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第二章『神皇篇』
第五十話『麗真魅琴』 急
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高校に上がって秋になり、とうとうその時が来てしまった。
あの日の朝、嘘の様な快晴の空に満ちていた神為に気付いていたのは私と御爺様だけだっただろう。
嗚呼、来てしまうんだ。
出来れば、全てが御爺様の妄想で済んでいればどれ程良かったことか。
当日の朝は苦しかった。
ただ、ムカつくくらいによく晴れた空から目を背けることは出来なかった。
そんな中、航はいつも通りに声を掛けてきた。
いつも通りにふざけ合う遣り取りが出来てしまった。
この日常、失いたくない。
でも今日、世界は変わり果ててしまうだろう。
私は逃げるように航の前から去った。
学校にも行きたくなかった。
元々、モノクロームの世界の邪悪な獣だったときには縁が無かった場所だ。
失うものが出来てしまうその前まで戻りたかったのかも知れない。
私は御爺様の入院している病院へと向かった。
ただ少し、航のことは心配だったので何かあったら連絡するようにとは伝えた。
御爺様もまた全てを察したようで、黙って私を迎え入れてくれた。
私と御爺様は今一度、問答をすることになる。
『儂を訪ねて来たという事は、解っておるのだな、魅琴よ?』
『はい、御爺様……』
失えない日常――それを意識したとき、答えが出てしまった。
『お前さんも察しの通り、明確な予兆が顕れた。だが残念ながら、儂はもう長くはあるまい。口惜しいが、最早この手で出来る事は残されておらん』
『御心配には及びません。私の思いは御爺様と概ね同じですから』
『そうか、すまんな……』
そうだ、同じだ。
国を守りたい御爺様の気持ち、今なら解る。
航と出会い様々な経験を得て、私は自分を取り巻くものの大切さに気付いてしまった。
私はもうあの頃の、ただ人間を壊せれば良かった邪悪な獣には戻れないのだ。
その後、廻天派という崇神會の裏切り者共が妙な動きを見せているという情報が入った。
幼少期、御爺様が時折連れてきた「悪い人達」の一派だ。
私は彼らの掃討に向かおうとした。
その時、御爺様から伝えられた。
『魅琴よ、先程も言うた通り、最早儂に出来る事は何も無い。後はお前さんの心持ち次第じゃ。しかし、もしお前さんが儂の願いを叶えてくれるというのなら……魅琴よ、日本を守ってくれ。この美しき瑞穂の国を、真なる皇国を……。間も無く轟臨するであろう強大無比なる戦禍から我が祖国を守ってくれ……!』
御爺様の眼に鋭い光りが宿った。
度々見せていた凄まじき執念――両親曰く、悍ましき狂気の眼だ。
多分、見るのはこれが最後になるだろう。
『その為に魅琴よ、命に代えても必ず神皇を、偽りの帝を討て!!』
私は御爺様の手を握り「はい」と答えた。
私もまた、日本を、航や航と共に過ごしたこの世界を守りたい。
私にしか出来ないことならば、是非私にやらせて欲しい。
御爺様はその一月後にこの世を去った。
しかしあの誓いにも拘わらず、私にはその後も六年間の日常が続いた。
掛け替えのない日々が輝きを増し、私の迷いを大きくさせた。
⦿⦿⦿
御爺様の死から年が明けて、学年が上がり、私に新しい仲間が出来た。
久住さんは私にとって初めての同性の友達だった。
彼女を通して私はまた一つ世界を拡げた。
彼女は本当に良い娘で、私のことをよく気に掛けてくれたと思う。
思い出すのは十月半ばの、あの銀杏並木での出来事だ。
あの日、根尾さんが私に崇神會廻天派壊滅を報せてくれた。
同時に、政界への誘いも持って来てくれたが、私の心は其方へ靡かなかった。
私は御父様の死以来、御母様と距離を置くようになった。
元々家に居着かない人だったけれど、それ故に御父様が苦しい時にも自分のことばかりで私に全てを押し付けたのだという思いが強かった。
御母様のことが好きかと問われると、喉に閊えを感じるようになっていたのだ。
御爺様の影響を受けてしまったのは、そういったことも遠因になっていたのかも知れない。
そんな私にとって、久住さんの言葉は救いだった。
『麗真さん、お母さんがどうとか関係無いからね。麗真さんは麗真さんなんだから』
嬉しかった。
しかし同時に、私はその言葉の意味が少し怖かった。
要するに、親の言うとおりにする必要は無いという、解放の温かい言葉だ。
ならばそれは御母様だけでなく、御爺様の遺志に従う必要も無いということを意味する。
私の決意が揺らいでしまう。
事実、揺らいでしまったのだろう。
私はその後も皇國へは飛ばなかった。
皇國に日本を攻める様子が無いからと、ずっと手を拱いてしまった。
久住さん、貴女は本当に優しい娘。
貴女は多分航のことを友達以上に感じていたのでしょう。
でも、私が居るからと遠慮した。
それどころか、それとなく私と航を近付けようとしてくれていた。
ごめんなさい、私には出来ないの。
私だって本当は……本当は航のことが……。
でも私には使命がある。
いつかは果たさなければならない、果てなければならない時が来てしまう。
だから久住さんと疎遠になって、私は航とも距離を置こうとした。
関係が自然に消滅して、一人になれば、心置き無く皇國へ旅立てる――そう思っていた。
でも航は放してくれなかった。
私だって好きで貴方を突き放す訳じゃないのに、どうして解ってくれないの?
