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第二章『神皇篇』
第五十一話『神皇』 破
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神皇こと畔宮大智は皇紀二五六六年、即ち西暦一九〇六年一月二十九日に降誕した。
宮は生まれ付き不思議な力を持った少年であったが、露西亜帝国との戦争から続く挙国体勢の戦時下で皇統の神格化に依る国威の発揚に利用された為、このような背景を持った人物の生い立ちに想起される蔑視や迫害などを受けることは表向き無く、概ね幸福な少年時代を送った。
皇族として華族に囲まれて育った宮は、この時期に後の人格を形成する多くの文化的素養を身に付けた。
国情は先行き不透明であったが、それでも宮は自らに大きな不幸が降り掛かるとは考えていなかった。
今や百年以上前の、遠い昔の話である。
最早当時の記憶は温もりと共に色褪せてしまった……。
宮の運命が変わったのは十四歳の時である。
神和維新政府は露西亜との戦争を終わらせることが出来ぬままに激動の世界情勢に呑まれ、世界大戦を同盟国陣営で戦い、敗戦に見舞われた。
更に、そこから露西亜と連動する様に八月革命が勃発し、神和維新政府は完全に斃れてしまった。
当時の共産主義革命による旧体制否定の度合いは凄まじく、国家の伝統の全てを破壊し尽くさん勢いがあった。
革命政府は神和維新によって築き上げられた國體――日本という民族観・国家観をも完全に否定し、ヤシマ人民民主主義共和国の建国を宣言。
皇族・貴族・資本家・財閥企業――旧体制の権威も、資産も、全ては新政府の裁断に委ねられ、老若男女を問わず徹底的に断罪された。
宮が世話になった汎ゆる人物は、宮が心を通わせた汎ゆる相手は、宮が慈しんだ汎ゆる世界は、苦役は破壊と殺戮によって塗り潰されていった。
宮もまた国威発揚に利用された背景を危険視され、幽閉されてしまった。
囚われの宮は語るも悍ましい拷問を心身両面に受け、何度も生死の境を彷徨った。
ヤシマ政府の中枢に居た或る男は、このときの宮の生命力を「まるで神に守られているかの様だった」と述懐している。
当時から成長の止まってしまった玉体には今尚、拷問によって刻まれた数多の傷が残されている。
とはいえ、宮は日を追うごとに確実に衰弱していき、遅かれ早かれ尊厳凌辱の末に惨めな死を迎えることは確実かに思われた。
宮自身もそう考えていたという。
そんな宮の運命を変えたのは、一人の男に残された一欠片の良心だった。
『殿下、一緒に逃げやしょう!』
宮を始めとした旧体制の政治犯を収容していた棲鴨監獄、其処から出る塵の集荷を担っていた男・水徒端泰造が、宮の脱走を手引きしたのだ。
後に彼の子孫である水徒端早辺子が、同じヤシマ政府の後継組織である武装戦隊・狼ノ牙から岬守航達を脱走させたというのは、果たして何の因果だろうか。
水徒端泰造は監獄から塵を運び出す振りをして、塵芥車の助手席へと宮を押し込み、埋め立て地へ向かう振りをして空港へ向かった。
途中で一般の自動車へと乗り換える際、宮はこの恩人に尋ねた。
『何故……余を助けた?』
『だって、貴方は何も悪くねえもの。偶々あの家に生まれたってだけの、俺の子と同じ年頃の餓鬼じゃねえか。そんな貴方が罪人として酷い目に遭わされてると聞いて、居ても立ってもいられなくなったんだ』
水徒端は港を指差した。
『あと少しだ。あと少しで、あそこから米国行きの船が出る。そいつに忍び込んで、海を渡っちまうんだ。米国は今、ソヴィエトやヤシマみてえな連中への警戒を強めてる。敵国の皇子様でも、ヤシマの連中よりはずっと真面な扱いを受けられると思う』
『……有難い。なんと有難い話か……』
宮はこのとき、生まれて初めて人の優しさに涙を流す程心を揺さぶられたという。
『この恩は生涯忘れぬ。どうもありがとう』
その後、水徒端泰造はヤシマ政府に捕えられたが、宮は一人米国への密航と亡命を成功させた。
⦿⦿⦿
その後、大智は独逸系米国人の家で住み込みで働きながら、二十年以上もの時を過ごした。
最早一国の皇族であったという出自など誰も気にも留めず、本人も無かったことにして生きていくのだと、そう思っていた。
しかし、そんな彼の許へ一人の男が訪ねて来たのだ。
『殿下、御帰還の準備を』
『誰だ?』
背の高い軍服の中年男と一人の少年――おそらくは父子だろう。
男はやや不遜な笑みを浮かべて名告った。
『小生は鬼獄魅三郎と申す者。此方は息子の入彌で御座います。殿下、機は熟しました。今こそ皇國を取り戻す時ですぞ』
『取り戻す……?』
『はい。今、ヤシマ政府の統治体制は崩壊寸前の状態に御座います。嘗ての神和政府の様に、政の大権を帝の手に再び収めるのです』
『その為に、故国へ帰れと……』
正味のところ、彼は乗り気でなかった。
今更帰ったところで、彼が愛した汎ゆるものはもう二度と戻らない。
今や故国はそれらを殲滅する選択をした者達の国である。
『殿下、嘗て御父上が己の赤子として安寧を祈った臣民達が貧困と飢餓、そして圧政に苦しんでおります。臣民を救えるのは殿下の持たれ給う御力のみに御座います』
大智は目を閉じ、考えた。
