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第四章『朝敵篇』
第七十六話『家族』 序
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書紀の難波長柄朝廷御巻に「惟神者謂隨神道亦自有神道也」とあるをよく思ふべし。神道に隨ふとは、天下治め賜ふ御しわざは、たゞ神代より有こしまにまに物し賜ひて、いさゝかもさかしらを加へ給ふことなくをいふ。さてしか神代のまにまに、大らかに所知看せば、おのづから神の道はたらひて、他にもとむべきことなきを、自有神道とはいふなりけり。かれ現御神と大八洲國しろしめすと申すも、其御世々々の天皇の御政、やがて神の御政なる意なり。萬葉集の哥などに、神隨云云とあるも、同じこころぞ。神國と韓人の申せりしも、諾にぞ有ける。
古の大御世には、道といふ言擧もさらになかりき。故古語に、あしはらの水穂の國は、神ながら言擧せぬ國といへり。其はたゞ物にゆく道こそ有けれ、美知とは、此記に味御路と書る如く、山路野路などの路に、御てふ言を添たるにて、たゞ物にゆく路ぞ。これにおきては、上代に、道といふものはなかりしぞかし。物のことわりあるべきすべ、萬の敎へごとをしも、何の道くれの道といふことは、異國のさだなり。
『古事記傳・直毘靈』
===============================================
八月三一日月曜日の朝、根尾弓矢はこれまでに無い強い不安に駆られていた。
議員会館の皇奏手事務所に呼び出された理由は察しが付いていたが、予想だにしない緊急事態に見舞われたからだ。
強い胃痛を堪えつつ、廊下を歩く。
毎度のことながら、この日を迎えたこの場所には天国と地獄の空気が併存している。
(まさか、こんなことになるとは……)
根尾は何人もの議員が事務所で荷物を纏めている地獄絵図を横目に、皇の事務所へと向かう。
議員会館に事務所を構えられるのは国会議員だけであり、落選して唯の人になってしまえば退去しなければならない。
つまり、通り過ぎているのは此度の衆議院総選挙で当選出来ず、国会に帰って来られなかった者達なのだ。
(惨敗じゃないか、糞……!)
与党にとって厳しい戦いになることは予想が付いていた。
通常は国家規模の危機に見舞われた時、政権の支持率は上がるものだ。
実際、開戦当初の真柴政権の支持率は大幅に上昇した。
だが、戦争事態となれば話が別だ。
何故ならば、それは八十年もの間絶対的に避けなければならないとされてきた禁忌だったからだ。
今、世論上の政権評価は「戦争という最悪の事態を招いてしまった」という酷評に傾けられてしまっている。
新聞・テレビ・ネット、そしてSNS上の批判、バッシングの蜿りは加速するばかりで、政府が危機への団結と冷静な対処を求めても焼け石に水の状態だった。
「皇先生!」
根尾は皇奏手防衛大臣兼国家公安委員長の事務所の扉を勢い良く開いた。
部屋の中では数人の男が齷齪動く中、皇が自席に座って根尾の方へと眼を向けた。
「早かったわね、根尾」
「先生……」
その光景を見て、根尾はがっくりと肩を落とした。
「しくじった、としか言いようが無いわ。まさかこの私が荷物を纏める破目になるとはね……」
「信じられません、貴女が落選させられるなんて……。国民は何を考えているのやら……」
「お止しなさい、根尾。貴方が政界を目指すなら、その言葉だけは決して言ってはならないのよ」
「しかし……」
皇は草臥れきった表情で溜息を吐いた。
根尾は今の彼女の姿に胸を締め付けられる思いだった。
