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序章
第三話『事態急変』 急
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海浜公園へ辿り着いた航は、タクシーの料金を払って下車した。
特に調べていなかったが、幸いにして二十四時間開いている。
「ありがとうございます。帰りは始発に乗りますので」
タクシーを見送った航は海の方に目を向けて大きく溜息を吐いた。
「タクシー代って高いんだな。こんな無駄金使って、何やってるんだ僕は……」
アルバイトと奨学金で学費を賄っている航にとっては痛い出費だった。
しかもそれで何かがしたかったというわけでもなく、ただ海が見たかっただけなので、本当に金を溝に捨てたようなものだ。
とはいえ折角来たことだし、始発まで時間があるので、海浜公園内に入る他無いだろう。
まさかすぐにタクシーを呼び戻して帰るわけにもいくまい。
「行くか……」
自分から態々来ておいて呆れた話だが、航は「仕方無く」公園内に足を踏み入れた。
月は既に西に傾いており、期待していたような美しい水面は見られず、ピアノの黒鍵の様な昏い海が波の音だけを奏でていた。
だが、それでも海岸のデッキを歩くのは決して悪くない心地だった。
(嗚呼、潮風が気持ち良いな……)
侘しさを醸し出す潮の香りの中、自由の女神像のレプリカが浮かない顔で佇んでいる。
航の女神は遠い海の向こうに行ってしまうのだろうか。
独り取り残された彼に次の恋が見つかったとして、彼女の陰を重ねずにいられるのだろうか。
(人っ子一人居ないな。こんな時間に開いている意味あるのか?)
そんなことを思った航だが、すぐに考えを改めることになる。
(居たよ、しかもカップルだ。一緒に海を見るならもっとロマンチックな時間帯があるだろう。見せ付けやがってよ)
尤も、目的も無く彷徨いている航には、彼らもとやかく言われたくないだろう。
抱き合って濃厚な接吻を交わし始めた恋人達に、航は居た堪れなくなって再び自由の女神像のレプリカへ顔を向けた。
「なあ女神様よ、貴女と僕、紛い物と負け犬でひっ付くか?」
航は自嘲気味に呟いたが、これ程失礼なアプローチも然う然う無いだろう。
今後彼の見付ける恋が魅琴の代替品に過ぎないのだとしたら、相手にとって酷な話だ。
そんな男に恋をする資格など無いし、抑もそれは恋ではない。
ならば、あくまで本物を求めるか?
本物の女神を求めて海の向こうへ旅立ったとして、その先で今も待っているとは限らないのに。
(もう一層、このまま海に身を投げてしまうか……?)
航は極端な思考に陥っていたが、折角良い雰囲気になっている恋人達の逢瀬に水を差すのも憚られた。
海を眺めながらの考え事は、思い出の懐旧へと移行する。
(行ったなあ、海釣り。結構釣れたし、あれは楽しかった……)
航は中学の頃、虎駕の両親に連れられて友達数人と共に海釣りへやって来た事がある。
道具は虎駕家に貸してもらったが、初めての釣りにしては釣果も上出来だった。
ただ、その時も最も数とサイズを上げていたのは魅琴だった。
(結局何をやっても、僕は魅琴に全然敵わないんだよな……)
そう思うと、断然自分は魅琴に相応しくない、という切ない思いが込み上げて来る。
航は首を激しく振って雑念を掻き消した。
振り切るべきはもっと根本的な執着なのだが、彼は決してそこへ思い至らない。
そんなことをしていると、航は奇妙な違和感に気が付いた。
雑念を振り払って思考がクリアになったことで、周囲の気配に敏感になったのかも知れない。
(誰か居る……。あのカップルじゃない。もう二人、近付いて来る……)
その時、若い男の野獣の様な怒声と女の絹を裂く様な悲鳴が夜の静寂を掻き消した。
先程まで愛を紡いでいた恋人達に、二人の男が頭陀袋を被せようとしている。
「な、何やってんだ!!」
航は思わず飛び出し、気が付くと男の一人を後から殴っていた。
助ける為に身体が勝手に動いた、といった感じだった。
驚いた様子のもう一人に、拳を躱しつつ更にもう一発お見舞いする。
暴漢達が怯んだ隙に、航は恋人達を庇うように割り込み、頭陀袋から素早く解放する。
「早く逃げろ!!」
航が叫ぶと同時に、暴漢の一人が掴み掛かってきた。
航はその相手を突き飛ばし、更にもう一人にも体当たりして、迫る魔の手から恋人達を守った。
狼狽える恋人達はそれでも何とか二人連れだってその場から駆けて行った。
「この餓鬼、よくも邪魔を!」
「よくもじゃないだろ、何のつもりだ」
航は二人の暴漢の服装が気になった。
ただ暗闇に紛れる黒い服を着て、如何にも工作員といった出で立ちだ。
夜の闇ではっきりとは判らないが、特に武器を持っている様には見えず、交戦になる展開を想定してなかった様子だ。
(多分、例のテロリストじゃないな。根尾の奴が云うにはあの時壊滅したって話だからな。じゃあ一体何なんだ、こいつら?)
