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パリの夜
しおりを挟むパリの夜は、思っていたよりも暗かった。
街灯はあるのに、光が地面まで届いていない気がした。
濡れた石畳が光を吸い込んで、歩くたびに自分の影が溶けていく。
地図アプリはもう閉じていた。
迷っているのか、探しているのか、自分でもわからないまま歩いていた。
観光地の匂いが消え、通りの音が低くなる。笑い声の輪郭が遠ざかり、代わりに生活の匂いが立ち上がってくる。
パンの焼ける匂い。
湿った壁。
どこかの部屋から流れるラジオ。
そのとき、目に入ったのが、小さな看板だった。
白いチョークで店の名前が書かれている。消えかけた文字の上から、何度も書き直された跡があった。
きれいとは言えない。
けれど、長く使われている重みがあった。
扉を開けると、音が変わった。
グラスが触れる音。
皿が置かれる音。
誰かの息遣い。
客は少なく、席は詰まっている。ひとりで来た自分の体が、場違いに軽く感じられた。
けれど、誰もこちらを見なかった。見ない、というより、見ないことに慣れている目だった。
席に案内される。
テーブルは小さく、肘を少し動かすと隣の客に触れてしまいそうだった。
メニューは黒板に書かれている。フランス語を追うのを諦め、指差しで頼んだ。
ワインを一杯。
最初の皿が運ばれてきたとき、胸の奥がひくりと動いた。
湯気の奥に、懐かしさのような匂いがあった。
口に運ぶと、思いがけず優しい味がした。輪郭があって、でも強くない。
誰かの体温に似ていた。
涙が出そうになる。
疲れているのだと思った。
飛行機と時差と、知らない言葉と、ここに来るまでに積み重ねてきた、言わなかった言葉のせいだ。
「……日本の方ですか」
声は低く、穏やかだった。
顔を上げると、エプロン姿の男が立っていた。年は少し上だろうか。
整っているというより、静かな顔だった。目が、こちらを急かさない。
「あ、はい」
それだけで、肩の奥に溜まっていた力が抜けた。
どうしてかわからない。
でも、久しぶりに息が吸えた気がした。
「日本人のお客さん、あまり来ないので」
そう言って、少しだけ笑う。
笑顔というより、表情が緩むという方が近い。
それ以上、言葉は続かなかった。
けれど、料理は続いた。
皿が変わるたび、心のどこかがほどけていく。
誰かのためでも、未来のためでもない時間。
ただ、今ここに座っているという事実だけが、静かに重さを持ちはじめる。
——こんなふうに、心がほどけるのは、久しぶりだった。
ふと、彼の指先を見る。
包丁を持つ人の指だと思った。傷がいくつかあって、それが不思議と安心させた。
その瞬間、なぜか脳裏に、指輪の箱が浮かんだ。
濃紺の小さな箱。
開く前に、一度だけ彼の手を見た。
その手は、優しかった。
「……あ」
思わず声が漏れる。
男が首を傾げる。
「どうしました?」
私は首を振った。
違う。これは、今じゃない。
——あの夜の続きは、まだ先だ。
私はグラスを持ち上げ、ワインを一口飲んだ。
少しだけ、喉が熱くなった。
その夜、私はまだ、何も選んでいなかった。
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