以前の生気がすっかり失われ、一回りも二回りも小さく見えるようになってしまったのは、戦時下の防衛大臣としての激務の影響なのか、落選して意気消沈してしまったのか……。
どちらにせよ、傷ましいものだ。
「根尾、政治家は何かの間違いで支持を集めることはあっても、逆は無いの。政治家を支持する世論は間違いであるかも知れないけれど、支持しない世論は常に正しい。間違いは私の活動の中にこそある。これは自業自得なのよ」
「そうでしょうか? 随分と無理筋のバッシングを受けた気がしますが……」
「仕方が無いでしょう。国民が平和を望むのは当然。白地に戦争の準備をしては不安になるし、実際に戦争が起きればパニックになる。おまけに、私は戦時下で随分と再現してしまったからね。大本営発表というものを……。民心も離れるというものだわ」
皇自身の言葉が彼女の落選、そして与党惨敗の総評として正確なところだろう。
真柴政権は元々選挙結果が芳しくなく、世論の支持も不安定で権力基盤が脆かった。
にも拘わらず、迫る皇國の脅威に備えて軍拡と法整備を強引に進めてきた。
それは時に、国民の声に耳を傾けない傲慢さとして受け取られた。
更に、そんな政権の姿勢は反対勢力にとって絶好のストーリーを与えた。
軍拡で戦争を呼び込もうとする軍国主義政権、非常事態に託けて強権を振るおうとする全体主義政権、極めつけに政府に都合良く現実の戦局を捻じ曲げる戦前回帰政権……。
「真柴総理は激怒していたわ……。私こそが選挙敗北の戦犯だってね……」
「そんな……」
根尾は歯噛みした。
開戦してこの一月、皇がどれ程身を粉にして皇國の圧倒的軍事力から日本国を守ってきたか、それを思うと無念でならなかった。
が、そんな根尾を前にして当の皇は不敵な笑みを見せる。
「尤も、それはそれとして私がやるべき事は何も変わらない。真柴政権の使命もね。総理もそれは重々承知の上、私への怒りはそれとして、今後の方向性を話し合えないではなかったわ」
「今後?」
「ええ。ああ、皆、少し手を止めて席を外して頂戴。根尾と少し、二人切りで話がしたいの」
皇の言葉に従い、荷物を纏めていた秘書達が溜息を吐いて事務所を出て行った。
彼らもまた、皇の落選と共に議員秘書の立場を失うことになったのだ。
屹度、胸中は穏やかでないだろう。
それでもなお、雇い主の皇に素直に従うのは偏に彼女が忠誠心を集めている証なのかも知れない。
(みんな……)
根尾は嘗ての同僚達の視線に気が付いた。
特別眼を掛けられていた彼に思う処があるのだろう。
秘書達が全員出て行くと、皇はそんなお気に入りの根尾に対して静かに語り始めた。
「根尾、能く聴きなさい。衆議院選挙に惨敗し与党過半数を大幅に下回っても、それは直ちに内閣総辞職を意味する訳ではない。手順としては衆議院選挙後に初めて召集された国会に於いて、内閣は総辞職する。憲法上、衆議院解散による総選挙の場合、三十日以内に特別会を召集しなければならない。つまり、今日を含めた三十日、九月二九日までは真柴政権を存続させることが可能なのよ」
「それは……確かにそうですね……」
「真柴総理はその間にこの戦争を停戦に持ち込み、講和に道筋を作りたいと考えている。彼の怒りを買った私も、そこは利害が一致していた。だから特別会召集をギリギリまで引っ張り、それまでは現状のまま内閣を存続させるという交渉が出来た」
皇の体に後光が差し、表情に影が落ちる。
「つまり、九月二九日までは依然として私が防衛大臣と国家公安委員長を兼任し、貴方達特別警察特殊防衛課の上に立つことになる。その期間で、貴方達には残務を処理して貰いたい」
