日本と皇國の幻争正統記

坐久靈二

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第二章『神皇篇』

第三十七話『孤児』 序

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 隔離空間は消え、辺りの景色は薄闇から立体駐車場の内部に変わっていた。
 自動車の通る冷たい混凝土コンクリートの上に、あぶしんけんしんは倒れ伏したまま起き上がれずにいた。
 六摂家の一角、いちどう公爵家の当主・いちどうすえ麿まろの圧倒的強さに打ちのめされた二人は、まさに絶体絶命のピンチを迎えていた。
 今この場にきゆうが現れなければ、二人は間違いなく殺されていただろう。

 いちどうすえ麿まろに厳しい視線を向けられてされたのか、わずかにあと退ずさった。
 依然として、いちどうから見ればもまたせんめつ対象の一人である。
 言葉次第によっては、この場で死体になる人間が一人増えるだけだろう。

 背の高さで言えば、実のところいちどうとそう変わらず、この場の男達の中では低い方である。
 に至っては、いちどうよりも十三センチも身長が高い。
 しかし、鍛え抜かれた肉体とくぐけた視線に裏付けられた圧力がいちどうを空気の絶対的支配者たらしめていた。

いちどうきよう……」

 はゆっくりと語り始めた。
 今や、この場の者達の命運は彼が握っていた。
 問題は、いちどうすえ麿まろという百年以上もの年月を国賊掃討にささげ、己が肉体を鍛え続けた護国の怪物を変心させることが出来るか、ということだ。

「閣下、貴方あなただまされているのです」

 の言葉に、いちどうけんしわを寄せて更に厳しい表情を浮かべた。
 明らかにげんの念、不信感に満ち満ちたである。

「貴公はきゆうでおじゃるな?」
「自分をぞんなのですか?」
「貴公のことはきのえ卿から名指しで確実に始末すべき者として挙げられておる。すなわち、貴公がような言葉をろうそうとも、麿まろたぶらかすことは出来ぬということでおじゃる」

 聞く耳持たぬ――それがいちどうの答えだった。
 しかし、としてはそれで終わる訳にも行くまい。
 今度は一つの問いを投げ掛けた。

「自分は何故なぜきのえ公爵閣下から名指しされたのですか?」
「それを聞いて何とする?」
「己が死する理由も知らずに死ね、と?」

 痛いところを突かれたのか、いちどうは目をすがめた。

「気の毒だが麿まろも詳しくは聞かされておらん。きのえ卿は政治家であるが故に、秘匿せねばならぬ事情があるのであろう。しかし、こと情報網に於いてこうこくきのえ卿の右に出る者はおらぬ。彼の叛逆者を炙り出す眼は確かでおじゃる」
いちどう卿、自分には貴方あなたが、何も理由を話されぬを良しとする方だとは思えません。聞かされずともそれはむをないという事情があったのですね?」
「貴公は何が言いたいのだ?」
「自分の推察は、貴方あなたがこのきゆうの名をきのえ卿から直接聞いた訳ではないというものです」

 いちどうは低い声でうなった。

「その反応、当たりということですね、いちどう卿。貴方あなたきのえ卿から直接自分の名を聞いたのではない。自分の名を貴方あなたに告げたのはズバリ、つきしろさくではありませんか?」

 のこれはいちどうの言葉尻を捉えた当て推量ずっぽうではない。
 どう士糸あきつらと戦う前、既につきしろから名指しされたとしらされていた。
 ただその事実をいちどうに突き付けることで、説得の突破口にしようとしていた。

「それが……どうした? つきしろ殿はきのえ卿の秘書、単なる伝達係に過ぎぬ」
「即ち、単なる伝達係であるが故に、きのえ卿の意図までもは言わなかったと、そういうことですか……」

 いちどういらまぐれに溜息を吐いた。

「言葉を弄しても無駄だと言っておる。時間を稼いで他の者だけでも逃がそうという腹か?」
「いいえ、そうではありません。自分は貴方あなたの誤解を解きたいのです」
「それは言葉を弄して麿まろを誑かしたいという風にしか聞かぬと、麿まろはそう言っておるのだ」

