日本と皇國の幻争正統記

坐久靈二

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第一章『脱出篇』

第二十五話『人外の暴威』 急

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 うずくまわたりもんの中で混乱を極めていた。
 今の「けいたいさん」となったわたりにとって、鳩尾みぞおちのある胴部というのは堅固な装甲に守られた安全域のはずだった。
 その耐久力がちょうきゅうどうしんたいにも匹敵するというのは、決して誇張ではない。
 現に、今までの戦闘で貫通出来たのはわたるただ一人だった。

(た、立てん……! なんだこのくそおもい拳打は……!)

 わたりにとってそれはあり得ない異常事態だった。
 彼が感じ取ったことしんは話にならない程度、はるかに格下の筈だった。
 とはいえ、わたりは決して手を抜いていない。
 全力で、ことめっしにするつもりで襲い掛かった。

(なのにおれやりは全て千切れ飛んだ……! それもこの女がやったというのか?)

 そう、わたりは単に地に伏しているわけではない。
 膝を突かすことならばまゆづきにも、体を倒すことならばわたるにも出来ている。

 しかしあろうことか、ことわたりの鳩尾へ拳打を見舞い、一発でこの状態を作り上げたのだ。
 何のじゅつしきしんも用いず、ただ素手でぶん殴った、それだけ。
 その直前には、おそらくわたりの槍を全て素手で引き千切っている。
 その一連の動きは速度も、タイミングも、破壊力も常軌を逸しており、わたりすべ無くもんぜつびゃくする他無かった。

 そうやって芋虫の様にわたりを冷たく見下ろし、ことおおためいきを吐く。

「居るのよね、しんを抑えることも知らない間抜けが。力の使い方として、実に非効率。必要最低限の場合に、必要最小限のしんを発揮するのが鉄則。お前の様にわざわざしんひけらかすは、じいさまの組織にも裏切り者にも腐る程居たわ」

 わたりの髪がことの小さな手でわしづかみにされ、上体を起こされる。
 彼の目の前にはかがんだことの冷め切った侮蔑のがあった。

「お前はくそなのよ、しんの扱いが。海浜公園に、二週間ってなお、残存しんを嗅ぎ取れる程の稚拙さ……全くお話にならない。『犯人は自分です。どうか駆除してください』と大声で言い触らしている様なものね。そんな程度の相手にしんなど必要無いわ」

 は、は?――わたりは耳を疑った。
 この女は今何と言ったんだ?
 殴る瞬間、その刹那だけしんを爆発的に増大させてりょりょくを強化したという、そういう話ではないのか?

 ――しかし、そんなわたりの思考は、再び振り被られたことの拳を前に恐怖で消し飛んだ。

「ヒィィッ!?」

 ことの拳が、今度はわたりの顔面を激しく殴打した。
 痛烈無比という形容があまりにも似合い過ぎる一撃だった。
 わたりは首がれんばかりにり、体を宙に浮かせ、後頭部を土瀝青アスファルトたたけられた。

「あ……が……。が……!」

 グシャグシャに顔面を崩壊させたわたりのうに、先程のことの言葉がささやく。

『必要最低限の場合に、必要最小限のしんを発揮するのが鉄則』

(つ、つまり今あの女は、こんなちゃちゃな芸当をやってのけるのに一切のしんを必要とせず、素の膂力で充分だというのか……? あり得ない! これでは、これではまるで……!)

 むしの様に藻掻くわたりの下へ、ことはゆっくりと歩を進める。
 その表情は、たとえるならば、雑誌でたたつぶした蜚蠊ごきぶりの死骸をティッシュで包んでてようとしている様な、極めて冷酷な無表情である。

 二人の戦い、いな、一方的なじゅうりんを目の当たりにしたわたる達も開いた口がふさがらない様子だ。
 あのわたりが――五人掛かりでもギリギリまで追い詰められ、さいなミスで仕留め切れなかった、恐ろしいまでに強かったわたりが、まるで赤子扱い。

 うること――さながら地獄か終末の様な戦場に舞い降りた戰乙女ワルキューレ
 圧倒的、怪物的な強さ。
 それはまさに人外の暴威であった。

「そして、その程度の三流悪党の分際でわたしの大切な人達を傷付けた。誰かの大切な人達を奪った」

 ことわたりまたがり、両腕を膝で抑え付けた。
 一切の抵抗を許さない、所謂いわゆるマウントポジションである。

「ひぎッ……!?」

 わたりの二の腕にゆっくりと圧が掛かる。
 プレス機でつぶされる様に、しんで耐久力を増した筈の骨がミシミシときしみを上げる。
 やがてわたりの両腕はすさまじい脚力に耐え切れずにれてしまった。

「グギャアアアアアアッッ!!」

 見下ろすことの口元から白い歯がのぞいている。
 わたりは、彼女がえてゆっくり自分を痛め付けているのだと察した。
 愚かにも、彼は圧倒的強者のげきりんろうしてしまったのだ。
 怒りが必要以上の残忍さとなって、わたりを残酷にさいなんでいた。

 今、わたりの胸の中に感情が渦を巻く。
 ことに与えられた激痛と恐怖が、肺から、胃から、心臓から大爆発となって噴火した。
 彼は恥も外聞も無く泣き叫んだ。

「ば、化物! 化物オオオッッ!!」

 悲鳴を上げるわたりだったが、更なる一つの事実が追い打ちを掛ける。
 今、ことわたりの心を痛め付けている。
 じわじわと、超絶なる恐怖が真綿の錦で首を絞むるが如くわたりの息を詰まらせる。
 わたりことに気付かされた。

(し、しんが増大している……?)