「残務……」
今の根尾の立場は皇奏手の議員秘書ではない。
防衛大臣の下で神為に関する有事に対処する「特別警察特殊防衛課」の課長である。
しかしそれも長くはないだろう。
野党は特別警察特殊防衛課の強権を批判し、廃止を宣言しているのだ。
「政権が野党に移った場合、特別警察特殊防衛課は真先に廃止されることになるわ。そして、真柴総理が失脚した後の我が党もこれを積極的に存続させはしないでしょう。従って、特別国会召集直前の九月二八日に最後の契約更新を済ませ、十月二八日までに全てを片付けなければならない。解るわね?」
「はい」
皇の言う「特別警察特殊防衛課」の残務は解っている。
つい先日、部下の立場に置かれている者達にも伝達したとおりだ。
「二箇月以内に、我が国へ逃亡してきた『武装戦隊・狼ノ牙』を全て片付けます」
「宜しい。それともう一つ……」
皇は卓上に一枚の写真を差し出した。
根尾は瞠目し、写真に焦点を釘付けられる。
「それは……!」
「勿論、貴方は知っているわね。これを真先に仁志旗から受け取ったのは根尾、貴方だものね」
「はい……」
それは彼らが武装戦隊・狼ノ牙に送り込んでいた諜報員・仁志旗蓮が死に際に根尾へ送信してきた意味深な写真だった。
武装戦隊・狼ノ牙の、謎に満ちた首領補佐・八社女征一千と、皇國の元首相二人の下で暗躍した、皇道保守黨青年部長・推城朔馬、そして詳細の判らない旧日本軍服の老翁と、ゴシックロリータ服の長身美女、以上四人が密会している写真――それは皇國の一大スキャンダルを飛び越え、もっと恐ろしい陰謀の存在を感じさせるものだった。
「仁志旗が命懸けでこの情報を託したということは、この密会には日本国の存亡に関わる重大な意味があると見て間違い無いわ。貴方もそう思ったから、これを私にも報せたわけでしょう」
「仰るとおりです。つまり、もう一つの残務というのは……」
「そう。彼らの調査よ」
根尾は眉間に皺を寄せ、写真を手に取った。
この情報を得てからというもの、根尾は二度に亘って命を狙われている。
一度目は神幹線の中で皇國政治家の大河當熙に、そして二度目は立体駐車場で六摂家当主や八社女征一千に。
その際、八社女は信じ難い捨て台詞を吐いた。
「本来、貴方達が皇國から日本国に戻った段階で調査の継続は不可能となる筈だった。しかし、貴方が伝えてきた八社女の発言が私にはどうにも気になる。その男が奈良時代に和氣廣虫が引き取ったという孤児の一人であると……。俄かには信じ難い話だけれど、皇國が存在する今となってはどんな荒唐無稽な話も頭ごなしに否定出来ないわ」
「自分も同感です」
「それに、もし八社女が本当に千二百年前の和氣廣虫の関係者で、今まで密かに生き続けたのだとすれば、おそらくその正体の手掛かりは日本国にこそある」
「それを調べろと、そういうことですか……」
根尾は写真を仕舞い込んだ。
そして決意に満ちた眼を皇に向ける。
「願ってもいないことです。仁志旗の為、是非やらせてください」
「良い答えね、頼んだわよ」
踵を返して事務所を後にしようとする根尾を、皇は最後に呼び止める。
「根尾、後のことは心配しなくて良い。私に近い議員達に秘書の処遇の話は付けてあるから、各自引き続き政治を学びなさい。そして、私もまたこのままでは終わらない。今度は議員として、帰ってきた私の力になるのよ」
「承知しました」
根尾は振り向いて一礼すると、今度こそ事務所を後にした。
帰り道の廊下はやはり重い空気に満ちている。
落選した議員のうち何人かは政界から身を引き、何人かは再起を誓っているだろう。
皇もまた、後者の一人である。
