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第一部
第32話
しおりを挟む本邸に戻る前は庭を駆け回っていた。閉じこもりで体力は落ちていたが他の侯爵令嬢よりは走りに長けている。
エルーシアは闇夜を駆けながら逃げ延びたエデルを思う。無事でいてほしいと思うも会いたいと思う気持ちも募る。
またいつかどこかでエデルに会えるだろうか。義兄の手の中に戻ればもう無理かもしれない。でももしまた会えたらたくさん謝らないといけない。酷い目に遭ってきっとエルーシアのことを恨んでいるばずだ。もう顔も見たくないと思っているだろう。ずきりと胸が痛んだ。だがそれも自分の軽率な行いのせいだ。仕方がない。でも———
「でも会いたい‥‥エデルに会いたい‥」
自分はこれ程に傲慢で我儘だ。エデルを酷い目に遭わせたのにそれでもエデルに焦がれる気待ちが止まらない。勝手に溢れでる涙を拭い何かにつまずいた。勢い余って体が宙に浮く。咄嗟に手をつこうとした体を何かが抱き止めた。鼻腔をくすぐるその大好きな香りにエルーシアの呼吸が止まる。
「エルシャ様?!なぜここに?!」
「え?‥エデル?エデルなの?」
信じられない。夢じゃない。しっかりと自分を抱きとめるその体は確かにたくさん抱き合ったエデル。エデルも驚いたようにエルーシアを見下ろしていた。全身黒づくめ、頭から被った覆面は顔を隠しているが目だけが晒されている。飴色の瞳が驚愕で瞠られていた。
「無事だったのね?!」
「話は後で」
迎えとはエデルのことだった?どうかお幸せに、と言ったルイーサを思い出し目を閉じる。
もう涙が溢れてエデルの姿が歪んで見えない。会えないと思っていた想い人が自分を抱きしめている。素早く辺りを窺ったエデルがエルーシアを横抱きに抱き上げ闇夜を駆け抜けた。抱きしめられる温もりが嬉しくてエルーシアは声を殺してずっと泣いていた。
エデルがたどり着いた先には馬が一頭繋がれていた。エルーシアを下ろし辺りの様子を再度窺ったエデルは覆面を取りエルーシアを抱き寄せた。
「ご無事でよかった‥」
「エデル‥‥酷いことにならなかった?」
泣きじゃくるエルーシアの涙を拭いエデルは微笑んで頷いた。
「はい、あれからすぐ助け出されました。鞭打ちも受けていません」
助け出された。ルイーサの言と一致する。エルーシアはほっと安堵した。
誰かが自分たちを助けてくれた。一体誰だろう?
エデルが拘束されたあの光景が思い出されエルーシアから再び涙が溢れ出す。
「でも殴られてたわ‥」
切れて血が流れていた口角の傷は乾いてかさぶたになっていた。エデルの頬に触れればその手を取られ掌に口づけられる。
「大したことありません。あんなもの、ただの喧嘩です。それよりなぜエルシャ様がここに?」
「‥‥‥‥外に行こうと‥‥」
「外?」
「義兄から逃げて‥‥」
「旦那様から?まさか僕のせいで何か酷いことを?!何があったんです?!いや、これはエルシャ様に怒っているのではなく‥」
エデルに問い詰められエルーシアはことの次第を語った。エデルが牢にいること、逃げるとエデルを殺すと言われたこと、妻になれと言われたこと。ルイーサに助けられたこと。父と義兄の血縁については伏せた。それは侯爵家のお家騒動になってしまう。
全てを聞いたエデルが目を見開いてがくがくと震え出す。
「ラルドが‥‥そんなことを‥‥」
初めてエデルが当主である義兄を呼び捨てにした。それほどの憤怒。エルーシアは青ざめて息を呑む。優しいエデルは酷いことはしないが怒るととんでもなく怖いと身を持ってわかっていた。震えるエデルがぐっとエルーシアを抱きしめた。
「全然無事ではなかったのですね。すみません、僕のせいでエルシャ様を酷い目に遭わせてしまいました」
「違うわ、私が‥‥」
「色々と軽率でした。もっと気を配れるところもあったのに頭に血がのぼって」
「エデル‥違うの‥私のせいだから‥酷い目に遭わせてごめんなさい‥」
エルーシアの涙声にエデルがくしゃりと顔を歪める。そして座り込んで泣きはらすエルーシアの前に片膝をついて涙に濡れた手をとった。
「エルシャ様」
「エデル?」
「僕はもうここの家人ではありません。暇を出された人攫いです」
ヒトサライ?それは新しい仕事なのだろうか?意味がわからずエルーシアがきょとんと首を傾げればエデルが硬い表情から苦笑する。そして顔を伏せ息を吐いた。握るエルーシアの手をしばしじっと見て、再び顔をあげ真摯な目でエルーシアを見つめた。
「エルシャ様、どうか‥どうか僕と一緒に逃げてください。どうぞ僕の妻に。幸せにします」
言われた言葉の意味がわからずエルーシアは茫然とした。自分のせいで酷い目に遭わせてしまったのに、憎まれて嫌われて当然なのにエデルは‥‥
「え?怒ってないの?」
「なぜ怒るんですか?」
「だって私のせいで‥‥」
「違います。エルシャ様に出会えて僕は幸せになれたんです。いつかエルシャ様を外に出して差し上げたいと思っていました。今その夢を叶えてもよろしいでしょうか?」
見えるエデルの顔が、景色が再び歪む。雫がとめどなく流れ出した。もう会えないと思っていた人からの思いがけない告白に涙が止まらない。
トレンメル家の血を残す、義兄の子を産む、侯爵家令嬢として領民を守る。エルーシアを繋ぎ止める鎖が解ける。エルーシアは義兄の手から、檻から外に解き放たれた。
好き‥‥この人が大好き
「嬉しい‥ずっと一緒ね?どこへでも連れて行って」
「エルシャ様‥‥ありがとう‥必ず幸せに‥」
感極まったようにエデルが顔を伏せその体を抱き寄せた。エルーシアもその背中に手を這わす。
愛しいエデル、貴方がいれば何もいらない
ずっと一緒に‥あの鉄格子はもうないのだから
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