……何も言わないのに解る訳がないだろう。
かといって、伝えたところで航は納得してくれないだろう。
航の気持ちに応えられないことに、私は罪悪感を覚え、苦しくなった。
だから益々溝が出来、益々苦しくなる。
そんな大学生活の中で、私の世界は次第に色を変えていった。
皇國の存在が私の世界を色褪せさせ、かといって元のモノクロームに戻しはせず、中途半端で一番切ないセピア色にしていった。
私の背中を最後に押したのが航だったのはこれ以上無い皮肉だろう。
航が皇國へ拉致され、私は自分の使命と向き合わざるを得なくなった。
⦿⦿⦿
航、最後にもう一度貴方と交われて良かった。
虎駕君や久住さんとも久々に会えた。
もしかしたらこのまま、何事もない日常が戻って来るのではないか――そう期待しなかったと言えば嘘になる。
けれども、運命は私に甘えを許さなかった。
皇太子からの誘い、そして求婚は私に本心を問う警告だったのかも知れない。
「結局お前は、使命を全うするつもりがあるのか」と問い詰められていたのかも知れない。
「このままズルズルと日常に浸り込んだまま使命を放棄するつもりなのではないか」と。
でも私はちゃんと選べた。
使命を選び、行くべき道を取ることが出来た。
しかし運命は、それでも私の躊躇いを許してはくれなかったらしい。
虎駕君が死んでしまった。
私がもう少し早く動けていたら、或いはこんなことにはならなかったのではないか。
後悔してももう遅いのかも知れない。
でも、それでも、私の決意は絶対に嘘なんかじゃあない。
解った。
だったら見せてやろう。
そこまでして、私に容赦無く「その時」を突き付けてまで覚悟を問うのなら、それに応えてやろう。
私は今日この時を以て、昔の邪悪な獣に戻る。
それは最早不可能だと、嘗ては思った。
でも私は皇國へ来てから気付いてしまった。
昔の私は、人間を壊すことを至上の喜びとする残虐非道な私は今も眠っていて、目を覚ます時を待っているのだと。
全てを棄てれば、あの頃の私が顔を出す。
そうすればもう迷わないだろう。
私を彩る全ての為に、私は私の決意を嘘だとは云わせない。
そこだけは決して譲れない。
⦿⦿⦿
航……。
航……。
航……。
私は今、異国の空を見詰めて貴方との思い出を抱き締めています。
この光景をくれてありがとう。
こんなにも鮮やかで、豊かな色彩で、モノクロームだった私の人生を染め上げてくれてどうもありがとう。
貴方が居たから、貴方と出会えたから、私はとても幸せだった。
今この夜空に仰ぎ見ている、夜空を埋め尽くしている、貴方と共に過ごした数々の思い出こそ、私が自分の運命に立ち向かえる理由。
時間さえ許せば無限に、記憶の中で輝く貴方との美しい日々を反芻出来る。
ごめんなさいね。
私だけが一方的に、二人過ごした日々を堪らなく愛おしく思い返している。
貴方にはとてもとても酷い事をしておいて、私だけが自分一人で……。
あれが私の本性なの。
元々私は、貴方のことをずっと壊そうとしていた。
元はといえば、唯々その遊戯が楽しかった。
貴方のことをじわじわとボロボロにして、最後に廃人になった貴方に止めを刺すつもりだったの。
何をどう間違えたのか、貴方は私のことを好きになってしまったみたいだけれど、それは本当に何かの間違いなの。
私の中にはずっと、昔の邪悪な獣だった私が居たの。
貴方を壊したくて壊したくて仕方が無い私が居たの。
もしもう一度、貴方に思う存分暴力を振るえたら、その時は屹度至福に違いないと、何処かで予感していたかも知れない。
思った通り、最高だった!