(しかし……)
根尾は皇の姿から察していた。
彼女から大物政治家のオーラが見る影も無く消えている。
落選して唯の人になったというだけの理由ではないだろう。
おそらくもう、皇奏手は二度と今の地位に返り咲くことなど出来ない。
(大臣として、皇國との戦争で先頭に立って停戦へと導いた。国力差を考えればこれは奇跡的な快挙の筈だ。だが、国民はそれを先生の成果だと思わなかった。だから、落選という結果を突き付けた。つまり、先生は国民に嫌われてしまった……)
議員会館を出た根尾に午前の日差しが照り付ける。
相変わらずの灼熱だが、心做しか何処か遠慮がちな蒸し暑さだった。
夏の終わり、政権の終わり、夢の終わり……。
根尾は自分の自動車の扉を開きつつ、議員会館を仰ぎ見る。
「先生、自分はそれでも貴女を、皇奏手という政治家を尊敬していますよ。屹度これからも変わらず、心から……」
根尾はそう小さく呟くと、運転席に乗り込んで扉を閉めた。
⦿⦿⦿
根尾の去った事務所で、皇は一人自席に腰掛けて佇んでいた。
(これからどうしようかしら……)
深い溜息、それはここ三箇月の疲労を吐き出すかの様に……。
いつもなら優雅に珈琲でも飲むところ、煎れてくれていた伴藤明美には既に暇を出している。
根尾や伴藤は勿論、秘書達の今後は世話になった先輩政治家に託してある。
だがそれは、彼女が独りぼっちになってしまったことを意味していた。
(魅弦さん……)
皇は懐からロケットペンダントを取り出して開いた。
中の写真では亡き夫・麗真魅弦が笑っている。
隅にはもう一人、幼い美少女が無表情で佇む。
これは家族の写真だ。
(今更帰る訳にも行かないわよね。まあ、事務所は此処だけじゃないし……)
そんなことを考えていると、皇は不意に強烈な眠気を覚えた。
そういえばここのところ碌に眠っていない。
(少し……眠ろうか。一通り片付いたら一旦地元の事務所に戻って、そこで久々に睡眠を取った方が良いわね……)
皇は睡魔に抗えず、そのまま机に突っ伏した。
口から生臭い液体が零れる感触も、彼女の眠りを妨げられなかった。
少しの時の後、片付けの再開に戻ってきた秘書も彼女を起こせないだろう。
そして口元から机に繋がる赤黒い筋に、驚愕の悲鳴を上げるのだ。
古の大御世には、道といふ言擧もさらになかりき。故古語に、あしはらの水穂の國は、神ながら言擧せぬ國といへり。其はたゞ物にゆく道こそ有けれ、美知とは、此記に味御路と書る如く、山路野路などの路に、御てふ言を添たるにて、たゞ物にゆく路ぞ。これにおきては、上代に、道といふものはなかりしぞかし。物のことわりあるべきすべ、萬の敎へごとをしも、何の道くれの道といふことは、異國のさだなり。
『古事記傳・直毘靈』
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八月三一日月曜日の朝、根尾弓矢はこれまでに無い強い不安に駆られていた。
議員会館の皇奏手事務所に呼び出された理由は察しが付いていたが、予想だにしない緊急事態に見舞われたからだ。
強い胃痛を堪えつつ、廊下を歩く。
毎度のことながら、この日を迎えたこの場所には天国と地獄の空気が併存している。
(まさか、こんなことになるとは……)
根尾は何人もの議員が事務所で荷物を纏めている地獄絵図を横目に、皇の事務所へと向かう。
議員会館に事務所を構えられるのは国会議員だけであり、落選して唯の人になってしまえば退去しなければならない。
つまり、通り過ぎているのは此度の衆議院総選挙で当選出来ず、国会に帰って来られなかった者達なのだ。
(惨敗じゃないか、糞……!)
