結婚する前に恋をした

村上いおり

文字の大きさ
4 / 5

名前のない夜

しおりを挟む
ホテルは、思っていたよりも静かだった。
古い建物を改装したらしく、廊下にはわずかに軋む音が残っている。
鍵を差し込むと、金属がこすれる低い音がして、扉がゆっくりと開いた。

部屋は狭い。
けれど、清潔で、必要なものはすべて揃っていた。
ベッドと、小さなデスクと、窓。
それだけで十分だと思った。

スーツケースを隅に置き、靴を脱ぐ。
コートを脱ぎ捨てた瞬間、体の力が抜けた。

そのまま、ベッドに倒れ込む。

柔らかすぎないマットレスが、体を受け止める。
天井を見つめながら、大きく息を吐いた。

——着いた。

それだけのことなのに、胸の奥がじんと熱くなる。

しばらく、何も考えずに天井を見ていた。
時計の音も聞こえない。
外の車の音が、遠くで波のように揺れている。

ようやく安心したはずなのに、心は少しずつ別の場所へ戻っていく。

指輪の箱。
あの夜の、彼の目。

考えないようにしていたのに、静かになると、思考は勝手に戻ってしまう。

——私は、逃げてきただけなんじゃない?

胸の奥が、きゅっと縮む。

ベッドに横になりながら、スマートフォンを手に取る。
メッセージは来ていない。
当然だ。何も言わずに来たのだから。

画面を伏せて、目を閉じる。

……お腹が、鳴った。

思わず苦笑する。
こんなときでも、人は腹が減る。

それが、少しだけ救いだった。

生きている感じがした。

喉も渇いている。
ワインが飲みたい。
できれば、知らない場所で。

私は起き上がり、もう一度コートを羽織った。
鏡に映った自分は、少し疲れていて、少しだけ強そうだった。

鍵を手に取り、部屋を出る。

廊下を歩くと、遠くから誰かの笑い声が聞こえる。
ホテルの外に出た瞬間、夜の空気が肌に触れた。

昼間よりも、街が近い。

ネオンの光が、石畳に滲んでいる。
昼とは違う顔をしたパリが、そこにあった。

どこに行くあてもなく、歩き出す。
観光地らしい賑やかな通りを避け、細い道へ。

足音が響く。
自分の存在が、街に溶けていく感じがした。

「お腹、すいたな」

独り言が、空気に溶ける。

ふと、路地の角から、バターと焼いた肉の匂いが流れてきた。
足が、勝手にそちらへ向かう。

小さな店だった。
派手な看板もない。
窓越しに見えるのは、カウンターと数席のテーブルだけ。

中から、グラスが触れ合う音がする。
静かで、あたたかい。

立ち止まったまま、少し迷う。
ひとりで入るのは、少しだけ勇気がいる。

でも、その匂いが背中を押した。

——大丈夫。

誰も、私のことなんて知らない。

そう思って、ドアノブに手をかける。

その瞬間、店内から漏れた笑い声と、食器の音が混じり合って、胸の奥にすっと入ってきた。

ここだ。

理由はない。
でも、そう思った。

私はドアを押した。

小さな鈴が鳴る。

そして、そこから——
私の夜は、静かに別の色に変わっていった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】あなたに知られたくなかった

ここ
ファンタジー
セレナの幸せな生活はあっという間に消え去った。新しい継母と異母妹によって。 5歳まで令嬢として生きてきたセレナは6歳の今は、小さな手足で必死に下女見習いをしている。もう自分が令嬢だということは忘れていた。 そんなセレナに起きた奇跡とは?

【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く

ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。 5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。 夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…

愛していました。待っていました。でもさようなら。

彩柚月
ファンタジー
魔の森を挟んだ先の大きい街に出稼ぎに行った夫。待てども待てども帰らない夫を探しに妻は魔の森に脚を踏み入れた。 やっと辿り着いた先で見たあなたは、幸せそうでした。

(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」

音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。 本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。 しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。 *6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。

無能なので辞めさせていただきます!

サカキ カリイ
ファンタジー
ブラック商業ギルドにて、休みなく働き詰めだった自分。 マウントとる新人が入って来て、馬鹿にされだした。 えっ上司まで新人に同調してこちらに辞めろだって? 残業は無能の証拠、職務に時間が長くかかる分、 無駄に残業代払わせてるからお前を辞めさせたいって? はいはいわかりました。 辞めますよ。 退職後、困ったんですかね?さあ、知りませんねえ。 自分無能なんで、なんにもわかりませんから。 カクヨム、なろうにも同内容のものを時差投稿しております。

お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます

菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。 嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。 「居なくていいなら、出ていこう」 この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし

【完結】英雄様、婚約破棄なさるなら我々もこれにて失礼いたします。

ファンタジー
「婚約者であるニーナと誓いの破棄を望みます。あの女は何もせずのうのうと暮らしていた役立たずだ」 実力主義者のホリックは魔王討伐戦を終結させた褒美として国王に直談判する。どうやら戦争中も優雅に暮らしていたニーナを嫌っており、しかも戦地で出会った聖女との結婚を望んでいた。英雄となった自分に酔いしれる彼の元に、それまで苦楽を共にした仲間たちが寄ってきて…… 「「「ならば我々も失礼させてもらいましょう」」」 信頼していた部下たちは唐突にホリックの元を去っていった。 微ざまぁあり。

父が再婚しました

Ruhuna
ファンタジー
母が亡くなって1ヶ月後に 父が再婚しました

処理中です...