あまりの多幸感に、つい調子に乗ってしまった!
血が噴き出し、肉が裂け、骨が折れ、臓腑が潰れる感触が今も残っている!
何より貴方の苦痛と悲哀と絶望と無様さと滑稽さと惨めさと情けなさが今も鮮明に視界にへばり付いている!
……時間が経てば修復される「神為」があって本当に良かった。
解る?
私はそういう、最低最悪の女なの。
だからこんな私のことを、ちゃんと嫌いになってね?
ちゃんと私に幻滅してね?
あれだけ酷い目に遭わせれば、あれだけ貴方が大切に温め続けた想いを踏み躙れば、もう私に愛想を尽かせてくれるでしょう?
十五年の日々が虚無になってしまうの心配はあるけれど、でも屹度大丈夫。
貴方は素敵な人だから、久々に会って更に成長して大きな人間になっていたから。
私のことなんか忘れられるくらい、本当に素敵な理想の女との出会いが屹度訪れる筈。
私のことは忘れなさい。
私のことは過去に封印して、置き去りにして、やがては人生の記憶から消してしまいなさいね。
私を引き摺ったりなんかしちゃ、嫌よ?
この想いは片想いで構わない。
片想いでも、私は殉じることが出来る。
何故なら航、貴方は私にとって、世界で一番大切な人。
のみならず、私の世界を拡げてもっと大きなものを教えてくれた人。
この世界には、貴方の他にも善良な好ましい人達が大勢居る。
そしてその人達にも、私にとっての貴方と同じように大切な人が居る。
ならば私が戦う理由とは、その大勢の人達とその大切な人達を守ること。
家族・恋人・友人・隣人……他にも様々な関係性があるだろうけれど、それらを全て足し合わせれば、日本を守ることは誰かにとって大切な人を累積何億人も守るに等しい。
私ね、何億人もの貴方を守る為に戦うの!
だったら、命を棄てる理由としては充分過ぎるでしょう!
……ねえ、航。
貴方が色付けてくれた私の短い人生は、こんなにも美しい。
青い、赤い、黄色い、翠色の、菫色の、橙色の、藍色の、紅色の、柳色の、朱色の、金色の、銀色の、余りにも数多の、色取り取りの鮮やかな光が、最期の夜空を流れて往く。
今夜、私は死ぬ。
御国の為に命を棄てる。
……ねえ、航。
道が分かたれた今なら言える。
声を大にしている。
愛してる……。
愛してるわ……!
航、私は貴方を、この世界の誰よりも愛しているわ!!
けれども、この想いは決して届かない。
届いてはいけない。
況してや成就するなんてとんでもない。
私の人生はそれで構わない。
今生はそれでも一向に構わない。
それでもやっぱり、どうしても夢を見てしまうから。
あのまま共に歩む人生もあったんじゃないかと、どうしても考えてしまうから。
だから私は、こう思うことにするの。
輪廻の先で、また逢いましょうね。
ただ、私はこれから罪を犯すし、貴方にも酷い事をしてしまったから、多分来世は地獄行きでしょう。
神皇を暗殺したら、地獄の刑期はどれくらいになるだろう。
正確には覚えていないけれど、神皇が聖人扱いになるなら、数百京年とかだったかも知れない。
ただ、それでも……。
それでもこの禊を終えて、これまでに背負った業もこれから被る穢れも全て雪いで、そしてその先で貴方が許してくれるなら……。
貴方が待っていてくれるなら、どんなに輪廻を重ねても、不可説不可説転の時を超えることになっても、必ず貴方を捜し出すから。
必ず見つけ出して再び会いに行くから。
今度運命が邪魔をして、永劫に邂逅出来ないように仕組むような悪さをするなら、この拳で嫌という程に殴り付けてぶちのめしてやる。
だからその時は……。
……。
その時こそは、屹度二人添い遂げましょう。
あの日の朝、嘘の様な快晴の空に満ちていた神為に気付いていたのは私と御爺様だけだっただろう。
嗚呼、来てしまうんだ。
出来れば、全てが御爺様の妄想で済んでいればどれ程良かったことか。
当日の朝は苦しかった。
ただ、ムカつくくらいによく晴れた空から目を背けることは出来なかった。
そんな中、航はいつも通りに声を掛けてきた。
いつも通りにふざけ合う遣り取りが出来てしまった。
この日常、失いたくない。
でも今日、世界は変わり果ててしまうだろう。
私は逃げるように航の前から去った。
学校にも行きたくなかった。
元々、モノクロームの世界の邪悪な獣だったときには縁が無かった場所だ。
失うものが出来てしまうその前まで戻りたかったのかも知れない。