 いちどうは想像以上に頑迷だった。
 だが、一方でとの対話を一方的に打ち切って始末しようとまでは考えないようだ。

「閣下、貴方あなたは誠の紳士だ。口で何と言おうと、自分に弁明の機会を与えてはくれている。そのことに感謝し、最後にこう問い掛けたい」
「ほう、何と?」
「ズバリ、つきしろさくは本当にきのえくろ卿の操るがままに動いているのですか、という質問で御座います」
「……どういうことだ?」

 いちどうは怪訝そうに少し首をかしげた。
 の言葉がいちどうの心に一点の疑念を芽生えさせたらしい。
 は畳み掛ける。

「実は自分の部下が先日、つきしろさくについて一つのスキャンダルをつかんだのです」

 いちどうそばに寄ると、電話端末に写真を表示させて差し出した。
 そうせんたいおおかみきばに送り込んだちようほういんれんから送られてきた写真だ。
 そこには四人の男女が映されている。

つきしろ殿が誰かと密会している写真か。彼の他には少年が一人、猫面の男が一人、顔の映っていない女が一人……。この内の誰が問題なのだ?」
「顔のわからない二人のじようは不明です。しかし、この少年の名前は判っている」

 は写真を閉じ、電話端末を操作してファイル名を見せた。

「この少年の名はファイル名が示すとおり。そうせんたいおおかみきばの首領補佐・おとせい!」
「な、何だと!?」

 いちどうきようがくに声を荒らげた。

「何故貴公がその名を知っておる! あまつさえ、その男がおとなどと……! 首領補佐・おとせいこうこくの特別高等警察ですら名前以外何も把握出来ていない、それ程の謎に包まれた存在なのだぞ!」

 いちどうは明らかに動揺していた。
 の言葉に、はや疑念を挟むことも無い。

 何故なら、おとせいの素性はおおかみきば内部の者もほとんど知らない。
 逆説的に、ただおおかみきばと通じ合った程度に過ぎない外国の政治家がおとについて教わったはずも無い。
 それはつまり、おおかみきばから究極の極秘情報を奪取した者であるということ、協力者にあらずという状況証拠になっていた。
 更に、しんって認識力を大幅強化されたいちどうの眼は、人工知能による画像生成ですことも出来ない。

「なんということだ……! つきしろおとと密会していた、通じ合っていたとなると、その情報を入手した貴公を始末せよというのはきのえ卿の意志とは無関係の、つきしろの独断! それどころか、きのえ卿にとってつきしろは当にしんちゆうの虫!」
「そういうことです、閣下。つきしろは事もあろうに六摂家当主たる皆様を利用し、自らの黒い交際の証拠を闇に葬ろうとしていたのです」
「し、しかしつきしろの独断はきゆう、貴公の始末を優先する件についてのみ! はんぎやく者にくみした明治の民の始末はきのえ卿から直接依頼されたこと!」
「それについても、きのえ卿自身がつきしろに誑かされていたとしたらどうでしょうか」

 いちどうは顔面そうはくとなり、手で口元を押さえた。
 今や彼は完全に動揺していた。
 そんな彼らのもとへ、更に別の女二人が下の階から上がってきた。

「い、いちどう卿……! その者達を……殺しては……なりませぬ……!」
とおどう卿?」

 久住双葉の方を借り、とおどうあやいちどうの説得に現れたのだ。

「明治の民は叛逆者に一切加担しておりませぬ。我らは皆、きのえ卿に乗せられてしまったのですじゃ……!」
「ば、な……!」

 いちどうは頭を抱えた。

きのえ卿がつきしろにとってたまたま都合良く彼らを始末しようとしたと、それは考えられぬ! 即ち、殿の言うとおりきのえ卿もまたつきしろに誑かされたと考えるが自然! ならば麿まろは……麿まろら六摂家当主は……全員叛逆者に加担する国賊の片棒を担がされた……!! 誰よりも長く、あつく、じんのう陛下に忠義を尽くしてきた麿まろすらも、陛下に弓を引くやつばらの片棒を!!」

