結婚する前に恋をした

村上いおり

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指輪の重さ

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その夜のことを、私は何度も思い出す。
思い出そうとしなくても、ふとした拍子に浮かんでくる。

電車の窓に映る自分の顔が、少しだけ疲れて見えたとき。
誰かの幸せそうな話を聞いたあと。
あるいは、何もない夜に、理由もなく胸がざわついたとき。

きっと誰にでも、そんな瞬間があるのだと思う。

その日は、特別な予定があるわけではなかった。
仕事帰りに待ち合わせをして、食事をするだけ。
ただそれだけの、よくある夜だった。

彼が選んだのは、落ち着いた雰囲気のイタリアンだった。
付き合い始めた頃にも来たことがある店で、名前を聞いたとき、胸の奥が少しだけ温かくなった。

「ここ、覚えてる?」

そう聞かれて、私は頷いた。
覚えている。
覚えているけれど、あの頃と今とでは、同じ記憶でも重さが違う気がした。

ワインを一杯。
前菜。
他愛ない会話。

仕事の話、友達の話、最近観た映画のこと。
どれも心地よくて、何も問題がない。

――何も問題がないことが、少しだけ怖かった。

こうして穏やかに過ごしていくことが、幸せなのだと頭ではわかっている。
それなのに、胸の奥で小さな違和感が息をしていた。

「このままでいいのかな」

誰にも言わなかった言葉が、心の中で揺れる。

メインが終わり、デザートを頼むかどうか迷っていたときだった。
彼がグラスに視線を落とし、それから私を見た。

ほんの一瞬の間。
でも、その沈黙が妙に長く感じられた。

「話があるんだけど」

その言葉を聞いた瞬間、体の奥が静かに固まった。
理由はわからないのに、わかってしまった。

店の音が遠のく。
笑い声も、カトラリーの音も、ガラス越しの世界みたいにぼやけていく。

彼は鞄から小さな箱を取り出した。
深い紺色で、上品で、きれいな箱。

開かれる前から、胸が締めつけられる。

「ずっと一緒にいたいと思ってる」

そう言って、彼は箱を開けた。
指輪が、柔らかな光を返した。

きれいだと思った。
本当に、きれいだと思った。

それなのに、心のどこかで別の声がした。

——これを受け取ったら、戻れない。

彼の目は真っ直ぐだった。
迷いも、不安も、そこにはなかった。

その誠実さが、なぜか胸に刺さった。

「……少し、考えてもいい?」

そう言った自分の声が、ひどく遠く感じた。

彼は一瞬驚いたあと、すぐに微笑んだ。

「もちろん。急がせるつもりはないよ」

その優しさに救われながら、同時に、ひどく申し訳なくなった。

帰り道、指先が冷たかった。
指輪ははめていないのに、そこに重さだけが残っているようだった。

あのとき、同じように立ち止まった人は、きっと他にもいる。
誰かを傷つけたくなくて、でも自分にも嘘をつけなくて。

その夜、私は眠れなかった。
天井を見つめながら、考えていた。

この人となら、穏やかな日々が続く。
大きな不幸はない。
安心できる未来が、すぐそこにある。

それなのに、胸の奥が息苦しい。

幸せになることが、こんなにも怖いなんて知らなかった。

スマートフォンを手に取り、何気なく航空券の検索画面を開く。
ただ、遠くへ行きたかった。
理由は、まだ言葉にならなかった。

画面に並ぶ都市名の中で、「Paris」という文字が目に留まる。

それだけだった。
でも、その瞬間、胸の奥がわずかに熱くなった。

日付を選び、時間を選び、決済画面へ進む。

確認画面で、ほんの一瞬だけ指が止まる。

——逃げているだけじゃない?

そう問いかけて、答えを待たずに進んだ。

決済完了の文字を見たとき、胸の奥が静かに震えた。
後悔なのか、安堵なのか、まだ名前がつけられなかった。

その夜、私は眠った。
夢は見なかった。

そして数日後、私はパリの夜に立っていた。

あの店の、あの席で。

あの人に出会う前の、最後の夜だったことを、まだ知らずに。
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