与党にとって厳しい戦いになることは予想が付いていた。
通常は国家規模の危機に見舞われた時、政権の支持率は上がるものだ。
実際、開戦当初の真柴政権の支持率は大幅に上昇した。
だが、戦争事態となれば話が別だ。
何故ならば、それは八十年もの間絶対的に避けなければならないとされてきた禁忌だったからだ。
今、世論上の政権評価は「戦争という最悪の事態を招いてしまった」という酷評に傾けられてしまっている。
新聞・テレビ・ネット、そしてSNS上の批判、バッシングの蜿りは加速するばかりで、政府が危機への団結と冷静な対処を求めても焼け石に水の状態だった。
「皇先生!」
根尾は皇奏手防衛大臣兼国家公安委員長の事務所の扉を勢い良く開いた。
部屋の中では数人の男が齷齪動く中、皇が自席に座って根尾の方へと眼を向けた。
「早かったわね、根尾」
「先生……」
その光景を見て、根尾はがっくりと肩を落とした。
「しくじった、としか言いようが無いわ。まさかこの私が荷物を纏める破目になるとはね……」
「信じられません、貴女が落選させられるなんて……。国民は何を考えているのやら……」
「お止しなさい、根尾。貴方が政界を目指すなら、その言葉だけは決して言ってはならないのよ」
「しかし……」
皇は草臥れきった表情で溜息を吐いた。
根尾は今の彼女の姿に胸を締め付けられる思いだった。
以前の生気がすっかり失われ、一回りも二回りも小さく見えるようになってしまったのは、戦時下の防衛大臣としての激務の影響なのか、落選して意気消沈してしまったのか……。
どちらにせよ、傷ましいものだ。
「根尾、政治家は何かの間違いで支持を集めることはあっても、逆は無いの。政治家を支持する世論は間違いであるかも知れないけれど、支持しない世論は常に正しい。間違いは私の活動の中にこそある。これは自業自得なのよ」
「そうでしょうか? 随分と無理筋のバッシングを受けた気がしますが……」
「仕方が無いでしょう。国民が平和を望むのは当然。白地に戦争の準備をしては不安になるし、実際に戦争が起きればパニックになる。おまけに、私は戦時下で随分と再現してしまったからね。大本営発表というものを……。民心も離れるというものだわ」
皇自身の言葉が彼女の落選、そして与党惨敗の総評として正確なところだろう。
真柴政権は元々選挙結果が芳しくなく、世論の支持も不安定で権力基盤が脆かった。
にも拘わらず、迫る皇國の脅威に備えて軍拡と法整備を強引に進めてきた。
それは時に、国民の声に耳を傾けない傲慢さとして受け取られた。
更に、そんな政権の姿勢は反対勢力にとって絶好のストーリーを与えた。
軍拡で戦争を呼び込もうとする軍国主義政権、非常事態に託けて強権を振るおうとする全体主義政権、極めつけに政府に都合良く現実の戦局を捻じ曲げる戦前回帰政権……。
「真柴総理は激怒していたわ……。私こそが選挙敗北の戦犯だってね……」
「そんな……」
根尾は歯噛みした。
開戦してこの一月、皇がどれ程身を粉にして皇國の圧倒的軍事力から日本国を守ってきたか、それを思うと無念でならなかった。
が、そんな根尾を前にして当の皇は不敵な笑みを見せる。
「尤も、それはそれとして私がやるべき事は何も変わらない。真柴政権の使命もね。総理もそれは重々承知の上、私への怒りはそれとして、今後の方向性を話し合えないではなかったわ」
「今後?」
「ええ。ああ、皆、少し手を止めて席を外して頂戴。根尾と少し、二人切りで話がしたいの」
皇の言葉に従い、荷物を纏めていた秘書達が溜息を吐いて事務所を出て行った。
彼らもまた、皇の落選と共に議員秘書の立場を失うことになったのだ。
屹度、胸中は穏やかでないだろう。
それでもなお、雇い主の皇に素直に従うのは偏に彼女が忠誠心を集めている証なのかも知れない。
(みんな……)
根尾は嘗ての同僚達の視線に気が付いた。
特別眼を掛けられていた彼に思う処があるのだろう。
秘書達が全員出て行くと、皇はそんなお気に入りの根尾に対して静かに語り始めた。