私は御爺様の入院している病院へと向かった。
ただ少し、航のことは心配だったので何かあったら連絡するようにとは伝えた。
御爺様もまた全てを察したようで、黙って私を迎え入れてくれた。
私と御爺様は今一度、問答をすることになる。
『儂を訪ねて来たという事は、解っておるのだな、魅琴よ?』
『はい、御爺様……』
失えない日常――それを意識したとき、答えが出てしまった。
『お前さんも察しの通り、明確な予兆が顕れた。だが残念ながら、儂はもう長くはあるまい。口惜しいが、最早この手で出来る事は残されておらん』
『御心配には及びません。私の思いは御爺様と概ね同じですから』
『そうか、すまんな……』
そうだ、同じだ。
国を守りたい御爺様の気持ち、今なら解る。
航と出会い様々な経験を得て、私は自分を取り巻くものの大切さに気付いてしまった。
私はもうあの頃の、ただ人間を壊せれば良かった邪悪な獣には戻れないのだ。
その後、廻天派という崇神會の裏切り者共が妙な動きを見せているという情報が入った。
幼少期、御爺様が時折連れてきた「悪い人達」の一派だ。
私は彼らの掃討に向かおうとした。
その時、御爺様から伝えられた。
『魅琴よ、先程も言うた通り、最早儂に出来る事は何も無い。後はお前さんの心持ち次第じゃ。しかし、もしお前さんが儂の願いを叶えてくれるというのなら……魅琴よ、日本を守ってくれ。この美しき瑞穂の国を、真なる皇国を……。間も無く轟臨するであろう強大無比なる戦禍から我が祖国を守ってくれ……!』
御爺様の眼に鋭い光りが宿った。
度々見せていた凄まじき執念――両親曰く、悍ましき狂気の眼だ。
多分、見るのはこれが最後になるだろう。
『その為に魅琴よ、命に代えても必ず神皇を、偽りの帝を討て!!』
私は御爺様の手を握り「はい」と答えた。
私もまた、日本を、航や航と共に過ごしたこの世界を守りたい。
私にしか出来ないことならば、是非私にやらせて欲しい。
御爺様はその一月後にこの世を去った。
しかしあの誓いにも拘わらず、私にはその後も六年間の日常が続いた。
掛け替えのない日々が輝きを増し、私の迷いを大きくさせた。
⦿⦿⦿
御爺様の死から年が明けて、学年が上がり、私に新しい仲間が出来た。
久住さんは私にとって初めての同性の友達だった。
彼女を通して私はまた一つ世界を拡げた。
彼女は本当に良い娘で、私のことをよく気に掛けてくれたと思う。
思い出すのは十月半ばの、あの銀杏並木での出来事だ。
あの日、根尾さんが私に崇神會廻天派壊滅を報せてくれた。
同時に、政界への誘いも持って来てくれたが、私の心は其方へ靡かなかった。
私は御父様の死以来、御母様と距離を置くようになった。
元々家に居着かない人だったけれど、それ故に御父様が苦しい時にも自分のことばかりで私に全てを押し付けたのだという思いが強かった。
御母様のことが好きかと問われると、喉に閊えを感じるようになっていたのだ。
御爺様の影響を受けてしまったのは、そういったことも遠因になっていたのかも知れない。
そんな私にとって、久住さんの言葉は救いだった。
『麗真さん、お母さんがどうとか関係無いからね。麗真さんは麗真さんなんだから』
嬉しかった。
しかし同時に、私はその言葉の意味が少し怖かった。
要するに、親の言うとおりにする必要は無いという、解放の温かい言葉だ。
ならばそれは御母様だけでなく、御爺様の遺志に従う必要も無いということを意味する。
私の決意が揺らいでしまう。
事実、揺らいでしまったのだろう。
私はその後も皇國へは飛ばなかった。
皇國に日本を攻める様子が無いからと、ずっと手を拱いてしまった。
久住さん、貴女は本当に優しい娘。
貴女は多分航のことを友達以上に感じていたのでしょう。
でも、私が居るからと遠慮した。
それどころか、それとなく私と航を近付けようとしてくれていた。
ごめんなさい、私には出来ないの。
私だって本当は……本当は航のことが……。
でも私には使命がある。
いつかは果たさなければならない、果てなければならない時が来てしまう。
だから久住さんと疎遠になって、私は航とも距離を置こうとした。
関係が自然に消滅して、一人になれば、心置き無く皇國へ旅立てる――そう思っていた。
でも航は放してくれなかった。
私だって好きで貴方を突き放す訳じゃないのに、どうして解ってくれないの?