 いちどうは余りの無念からかほうこうした。
 長く、立体駐車場そのものを震わせるようなどうこくだった。
 その両目からは血涙すら流れていた。

 いちどうには、百年もの間只管ひたすらこうこくの、じんのうの敵と戦い続けたという自負心が積み上がっていた。
 ヤシマ人民民主主義共和国時代、抵抗者であった頃ならば、ここまでむせくことも無かっただろう。
 だが、今やいちどうは勝利と栄光を重ね過ぎた。
 高く高く積み上がったそれは、ただ一度叛逆者のたくらみにこうじんを拝しただけでもろく崩れ去るような状態になってしまっていたのだ。

 ひとしきり叫んだ後、いちどうは膝を突いてうなれた。

「情けない限り、ざんに堪えぬとはこのことでおじゃる……」

 そうつぶやくと、いちどう指貫さしぬきばかまに手を入れた。
 その姿を見て、とおどうあおめた。

「い、いかん! 誰か! いちどう卿を止めなされ!」

 とおどうの叫びが場の空気に火急の事態を告げた。
 そんな中、いちどうは何やら薬剤包装を取り出し、中から錠剤二錠を手にした。

くなる上は是非にも及ばず。たびの失態、責任は最年長たるこのいちどうすえ麿まろが一身に背負いましょう。なにとぞ、他の者達は御容赦くださいませ。一時は浮浪孤児にまで身を落とした麿まろすくげられたまい、その上畏れ多くも八十年にもわたり仕えさせ奉りしぎようこう、身に余る光栄に御座いました。心よりの感謝を、陛下に……」

 気付いたのはだった。

とうえいがん!? いけません閣下!」

 いちどうに飛び掛かってでも、これから彼がすることを止めようとした。
 しかしいちどうはいともやすを投げ飛ばした。
 圧倒的なきようじんさを誇るいちどうを止められる者はこの場に誰も居なかった。

「くっ!」

 が起き上がった時には、いちどうは既に手の中の錠剤を口に含んでいた。
 そして喉の鳴る音がえんを告げる。

こうこくいやさかあれ……」

 いちどうがそう呟いた次の瞬間、彼の全身から勢い良く血が噴き出した。
 鍛え抜かれた体が力無くくたれ、血だまりの中へと倒れ伏した。

「な、何だ?」
「何が起きたの……?」

 しんと双葉は困惑していた。
 どうもくし、言葉を失っていた。
 立ち上がったは顔を伏せ、いちどうさいを見届けて語る。

とうえいがんを二錠以上飲むには十日以上の間隔を空けなければならない。それより短いと、短い程に大きな健康被害が生じる。そしてもし二錠同時に飲んでしまったら、服用した者はしんの暴走が抑えられず、今の様にその場で死んでしまうのだ……」

 とおどうに頭を下げる。

いちどう卿を追い詰め、自害を止められませんでした。申し開く言葉も見付かりません」
「その責任は我にこそある。我はいちどう卿と近い関係にありながら、彼を止める言葉を持たなかった。もう少し物を言えればと、後悔が尽きぬ……」

 双葉の背でとおどうは両眼を閉じ、いちどうの死を悼んだ。
 しんに肩を貸す。

「下の階で残りの者と合流しよう。たつかみ邸へ急がねば……」

 の表情にもまた、自害を防げなかったじくたる思いがにじんでいた。
 また、心の内をさらけ出し合ったの目からも涙がこぼれていた。

いちどう……様……」

 ある意味、は誰よりも一同の無念を理解出来たのかも知れない。
 後味の悪い結果となったが、六摂家当主の襲撃をかわし切った彼らは、二階下で待っているというびゃくだんあげくも兄妹、一足先にちらへ向かったまゆづきとの合流を目指す。

 だがそこにはまだ一つの波乱が忍び寄って来ていた。
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