「根尾、能く聴きなさい。衆議院選挙に惨敗し与党過半数を大幅に下回っても、それは直ちに内閣総辞職を意味する訳ではない。手順としては衆議院選挙後に初めて召集された国会に於いて、内閣は総辞職する。憲法上、衆議院解散による総選挙の場合、三十日以内に特別会を召集しなければならない。つまり、今日を含めた三十日、九月二九日までは真柴政権を存続させることが可能なのよ」
「それは……確かにそうですね……」
「真柴総理はその間にこの戦争を停戦に持ち込み、講和に道筋を作りたいと考えている。彼の怒りを買った私も、そこは利害が一致していた。だから特別会召集をギリギリまで引っ張り、それまでは現状のまま内閣を存続させるという交渉が出来た」
皇の体に後光が差し、表情に影が落ちる。
「つまり、九月二九日までは依然として私が防衛大臣と国家公安委員長を兼任し、貴方達特別警察特殊防衛課の上に立つことになる。その期間で、貴方達には残務を処理して貰いたい」
「残務……」
今の根尾の立場は皇奏手の議員秘書ではない。
防衛大臣の下で神為に関する有事に対処する「特別警察特殊防衛課」の課長である。
しかしそれも長くはないだろう。
野党は特別警察特殊防衛課の強権を批判し、廃止を宣言しているのだ。
「政権が野党に移った場合、特別警察特殊防衛課は真先に廃止されることになるわ。そして、真柴総理が失脚した後の我が党もこれを積極的に存続させはしないでしょう。従って、特別国会召集直前の九月二八日に最後の契約更新を済ませ、十月二八日までに全てを片付けなければならない。解るわね?」
「はい」
皇の言う「特別警察特殊防衛課」の残務は解っている。
つい先日、部下の立場に置かれている者達にも伝達したとおりだ。
「二箇月以内に、我が国へ逃亡してきた『武装戦隊・狼ノ牙』を全て片付けます」
「宜しい。それともう一つ……」
皇は卓上に一枚の写真を差し出した。
根尾は瞠目し、写真に焦点を釘付けられる。
「それは……!」
「勿論、貴方は知っているわね。これを真先に仁志旗から受け取ったのは根尾、貴方だものね」
「はい……」
それは彼らが武装戦隊・狼ノ牙に送り込んでいた諜報員・仁志旗蓮が死に際に根尾へ送信してきた意味深な写真だった。
武装戦隊・狼ノ牙の、謎に満ちた首領補佐・八社女征一千と、皇國の元首相二人の下で暗躍した、皇道保守黨青年部長・推城朔馬、そして詳細の判らない旧日本軍服の老翁と、ゴシックロリータ服の長身美女、以上四人が密会している写真――それは皇國の一大スキャンダルを飛び越え、もっと恐ろしい陰謀の存在を感じさせるものだった。
「仁志旗が命懸けでこの情報を託したということは、この密会には日本国の存亡に関わる重大な意味があると見て間違い無いわ。貴方もそう思ったから、これを私にも報せたわけでしょう」
「仰るとおりです。つまり、もう一つの残務というのは……」
「そう。彼らの調査よ」
根尾は眉間に皺を寄せ、写真を手に取った。
この情報を得てからというもの、根尾は二度に亘って命を狙われている。
一度目は神幹線の中で皇國政治家の大河當熙に、そして二度目は立体駐車場で六摂家当主や八社女征一千に。
その際、八社女は信じ難い捨て台詞を吐いた。
「本来、貴方達が皇國から日本国に戻った段階で調査の継続は不可能となる筈だった。しかし、貴方が伝えてきた八社女の発言が私にはどうにも気になる。その男が奈良時代に和氣廣虫が引き取ったという孤児の一人であると……。俄かには信じ難い話だけれど、皇國が存在する今となってはどんな荒唐無稽な話も頭ごなしに否定出来ないわ」
「自分も同感です」
「それに、もし八社女が本当に千二百年前の和氣廣虫の関係者で、今まで密かに生き続けたのだとすれば、おそらくその正体の手掛かりは日本国にこそある」
「それを調べろと、そういうことですか……」
根尾は写真を仕舞い込んだ。
そして決意に満ちた眼を皇に向ける。
「願ってもいないことです。仁志旗の為、是非やらせてください」
「良い答えね、頼んだわよ」
踵を返して事務所を後にしようとする根尾を、皇は最後に呼び止める。
「根尾、後のことは心配しなくて良い。私に近い議員達に秘書の処遇の話は付けてあるから、各自引き続き政治を学びなさい。そして、私もまたこのままでは終わらない。今度は議員として、帰ってきた私の力になるのよ」