……何も言わないのに解る訳がないだろう。
かといって、伝えたところで航は納得してくれないだろう。
航の気持ちに応えられないことに、私は罪悪感を覚え、苦しくなった。
だから益々溝が出来、益々苦しくなる。
そんな大学生活の中で、私の世界は次第に色を変えていった。
皇國の存在が私の世界を色褪せさせ、かといって元のモノクロームに戻しはせず、中途半端で一番切ないセピア色にしていった。
私の背中を最後に押したのが航だったのはこれ以上無い皮肉だろう。
航が皇國へ拉致され、私は自分の使命と向き合わざるを得なくなった。
⦿⦿⦿
航、最後にもう一度貴方と交われて良かった。
虎駕君や久住さんとも久々に会えた。
もしかしたらこのまま、何事もない日常が戻って来るのではないか――そう期待しなかったと言えば嘘になる。
けれども、運命は私に甘えを許さなかった。
皇太子からの誘い、そして求婚は私に本心を問う警告だったのかも知れない。
「結局お前は、使命を全うするつもりがあるのか」と問い詰められていたのかも知れない。
「このままズルズルと日常に浸り込んだまま使命を放棄するつもりなのではないか」と。
でも私はちゃんと選べた。
使命を選び、行くべき道を取ることが出来た。
しかし運命は、それでも私の躊躇いを許してはくれなかったらしい。
虎駕君が死んでしまった。
私がもう少し早く動けていたら、或いはこんなことにはならなかったのではないか。
後悔してももう遅いのかも知れない。
でも、それでも、私の決意は絶対に嘘なんかじゃあない。
解った。
だったら見せてやろう。
そこまでして、私に容赦無く「その時」を突き付けてまで覚悟を問うのなら、それに応えてやろう。
私は今日この時を以て、昔の邪悪な獣に戻る。
それは最早不可能だと、嘗ては思った。
でも私は皇國へ来てから気付いてしまった。
昔の私は、人間を壊すことを至上の喜びとする残虐非道な私は今も眠っていて、目を覚ます時を待っているのだと。
全てを棄てれば、あの頃の私が顔を出す。
そうすればもう迷わないだろう。
私を彩る全ての為に、私は私の決意を嘘だとは云わせない。
そこだけは決して譲れない。
⦿⦿⦿
航……。
航……。
航……。
私は今、異国の空を見詰めて貴方との思い出を抱き締めています。
この光景をくれてありがとう。
こんなにも鮮やかで、豊かな色彩で、モノクロームだった私の人生を染め上げてくれてどうもありがとう。
貴方が居たから、貴方と出会えたから、私はとても幸せだった。
今この夜空に仰ぎ見ている、夜空を埋め尽くしている、貴方と共に過ごした数々の思い出こそ、私が自分の運命に立ち向かえる理由。
時間さえ許せば無限に、記憶の中で輝く貴方との美しい日々を反芻出来る。
ごめんなさいね。
私だけが一方的に、二人過ごした日々を堪らなく愛おしく思い返している。
貴方にはとてもとても酷い事をしておいて、私だけが自分一人で……。
あれが私の本性なの。
元々私は、貴方のことをずっと壊そうとしていた。
元はといえば、唯々その遊戯が楽しかった。
貴方のことをじわじわとボロボロにして、最後に廃人になった貴方に止めを刺すつもりだったの。
何をどう間違えたのか、貴方は私のことを好きになってしまったみたいだけれど、それは本当に何かの間違いなの。
私の中にはずっと、昔の邪悪な獣だった私が居たの。
貴方を壊したくて壊したくて仕方が無い私が居たの。
もしもう一度、貴方に思う存分暴力を振るえたら、その時は屹度至福に違いないと、何処かで予感していたかも知れない。
思った通り、最高だった!
