結婚する前に恋をした

村上いおり

文字の大きさ
5 / 5

小さな灯りの向こう

しおりを挟む
ドアを開けた瞬間、外の冷たい空気が背中で途切れた。
代わりに、あたたかい匂いが鼻先を包む。

バターが溶ける音。
火にかけた鍋の、わずかな湿り気。
焼き色のついた肉の香ばしさと、ハーブの青さ。

それだけで、胸の奥がふっと緩んだ。

店は想像していたよりも小さかった。
テーブルは四つほど。
カウンターがあり、その向こうがすぐ厨房になっている。

照明は低く、壁の色は深いベージュ。
派手さはないけれど、丁寧に手入れされているのがわかる。
誰かが「ここが好きでやっている」場所だった。

「Bonsoir」

低い声がして、カウンターの奥から顔が見えた。
黒いシャツにエプロン。
少し無造作な髪。
年齢は、三十代半ばくらいだろうか。

フランス語で返事をしようとして、言葉が詰まる。
一瞬の間のあと、彼が微かに笑った。

「日本の方ですか」

その一言で、肩の力が抜けた。

「はい」

自分の声が、思ったよりも柔らかかった。

「よかった。フランス語、あまり得意じゃなくて」

そう言いながら、彼は少し照れたように笑う。
その表情が、料理人の顔というより、普通の人のそれで、妙に安心した。

カウンターの席を勧められて、腰を下ろす。
木の感触が、まだ少し温かい。

「今日は…一人ですか?」

「はい」

そう答えると、彼はうなずいた。

「じゃあ、軽めにいきましょうか。お腹、空いてます?」

「すごく」

思わず即答してしまって、少し恥ずかしくなる。

彼はくすっと笑って、キッチンの奥へ戻った。

包丁の音が、一定のリズムで響きはじめる。
その音を聞いているだけで、気持ちが落ち着いていく。

カウンター越しに、料理の工程が少し見える。
無駄のない動き。
焦りのない手つき。

「旅ですか?」

不意に、彼が声をかけてくる。

「ええ。今日着いたばかりで」

「そうなんですね。じゃあ、疲れてますね」

その言い方が、慰めでも同情でもなくて、ただ事実を受け止めている感じがした。

「でも、いい顔してます」

思わず、彼を見る。

「え?」

「なんていうか……今の顔」

言葉を探すように、少し間を置いてから、

「やっと呼吸してる人の顔です」

胸の奥で、何かが小さく鳴った。

そうかもしれない、と思った。
自分でも気づかないうちに、息を止めていたのかもしれない。

ほどなくして、皿が差し出された。

湯気の向こうに、柔らかな色の料理がある。
一口食べた瞬間、思わず声が出た。

「……美味しい」

自分でも驚くほど、素直な声だった。

彼は少し照れたように目を伏せる。

「よかった」

その一言が、あまりにも自然で。
評価されたいとか、褒められたいとか、そういう気配がなかった。

ただ、誰かに食べてもらうことを、大事にしている人の顔だった。

その瞬間、胸の奥で何かがほどけた。

知らない街。
知らない人。
それなのに、どうしてこんなに安心するんだろう。

ワインを一口飲む。
温度が、ゆっくりと体に染みていく。

「……ここ、いいですね」

ぽつりと漏れた言葉に、彼は小さく頷いた。

「そう言ってもらえると、嬉しいです」

それだけの会話なのに、十分だった。

店の外では、誰かの笑い声が遠ざかっていく。
時間が、ゆっくり流れている。

この夜が、どこへ向かうのかは、まだわからない。
でも、今はただ——

ここにいたい、と思った。

それだけで、十分だった。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

【完結】あなたに知られたくなかった

ここ
ファンタジー
セレナの幸せな生活はあっという間に消え去った。新しい継母と異母妹によって。 5歳まで令嬢として生きてきたセレナは6歳の今は、小さな手足で必死に下女見習いをしている。もう自分が令嬢だということは忘れていた。 そんなセレナに起きた奇跡とは?

【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く

ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。 5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。 夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…

愛していました。待っていました。でもさようなら。

彩柚月
ファンタジー
魔の森を挟んだ先の大きい街に出稼ぎに行った夫。待てども待てども帰らない夫を探しに妻は魔の森に脚を踏み入れた。 やっと辿り着いた先で見たあなたは、幸せそうでした。

(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」

音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。 本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。 しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。 *6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。

無能なので辞めさせていただきます!

サカキ カリイ
ファンタジー
ブラック商業ギルドにて、休みなく働き詰めだった自分。 マウントとる新人が入って来て、馬鹿にされだした。 えっ上司まで新人に同調してこちらに辞めろだって? 残業は無能の証拠、職務に時間が長くかかる分、 無駄に残業代払わせてるからお前を辞めさせたいって? はいはいわかりました。 辞めますよ。 退職後、困ったんですかね?さあ、知りませんねえ。 自分無能なんで、なんにもわかりませんから。 カクヨム、なろうにも同内容のものを時差投稿しております。

お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます

菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。 嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。 「居なくていいなら、出ていこう」 この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし

【完結】英雄様、婚約破棄なさるなら我々もこれにて失礼いたします。

ファンタジー
「婚約者であるニーナと誓いの破棄を望みます。あの女は何もせずのうのうと暮らしていた役立たずだ」 実力主義者のホリックは魔王討伐戦を終結させた褒美として国王に直談判する。どうやら戦争中も優雅に暮らしていたニーナを嫌っており、しかも戦地で出会った聖女との結婚を望んでいた。英雄となった自分に酔いしれる彼の元に、それまで苦楽を共にした仲間たちが寄ってきて…… 「「「ならば我々も失礼させてもらいましょう」」」 信頼していた部下たちは唐突にホリックの元を去っていった。 微ざまぁあり。

父が再婚しました

Ruhuna
ファンタジー
母が亡くなって1ヶ月後に 父が再婚しました

処理中です...