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第一部
第34話
しおりを挟むエデルが教会に持ち込んだ鞄は二つ。もう一つの鞄からは別の衣装が出てきた。
式が終わりエルーシアはエデルから渡されたドレスに着替えた。それは少し控えめな紺色の詰襟ドレスだ。前開きのドレスは一人で着替えができた。エデルもロングコートに着替える。紳士の服でさえも着こなすエデルの凛々しい姿にエルーシアから熱いため息が溢れた。これは変装、駆け落ちの男女には見えない。
エデルとエルーシアは夫婦になった。それでも身を隠さなければならない理由をエルーシアは理解していた。神前で結婚の誓いをたてた。誰もこの宣誓を侵すことはできない、死以外は。エデルの命が狙われる。だから逃げなければならない。エデルが笑顔でエスコートの手を差し出した。
「隣街まで駆けます。もう少し頑張れますか?」
「大丈夫よ」
教会を出て再び馬に乗り街道を駆け抜ける。雲は晴れ今は月が明るく夜道を照らしていた。
たどり着いた街は港町だ。夜中だったが街灯が明るく人も溢れていた。この街も屋敷からそれほど離れてはいない。こんな近くをうろうろしていて大丈夫なのだろうか。そんな心配をしていたエルーシアはエデルの言葉にさらに驚いた。
「今日はここに泊まります」
「ええ?ここ?」
「もう夜も遅いです。無理は良くありません。この馬も限界ですので」
連れていかれたのは大きいホテルだった。馬を預け躊躇うエルーシアの手を引いてホテルに入る。そして泊まる部屋を見てエルーシアはさらに息を呑んだ。ホテル最上階のスイートルームは侯爵家と大して変わらない程の豪奢な部屋だ。エルーシアは侯爵令嬢だが元は質素な暮らしをしていて経済感覚は庶民に近い。とてもエデルが払えるとは思えない部屋だ。エルーシアが青ざめてエデルを見上げる。
「エ‥エデ‥エデル?こここここは‥‥?」
「少し奮発しました」
「ふふふふんぱつ?ふんぱつ?!」
「すみません‥これが今の僕の精一杯です。エルシャ様には最高のものを‥」
「え?え?!何を?!」
エデルは何を言っているの?!
家から追われる男女が泊まる部屋ではない。ダイニングテーブルにソファセットもありさらに続く扉がいくつかあった。エデルが開けた続き間は寝室だった。仄かな明かりがいくつも灯された寝室は幻想的な雰囲気だ。中央にはキングサイズのベッドがひとつだけ。それが目に入りエルーシアの心拍が一気に上がる。
「何か食べますか?それとも湯を‥」
「食事はいいわ。え?エデル?私たち逃げてるのよね?」
「はい、そうなります」
「ここにいていいの?」
「まさか逃げ出した二人が近くの街のホテルに泊まっているとは思わないでしょう?教会からこの街まで辿られてもこの街は辻馬車が発着しています。馬車に乗って逃げたと思うでしょう。僕たちのような男女二人連れもこの街は多いです」
「そ‥そうかしら‥‥?」
「ええ。馬にも乗りましたし色々あってお疲れでしょう?ゆっくりしましょう。そのための部屋です」
確かに馬に乗ったが鞍は乗り心地が良くエデルも支えてくれたから辛くはなかった。どちらかといえばエデルが疲れてるんじゃないだろうか。用意周到なエデルが言うなら大丈夫なのかもしれない。
お金の心配もあったがそれをエデルに問うのも失礼に思われた。エデルは払えないのに高級ホテルに入る愚か者ではない。
戸惑うエルーシアを抱きしめエデルがそっと囁いた。その言葉にエルーシアが目を見開いた。
「今日は特別な夜、初夜ですから」
そのための部屋———
式を挙げた。つい先ほど夫婦になった。今夜は間違いなく、夫婦の初めての夜。エルーシアの呼吸が上がり喉がこくりと鳴った。
繋がってこそいないがそれに近いエデルとの情事が頭をよぎり顔が勝手に赤くなる。頬を染めて俯くエルーシアの顎を掬い上げエデルが陶然と笑みを浮かべた。
「そんな顔をされては堪らないな」
「エデル‥」
「湯は後でいいですね」
ふわりと横抱きにされて続き間へと連れていかれる。そこには先程見えた大きなベッド。そこに壊れ物の様に置かれそっと口づけられる。丁寧に口内を舐られエルーシアの体は簡単に快楽に流された。
長い一日だった。義兄に見つかり牢に入れられたエデルが心配で胸が潰れそうだった。義兄の告白と誘惑に翻弄され流されそうになるも助け出されエデルと再会できた。今朝エデルとの別れを悲しんでいたのに今はそのエデルと夫婦になり初夜を迎えている。
ああ、エデル‥本当に無事でよかった‥
その想いでエデルを抱きしめ貪り合う。長いキスで蕩かされ弛緩した体でエデルを見上げた。
「ん‥‥エデル大好き‥」
「エルシャ様‥大事なものを忘れていました。少しだけ待っていて下さい」
エデルがエルーシアの手にキスを落とし寝室を出るもすぐに戻ってきた。手には平たい小箱と何か瓶に小さなグラス、それらをサイドテーブルに並べてエデルはベッドに腰掛けた。
「これをご存知ですか?」
開けられた小箱に焦茶の板状のものが入っていた。小分けにカットされている。食べ物だろうか。見たことがないそれにベッドの上に座るエルーシアは目を瞬かせる。
「これは‥?」
「恋人たちの薬と呼ばれています。いわゆる媚薬です」
「びやく?!」
話には聞いたことはあったが初めて見た。目を剥いて忙しなくエデルと箱を見比べる。平然と言ったエデルが全く動じていない。これは聞き間違い?まじまじと箱を覗き込んだ。
「びやく‥‥って媚薬?」
「はい、食べれば性的に興奮します」
「せぃ?!こぅ?!」
真っ赤になってぴゃっと箱から身をひくエルーシアにエデルが堪らずぷっと吹き出す。くすくす笑う声にエルーシアが憮然となった。
「もう!からかわないで!」
「すみません。いえ、冗談ではなく」
笑いをおさめてエデルが真面目な顔になる。
「初めては女性には辛いものです。なるべくそうならないよう努めますが、エルシャ様には少しでも善くなって欲しいです」
「私にこれを‥‥食べろってこと?」
エデルがとても良い顔で微笑んだ。それを肯定と理解する。
性的に興奮?食べたらどうなってしまうのだろうか。自分だけ食べて変になってしまうのはなんだか恥ずかしい。だから何も考えずに思ったことが口から出た。
「エ‥エデルも‥食べてくれるなら‥‥」
今度はエデルが絶句した。目を剥いてガチンと数秒固まる。そして盛大なため息を吐いて目元を覆った。
「また‥‥とんでもないことを仰いましたね。なんだろう、今日は二回目ですかね‥‥」
「そうだったかしら?」
「僕も食べたら意味がないというか‥‥酷いことになりますよ?」
「な‥るの?」
「なりますね」
「エデルなら構わないわ?」
酷いことになる?優しいエデルがどうなるというんだろう?子供の様にあどけなく小首をかしげてそう答えればエデルが再びガチンと固まった。みるみる目元が赤くなる。
「そんな殺し文句を仰る。後で後悔しても知りませんよ?」
「え?」
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