航は高校一年の学校占拠事件を思い出す。
あの時以来の危機、あの時以来の戦いである。
(あの二人は……充分逃げたな、取敢えず良かった)
助けた二人の様子が気になって余所見をした隙に、暴漢の一人が殴り掛かってきた。
不覚を取った航は真面に顔面へ拳を食らってしまった。
が、航は全く堪えない。
全く以て屁でもない、といった感想だった。
何故ならば、彼は普段から妄想でもっととんでもない拳を顔面に受けている。
つい先程、眠りに落ちる前に同様の妄想に耽ってきたところだ。
航にとって、幼き日の拭い難いトラウマ、ねじ曲げられた性癖が、今は守ってくれた。
空かさず殴り返した拳は、相手を数歩後退させた。
幼き日の記憶の中で、可憐な少女の姿をした師がいつも手本を見せてくれる、身を以て教えてくれる。
意外と鍛えている航の拳はそこそこに強力だった。
仲間を助けよう襲い掛かってきたもう一人にも、渾身の拳を叩き込む。
殴り飛ばされた男の身体は、そのまま海に落ちた。
(成程な、良いことを思い付いたぞ)
別に意図して海に落としたわけではないが、航は危機を乗り越える見通しを立てることが出来た。
陸に残った男が航に飛び掛かって来る。
航は巧みに身を躱し、相手のバランスを崩して海に落下させた。
先に殴り落とされた男が岸に泳ぎ着き、デッキに上がろうとしていたが、航はそれを許さず再び蹴り落とす。
二人の暴漢は共に海中で藻掻き、何とか再びデッキへ上がろうとしていた。
(良し、この隙に……!)
二人掛かりを相手にしつつも襲撃を凌いだのは見事だったが、いつまでも相手にしてはいられない。
逃げられる時にはさっさと逃げてしまい、危険から遠ざかるのが賢明だろう。
航は二人が岸に上がって来る前に全速力で駆け出した、駆け出そうとした。
「情けない奴らだ」
逃げだそうとした航の後襟が掴まれた。
三人目の男が航を無理矢理振り向かせ、鳩尾へ拳をめり込ませた。
さっきまでの暴漢二人とは次元の違う重さの拳だった。
「か……は……!」
膝を付いた航の鼻と口を男の手巾が塞いだ。
航の意識が遠退き、起き上がる床のデッキに吸い込まれる。
「おい、さっさと上がって来い、愚図共」
「げほげほっ、申し訳御座いません、同志屋渡」
「こいつ、結構出来る男でして……。何卒、総括は御容赦を」
どうやらこの男、単なる暴漢の仲間ではなく上の立場の人間らしい。
「予定変更だ。こいつ一人だけ持って行くぞ。先程の立ち回り、動もすると二人攫うより得かも知れん」
三人の男達は気を失った航の身体と共に闇の中へと消えていった。
六月二日火曜日未明、平穏な生活の中で恋の黄昏を感じていたに過ぎなかった岬守航の運命が、波瀾万丈の時代に呑まれようとしていた。
特に調べていなかったが、幸いにして二十四時間開いている。
「ありがとうございます。帰りは始発に乗りますので」
タクシーを見送った航は海の方に目を向けて大きく溜息を吐いた。
「タクシー代って高いんだな。こんな無駄金使って、何やってるんだ僕は……」
アルバイトと奨学金で学費を賄っている航にとっては痛い出費だった。
しかもそれで何かがしたかったというわけでもなく、ただ海が見たかっただけなので、本当に金を溝に捨てたようなものだ。
とはいえ折角来たことだし、始発まで時間があるので、海浜公園内に入る他無いだろう。
まさかすぐにタクシーを呼び戻して帰るわけにもいくまい。
「行くか……」
自分から態々来ておいて呆れた話だが、航は「仕方無く」公園内に足を踏み入れた。
月は既に西に傾いており、期待していたような美しい水面は見られず、ピアノの黒鍵の様な昏い海が波の音だけを奏でていた。