 そう、今ことはわざと、わたりに見せ付けるように、自身のしんを敢えて増大させていた。
 それはわたる達にはもちろんのこと、わたりにとっても規格外の強大なしんだった。
 必要最低限でも、必要最小限でもない、前言と明らかに矛盾した行動である。
 間違い無く、ただわたりを恐怖させることだけを目的としていた。

「や、やめっ……!」

 ただでさえ常軌を逸した膂力なのに、更に規格外のしんが上乗せされようとしている。
 そんな暴威に暴威を重ねたちょうちゃくを叩き付けられてしまったら、頭が西すいの様に割れて死んでしまうに違いない。
 わたりは恐怖の絶頂だった。

 ことは口を結び、能面の様な表情でわたりを見下ろす。
 氷の様に冷たい怒りをまとい、酷薄に宣告する。

「その罪、死をもって償え」

 わたりの表情が底無しの恐怖と絶望にゆがんだ。
 凄絶無比の破壊力、完全無欠の殺傷力を握り締めた拳が振り上げられる。

 しかしその時、ことの背後から一人の青年が手に拳を取った。

こと、やめろ」

 ことは目をみはり、振り下ろさんとした拳を止めた。
 そんな彼女を、わたるうれいと悲しみに満ちた眼で見下ろしている。

 ⦿

 ……彼は知っていた。
 わたるにとって、この状況は遠い昔の記憶である。
 時を超え、出会った時に彼女から受けた手痛い仕置きがよみがえる。

 わたるにとってことの圧倒的な暴力をれるのは、他の者達ほど困難ではなかった。
 想像を遥かに超えてはいたが、これがうることなのだと一致した。
 だからこそ、今の彼にとってこの状況はたまれ無かった。

「やめてくれ、頼む。ここできみがこいつを殺してしまったら、ぼくはどうすれば良いのか分からない」

 ことが介入しなければ、わたる達は絶体絶命だった。
 それを招いたのは、わたりを殺せなかったわたるの甘さである。
 もしここでことわたりを殺してしまったら、わたるにとってこれ程間抜けな話はあるまい。
 恋い焦がれた大切なおさなじみが、自分の失策で自分に代わって人殺しになってしまうのだから。

 ことの体からこわった力が抜けた。
 そのまま立ち上がり、わたりの体が解放された。
 しかし、わたりはや戦意は見られない。

「離して」

 ことは小さくつぶやいた。
 殺意もしんも今の彼女からはせている。
 ことの手首はわたるの手から緩やかに擦り抜けた。

 両腕の使えないわたりは、体を反転させて両脚をばたつかせている。
 何とか逃げようとしているのだろうが、実にざまな醜態である。
 超一流の戦士に飛躍したとうそぶいていたわたりだが、今の彼は地に伏したまま藻掻くことしか出来ない。

 そんな姿がかんに障ったのか、ことは再びわたりにらむと、彼の両腿を素早く激しく踏み付けにした。
 四肢を全て圧し折られたわたりは、声にならない絶叫を上げた表情で白目をいて気絶してしまった。

こと……」

 わたることの後姿に声を掛けた。
 土瀝青アスファルトの火は随分と衰え、今にも消え掛かっている。
 戦いが終わりを迎えようとしていた。

 ことは深呼吸をして、ゆっくりとわたるの方へ振り向いた。
 その眼には先程までの凄まじい怒りと氷の様な冷酷さは露程も見られず、心底からのあんに潤んでいた。

 二人は久々に互いの顔を見つめ合っている。
 この時を、一体どれだけ待ち焦がれていただろうか。
 やっと、やっと二人は再会出来たのだ。

 まだ日本に帰り着いたわけではない。
 まだ日本に連れ帰ったわけではない。
 しかしわたることは、お互いそれぞれの立場でこの時の為に手を尽くしてきた。

 わたるの胸に、感極まった思いが込み上げてくる。
 様々な形で払った犠牲は決して小さくなかったが、ついに二人はここへと至ることが出来たのだ。

 ことわたるくたれ果てた体を抱き締めた。
 わたるは彼にとってずっと出会いたかった相手の、ずっと触れたかった体に包み込まれた。
 しかし、そこによこしまな思いは一切介在しない。
 ただ再会のよろこびだけが夜を包んでいた。

わたる……。無事で良かった……!」

 ことの発した言葉、そこには全ての重みが乗せられていた。

 そんな中、遠くから自動車の走行音が聞こえてきた。
 しんが近付いて来る明かりに気が付いた様だ。

「あ、おい。道空けた方が良いぜ」
「いや、あぶ君、あれは……!」

 今度はふたが歓びの笑顔を花咲かせた。
 手前を走ってくる車を運転している顔に覚えがあったからだ。

「あれ、日本の人だよ! 日本政府の人が迎えに来てくれたんだ!」

 二台の乗用車を運転しているのはすめらぎかな防衛大臣兼国家公安委員長が送り込んだ遣い・びゃくだんである。
 わたる達が合計で七人、ことを入れて八人、運転手二人を入れて十人。
 対して、五人乗りの車が二台あるので、全員を乗せられる。

 間も無く、わたる達は日本政府の人間によって保護されるだろう。
 彼らの、そうせんたいおおかみきばからの脱出・逃亡劇は、今ようやく終わりを告げようとしていた。
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