し訳ないと思ってたの」
静かな声だった。
「あなたから、大事な時間を奪ってしまったって……」
胸の奥が、ちくっとする。
「だからさ、気にすんなって」
俺は近づいて、母さんの肩を軽く叩いた。
「辞めたのは、俺の意思だ。母さんは悪くない」
それは、嘘じゃない。
高校を辞めたのも、店を手伝うと決めたのも、全部自分で選んだ。
「……でもね」
母さんは、ゆっくり顔を上げた。
「母さんは、あなたにもっと遊んでほしいの」
「……遊ぶ?」
「ええ。友達と笑ったり、恋したり、失敗したり……そういう時間」
少し微笑んで続ける。
「病気もね、だいぶ良くなってきたし」
そして、ふっと目を細めた。
「それに……あなた、最近楽しそうなの」
「……え?」
思わず、聞き返した。
「前はね、ほんとに感情がなくて……仕事だけを淡々とこなしてる、そんな感じだった」
胸が、ざわつく。
「でも今は違うの。顔つきが柔らかいし、笑う回数も増えた」
母さんは、くすっと笑った。
「あの男の子でしょう?」
……やばい。
「毎日告白してくれる、あの子。もう一年くらい通ってくれてるわよね」
完全に、バレてた。
「……」
言葉が出ない俺を見て、母さんは優しく言った。
「あの子のおかげなのね」
——無自覚だった。
自分の中で、そんな変化が起きていたなんて、考えたこともなかった。
「だからね」
母さんは、少し真剣な表情になる。
「今からでも遅くないわ。勉強して、大学に行くのも、いいと思う」
……母さんは、本当に優しい。
俺は高認を取っている。
道が完全に閉ざされているわけじゃない。
「……」
少し、考えてから、答えた。
「……やってみる」
声は小さかったが、不思議と迷いはなかった。
大学。
俺には縁のない、遠い世界だと思っていた。
でも——
もしかしたら。
通えるかもしれない。
そんなふうに思えたのは、たぶん。
あの、しつこいくらい真っ直ぐな告白のせいだ。
———
「あれ、寿志さん、勉強してる。珍しいですね」
高校二年生になった辻が、いつものように店に入ってきた。
制服姿がすっかり板についていて、背もまた伸びた気がする。
「……辻」
「辻じゃなくて、祐飛です」
そこは、きっちり訂正してくる。
「……はいはい」
俺はため息をついてから、机の上の参考書を指で叩いた。
「俺さ、大学行こうかと思ってるんだ」
「……大学?」
祐飛が、ぱちりと瞬きをする。
「母さんから、行くのもありだって言われてな」
そう言って、参考書を閉じる。
「まあ、ブランクあるし。ちゃんと受験しようと思ったら、二年くらいはかかると思うけど」
「……」
祐飛は少し考えるような顔をしてから、言った。
「……じゃあ、俺と同じ学年ですね」
「……あ」
言われて、気づく。
確かにそうだ。
「祐飛は……大学、行くのか?」
「はい。一応」
あっさりした返事。
「実家の病院、継がなきゃいけないので」
「……は?」
一瞬、意味が理解できなかった。
「病院?」
「え?言ってませんでしたっけ。うちの両親、病院やってるんです」
そう言って、スマホを取り出し、画面をこちらに向ける。
——近所でも有名な、でかい総合病院。
「……マジかよ……」
思わず、声が漏れた。
「……しかも、お前」
視線が自然と下から上へ移動する。
「医学部目指せるくらい、勉強できんのかよ……」
「まあ……昔から、それなりに努力はしてるので」
さらっと言うな。
顔は国宝級。
身長は182センチ。
頭もいい。
両親は医者。
おまけに性格も真っ直ぐ。
——なんだ、このハイスペック人間。
胸の奥が、ざらっとする。
「……なあ」
気づいたら、そんなことを言っていた。
「今からでも遅くない。俺なんかやめろ」
祐飛が、目を見開く。
「もっと上の女とか、いるだろ」
自嘲気味に、笑う。
「俺みたいな、学歴もねぇ、店の手伝いしてるだけの人間よりさ」
「嫌です」
被せるように、即答された。
「俺がこれから先も共にするって決めてるのは、寿志さんです」
……重い。
いや、重すぎる。
「おいおい……」
思わず、笑ってしまう。
「まあ、元カノ全員にも、そう言ってきたんだろ?」
「言ってません」
真顔だった。
俺は、こいつがモテることを知っている。
だから、簡単には信じられない。
「……お前、誤魔化したりできない性格だからな…」
ぽつりと、独り言みたいに言った。
「たとえそこまで好きじゃなくても、きっと、付き合った相手には、向き合ってきたんだろうな」
「……寿志さん」
祐飛が、少しだけ声のトーンを変えた。
「もしかして、嫉妬、してます?」
にやっと笑う。
「……は?」
何を言い出すんだ。
「やっぱり!」
嬉しそうに言って、次の瞬間——ぎゅっと、抱きしめられた。
「ちょ、ちょっと……!」
「可愛いなぁ」
「離れろって……!」
「嫌です。可愛いこと言う寿志さんが悪い」
力が強い。
さすが、若い。
抵抗してもびくともしなくて、結局、されるがままだ。
やがて、ようやく離れる。
「寿志さん」
真っ直ぐな目で、言う。
「一緒に、大学生になりましょう」
「……」
「違う大学でもいい。学部も違っていい」
一歩、踏み込んで。
「それまでに、俺、付き合ってみせますから」
いつものように、迷いのない声。
……本当に、こいつは。
怖いくらい、真っ直ぐだ。
そして。
——俺の心は。
とっくの昔から、気づかないふりができないくらい、傾いていた。
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