だが、それでも海岸のデッキを歩くのは決して悪くない心地だった。
(嗚呼、潮風が気持ち良いな……)
侘しさを醸し出す潮の香りの中、自由の女神像のレプリカが浮かない顔で佇んでいる。
航の女神は遠い海の向こうに行ってしまうのだろうか。
独り取り残された彼に次の恋が見つかったとして、彼女の陰を重ねずにいられるのだろうか。
(人っ子一人居ないな。こんな時間に開いている意味あるのか?)
そんなことを思った航だが、すぐに考えを改めることになる。
(居たよ、しかもカップルだ。一緒に海を見るならもっとロマンチックな時間帯があるだろう。見せ付けやがってよ)
尤も、目的も無く彷徨いている航には、彼らもとやかく言われたくないだろう。
抱き合って濃厚な接吻を交わし始めた恋人達に、航は居た堪れなくなって再び自由の女神像のレプリカへ顔を向けた。
「なあ女神様よ、貴女と僕、紛い物と負け犬でひっ付くか?」
航は自嘲気味に呟いたが、これ程失礼なアプローチも然う然う無いだろう。
今後彼の見付ける恋が魅琴の代替品に過ぎないのだとしたら、相手にとって酷な話だ。
そんな男に恋をする資格など無いし、抑もそれは恋ではない。
ならば、あくまで本物を求めるか?
本物の女神を求めて海の向こうへ旅立ったとして、その先で今も待っているとは限らないのに。
(もう一層、このまま海に身を投げてしまうか……?)
航は極端な思考に陥っていたが、折角良い雰囲気になっている恋人達の逢瀬に水を差すのも憚られた。
海を眺めながらの考え事は、思い出の懐旧へと移行する。
(行ったなあ、海釣り。結構釣れたし、あれは楽しかった……)
航は中学の頃、虎駕の両親に連れられて友達数人と共に海釣りへやって来た事がある。
道具は虎駕家に貸してもらったが、初めての釣りにしては釣果も上出来だった。
ただ、その時も最も数とサイズを上げていたのは魅琴だった。
(結局何をやっても、僕は魅琴に全然敵わないんだよな……)
そう思うと、断然自分は魅琴に相応しくない、という切ない思いが込み上げて来る。
航は首を激しく振って雑念を掻き消した。
振り切るべきはもっと根本的な執着なのだが、彼は決してそこへ思い至らない。
そんなことをしていると、航は奇妙な違和感に気が付いた。
雑念を振り払って思考がクリアになったことで、周囲の気配に敏感になったのかも知れない。
(誰か居る……。あのカップルじゃない。もう二人、近付いて来る……)
その時、若い男の野獣の様な怒声と女の絹を裂く様な悲鳴が夜の静寂を掻き消した。
先程まで愛を紡いでいた恋人達に、二人の男が頭陀袋を被せようとしている。
「な、何やってんだ!!」
航は思わず飛び出し、気が付くと男の一人を後から殴っていた。
助ける為に身体が勝手に動いた、といった感じだった。
驚いた様子のもう一人に、拳を躱しつつ更にもう一発お見舞いする。
暴漢達が怯んだ隙に、航は恋人達を庇うように割り込み、頭陀袋から素早く解放する。
「早く逃げろ!!」
航が叫ぶと同時に、暴漢の一人が掴み掛かってきた。
航はその相手を突き飛ばし、更にもう一人にも体当たりして、迫る魔の手から恋人達を守った。
狼狽える恋人達はそれでも何とか二人連れだってその場から駆けて行った。
「この餓鬼、よくも邪魔を!」
「よくもじゃないだろ、何のつもりだ」
航は二人の暴漢の服装が気になった。
ただ暗闇に紛れる黒い服を着て、如何にも工作員といった出で立ちだ。
夜の闇ではっきりとは判らないが、特に武器を持っている様には見えず、交戦になる展開を想定してなかった様子だ。
(多分、例のテロリストじゃないな。根尾の奴が云うにはあの時壊滅したって話だからな。じゃあ一体何なんだ、こいつら?)