「承知しました」
根尾は振り向いて一礼すると、今度こそ事務所を後にした。
帰り道の廊下はやはり重い空気に満ちている。
落選した議員のうち何人かは政界から身を引き、何人かは再起を誓っているだろう。
皇もまた、後者の一人である。
(しかし……)
根尾は皇の姿から察していた。
彼女から大物政治家のオーラが見る影も無く消えている。
落選して唯の人になったというだけの理由ではないだろう。
おそらくもう、皇奏手は二度と今の地位に返り咲くことなど出来ない。
(大臣として、皇國との戦争で先頭に立って停戦へと導いた。国力差を考えればこれは奇跡的な快挙の筈だ。だが、国民はそれを先生の成果だと思わなかった。だから、落選という結果を突き付けた。つまり、先生は国民に嫌われてしまった……)
議員会館を出た根尾に午前の日差しが照り付ける。
相変わらずの灼熱だが、心做しか何処か遠慮がちな蒸し暑さだった。
夏の終わり、政権の終わり、夢の終わり……。
根尾は自分の自動車の扉を開きつつ、議員会館を仰ぎ見る。
「先生、自分はそれでも貴女を、皇奏手という政治家を尊敬していますよ。屹度これからも変わらず、心から……」
根尾はそう小さく呟くと、運転席に乗り込んで扉を閉めた。
⦿⦿⦿
根尾の去った事務所で、皇は一人自席に腰掛けて佇んでいた。
(これからどうしようかしら……)
深い溜息、それはここ三箇月の疲労を吐き出すかの様に……。
いつもなら優雅に珈琲でも飲むところ、煎れてくれていた伴藤明美には既に暇を出している。
根尾や伴藤は勿論、秘書達の今後は世話になった先輩政治家に託してある。
だがそれは、彼女が独りぼっちになってしまったことを意味していた。
(魅弦さん……)
皇は懐からロケットペンダントを取り出して開いた。
中の写真では亡き夫・麗真魅弦が笑っている。
隅にはもう一人、幼い美少女が無表情で佇む。
これは家族の写真だ。
(今更帰る訳にも行かないわよね。まあ、事務所は此処だけじゃないし……)
そんなことを考えていると、皇は不意に強烈な眠気を覚えた。
そういえばここのところ碌に眠っていない。
(少し……眠ろうか。一通り片付いたら一旦地元の事務所に戻って、そこで久々に睡眠を取った方が良いわね……)
皇は睡魔に抗えず、そのまま机に突っ伏した。
口から生臭い液体が零れる感触も、彼女の眠りを妨げられなかった。
少しの時の後、片付けの再開に戻ってきた秘書も彼女を起こせないだろう。
そして口元から机に繋がる赤黒い筋に、驚愕の悲鳴を上げるのだ。
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シントが唯一使えたのは〝創造魔法〟といういままでまともに使えた試しのないもの。
それでも森の中でこのまま死ぬよりはまだいいだろうと考え魔法をかける。
すると新木は一気に生長し、天をつくほどの巨木にまで変化しそこから新木に宿っていたという聖霊まで姿を現した。
〝この地はあなたが創造した聖地。あなたがこの地を去らない限りこの地を必要とするもの以外は誰も踏み入れませんよ〟
そんな言葉から始まるシントののんびりとした生活。
同じように行き場を失った少女や幻獣や精霊、妖精たちなど様々な面々が集まり織りなすスローライフの幕開けです。
※この小説はカクヨム様でも連載しています。アルファポリス様とカクヨム様以外の場所では公開しておりません。
最低のEランクと追放されたけど、実はEXランクの無限増殖で最強でした。
みこみこP
ファンタジー
高校2年の夏。
高木華音【男】は夏休みに入る前日のホームルーム中にクラスメイトと共に異世界にある帝国【ゼロムス】に魔王討伐の為に集団転移させれた。
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しかし、華音の授かった固有スキルはEXランクの無限増殖という最強のスキルだったが、本人は弱いと思い込み、死の森を生き抜く為に無双する。
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