あまりの多幸感に、つい調子に乗ってしまった!
血が噴き出し、肉が裂け、骨が折れ、臓腑が潰れる感触が今も残っている!
何より貴方の苦痛と悲哀と絶望と無様さと滑稽さと惨めさと情けなさが今も鮮明に視界にへばり付いている!
……時間が経てば修復される「神為」があって本当に良かった。
解る?
私はそういう、最低最悪の女なの。
だからこんな私のことを、ちゃんと嫌いになってね?
ちゃんと私に幻滅してね?
あれだけ酷い目に遭わせれば、あれだけ貴方が大切に温め続けた想いを踏み躙れば、もう私に愛想を尽かせてくれるでしょう?
十五年の日々が虚無になってしまうの心配はあるけれど、でも屹度大丈夫。
貴方は素敵な人だから、久々に会って更に成長して大きな人間になっていたから。
私のことなんか忘れられるくらい、本当に素敵な理想の女との出会いが屹度訪れる筈。
私のことは忘れなさい。
私のことは過去に封印して、置き去りにして、やがては人生の記憶から消してしまいなさいね。
私を引き摺ったりなんかしちゃ、嫌よ?
この想いは片想いで構わない。
片想いでも、私は殉じることが出来る。
何故なら航、貴方は私にとって、世界で一番大切な人。
のみならず、私の世界を拡げてもっと大きなものを教えてくれた人。
この世界には、貴方の他にも善良な好ましい人達が大勢居る。
そしてその人達にも、私にとっての貴方と同じように大切な人が居る。
ならば私が戦う理由とは、その大勢の人達とその大切な人達を守ること。
家族・恋人・友人・隣人……他にも様々な関係性があるだろうけれど、それらを全て足し合わせれば、日本を守ることは誰かにとって大切な人を累積何億人も守るに等しい。
私ね、何億人もの貴方を守る為に戦うの!
だったら、命を棄てる理由としては充分過ぎるでしょう!
……ねえ、航。
貴方が色付けてくれた私の短い人生は、こんなにも美しい。
青い、赤い、黄色い、翠色の、菫色の、橙色の、藍色の、紅色の、柳色の、朱色の、金色の、銀色の、余りにも数多の、色取り取りの鮮やかな光が、最期の夜空を流れて往く。
今夜、私は死ぬ。
御国の為に命を棄てる。
……ねえ、航。
道が分かたれた今なら言える。
声を大にしている。
愛してる……。
愛してるわ……!
航、私は貴方を、この世界の誰よりも愛しているわ!!
けれども、この想いは決して届かない。
届いてはいけない。
況してや成就するなんてとんでもない。
私の人生はそれで構わない。
今生はそれでも一向に構わない。
それでもやっぱり、どうしても夢を見てしまうから。
あのまま共に歩む人生もあったんじゃないかと、どうしても考えてしまうから。
だから私は、こう思うことにするの。
輪廻の先で、また逢いましょうね。
ただ、私はこれから罪を犯すし、貴方にも酷い事をしてしまったから、多分来世は地獄行きでしょう。
神皇を暗殺したら、地獄の刑期はどれくらいになるだろう。
正確には覚えていないけれど、神皇が聖人扱いになるなら、数百京年とかだったかも知れない。
ただ、それでも……。
それでもこの禊を終えて、これまでに背負った業もこれから被る穢れも全て雪いで、そしてその先で貴方が許してくれるなら……。
貴方が待っていてくれるなら、どんなに輪廻を重ねても、不可説不可説転の時を超えることになっても、必ず貴方を捜し出すから。
必ず見つけ出して再び会いに行くから。
今度運命が邪魔をして、永劫に邂逅出来ないように仕組むような悪さをするなら、この拳で嫌という程に殴り付けてぶちのめしてやる。
だからその時は……。
……。
その時こそは、屹度二人添い遂げましょう。
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ファンタジー
高校2年の夏。
高木華音【男】は夏休みに入る前日のホームルーム中にクラスメイトと共に異世界にある帝国【ゼロムス】に魔王討伐の為に集団転移させれた。
地球人が異世界転移すると必ずDランクからAランクの固有スキルという世界に1人しか持てないレアスキルを授かるのだが、華音だけはEランク・【ムゲン】という存在しない最低ランクの固有スキルを授かったと、帝国により死の森へ捨てられる。
しかし、華音の授かった固有スキルはEXランクの無限増殖という最強のスキルだったが、本人は弱いと思い込み、死の森を生き抜く為に無双する。
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