航は高校一年の学校占拠事件を思い出す。
あの時以来の危機、あの時以来の戦いである。
(あの二人は……充分逃げたな、取敢えず良かった)
助けた二人の様子が気になって余所見をした隙に、暴漢の一人が殴り掛かってきた。
不覚を取った航は真面に顔面へ拳を食らってしまった。
が、航は全く堪えない。
全く以て屁でもない、といった感想だった。
何故ならば、彼は普段から妄想でもっととんでもない拳を顔面に受けている。
つい先程、眠りに落ちる前に同様の妄想に耽ってきたところだ。
航にとって、幼き日の拭い難いトラウマ、ねじ曲げられた性癖が、今は守ってくれた。
空かさず殴り返した拳は、相手を数歩後退させた。
幼き日の記憶の中で、可憐な少女の姿をした師がいつも手本を見せてくれる、身を以て教えてくれる。
意外と鍛えている航の拳はそこそこに強力だった。
仲間を助けよう襲い掛かってきたもう一人にも、渾身の拳を叩き込む。
殴り飛ばされた男の身体は、そのまま海に落ちた。
(成程な、良いことを思い付いたぞ)
別に意図して海に落としたわけではないが、航は危機を乗り越える見通しを立てることが出来た。
陸に残った男が航に飛び掛かって来る。
航は巧みに身を躱し、相手のバランスを崩して海に落下させた。
先に殴り落とされた男が岸に泳ぎ着き、デッキに上がろうとしていたが、航はそれを許さず再び蹴り落とす。
二人の暴漢は共に海中で藻掻き、何とか再びデッキへ上がろうとしていた。
(良し、この隙に……!)
二人掛かりを相手にしつつも襲撃を凌いだのは見事だったが、いつまでも相手にしてはいられない。
逃げられる時にはさっさと逃げてしまい、危険から遠ざかるのが賢明だろう。
航は二人が岸に上がって来る前に全速力で駆け出した、駆け出そうとした。
「情けない奴らだ」
逃げだそうとした航の後襟が掴まれた。
三人目の男が航を無理矢理振り向かせ、鳩尾へ拳をめり込ませた。
さっきまでの暴漢二人とは次元の違う重さの拳だった。
「か……は……!」
膝を付いた航の鼻と口を男の手巾が塞いだ。
航の意識が遠退き、起き上がる床のデッキに吸い込まれる。
「おい、さっさと上がって来い、愚図共」
「げほげほっ、申し訳御座いません、同志屋渡」
「こいつ、結構出来る男でして……。何卒、総括は御容赦を」
どうやらこの男、単なる暴漢の仲間ではなく上の立場の人間らしい。
「予定変更だ。こいつ一人だけ持って行くぞ。先程の立ち回り、動もすると二人攫うより得かも知れん」
三人の男達は気を失った航の身体と共に闇の中へと消えていった。
六月二日火曜日未明、平穏な生活の中で恋の黄昏を感じていたに過ぎなかった岬守航の運命が、波瀾万丈の時代に呑まれようとしていた。
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