生まれ持っていた不思議な力が、嘗てとは比べものにならない程巨大に膨れ上がっているのは自覚している。
この力が多くの民を救い、国家に絶対的繁栄を齎す展望も見える。
彼は本来、棲鴨の監獄で虐待死していた筈だった。
しかし、神の思し召しの如き生命力で生き存え、神の加護の如き運命力で生き延びて、神の為し事の如き超能力を身に付けている。
まるで何かに導かれる様に……。
『我は日ノ本を治めるべき系譜の末裔、ということか……』
大智は決意を固めた。
斯くして彼は「鳳乃神大智」の名で帰国し、人心を一身に集めてヤシマ人民民主主義共和国の転覆と神聖大日本皇國の建国を為した。
そして彼は「神皇」を名乗り、神聖不可侵の帝として君臨。
数奇な運命により、一人の男は再び人間から神となったのだ。
⦿⦿⦿
神皇は皇國の誇る巨大穀物企業「帝嘗」の会長でもある。
その本社は皇宮の敷地内に建っており、中腹の階層の屋根には庭園が設けられている。
研究開発設備も兼ねている庭園には芙蓉の木が植えられており、日が沈んだ後だというのに花が咲き誇っている。
しかしながら、この広々とした空間は社員が昼休みに少し運動をするにも打って付けかも知れない。
神皇はそのような場所に魅琴を案内した。
二人は柵越しに統京の輝く夜景を見詰めている。
眠りに就かない地上の銀河が果てしなく続く光景は、まさに皇國の栄華を映しているようであった。
「それにしても、残念ですわ陛下」
魅琴は柵に肘を掛け、小さく笑みを零した。
「部屋でお休みいただいていらっしゃれば、夢見心地のまますんなりと殺して差し上げましたのに……」
「はっはっは、朕は伊達に亡国と零落から返り咲いた訳ではないぞ。その辺りの感覚は極めて鋭いのだ」
夜の街を見下ろしながら、相変わらず二人は刺客と暗殺対象と思えぬ和やかな会話を紡いでいた。
「しかし、朕を暗殺する上でこの時間帯は極めて理性的な選択といえるだろう」
「理性的?」
「朕が皇國全土に神為を送り、そのエネルギーが重要な電力源となっていることは知っていよう。しかし朕も絶えず送り続ける訳にはいかん。故に、夜間に於いては昼間の蓄電と代替発電に依って電力を賄っているのだ」
「つまりこの瞬間なら、仮令陛下が身罷られても皇國臣民の生活基盤が突然絶たれる訳では無い、と……」
皇國に限らず、先進国に於いて電力は健康で文化的な生活の必需品である。
特に、病床に伏している者達にとって、突然の停電は命に関わる。
仮に魅琴が昼間、神皇が神為を直接皇國全土へ送っている時間帯に行動し、暗殺を成功させてしまったら、皇國全土で罪も無い弱者の命が脅かされる大惨事となっていただろう。
勿論、それでも神皇が消える影響が小さい訳はないのだが、やるならばこの時間帯が最も少ない被害で済むのも事実である。
「そう……でしたか……」
「謙遜かな?」
「いいえ、自分でも驚いています」
魅琴は単に、航と過ごした日々を思い返し、浸り込んでいただけである。
しかし、神皇の言葉に思い当たる節が皆無でもない。
彼女は空港へ向かう途中、無関係の皇國臣民を参級為動機神体の大群から守り、足止めされている。
つまり、今の麗真魅琴は無辜の民が無為に死んでいくことを良しとしない程度の利他的精神を持ち合わせているということだ。
やはり彼女は最早嘗ての邪悪な獣ではない。
知らず知らずのうちに、魅琴は根底から人間になってしまっていた。
誰かを愛することを覚えたが故だろうか。
「精神面でも立派な戦士に育ったようだな。爾の祖父は実に天晴れだ」
「彼を褒められると、少し奇妙な感じがしますね。親族には罵られてばかりの人でしたし、そのような評価に納得もしていますから」
「変なことを言ったかね?」
「そうですね。例えば私が祖父一人に預けられていたとしたら、もっと粗雑に陛下のお首を狙ったでしょう。あの人は御国のことしか考えていませんでしたから……」
魅琴の幼少期、彼女の祖父・麗真魅射は孫が生まれながらに備えた戦闘能力に歓喜し、凶暴性も問題としていなかった。
彼の名誉の為に擁護しておくと、一応は魅琴が一般人の航に凄惨な暴力を振るった際、戦いしか見ていなかったこれまでの接し方を後悔してはいる。
だがそれでも、魅射は魅琴の戦闘能力を護国に利用することを思い止まりはしなかった。
言葉の上で「やめても良い」と言いはしたが、それは結局のところ、逆に決意させる為の方便に過ぎなかった。
しかし現に、魅琴は人間になった。
そんな彼女の中に何かを見出したらしく、神皇は小さく笑みを零した。
「ならば他の肉親か、周囲の大人か、或いは友に恵まれたのだろうな。人間として、実に良い影響を受けたと見える」
「ええ、そうですね……」
魅琴は目を閉じた。
やはり自分の中には彼が、岬守航が深く息衝いているのだ。
それを思い起こすだけで、込み上げて来るものがある。
「私などには勿体ない程……」
「親しき者を遠くに想えるというのは羨ましいな……」
神皇は溜息を吐いた。
「朕などはとうの昔に、一人残らず殺されてしまったのでな」
神皇もまた郷愁の念を呼び起こしているのだろうか。
しかし魅琴と違い、彼の思い出はあまりにも遠い。
百二十年を生きた神皇が全ての肉親や朋友を喪ったのは十四歳の時である。
「聞き及んでおります。波瀾万丈の人生でしたね」
「うむ、誠に多くを見てきた。この地に営む臣民の光も、闇も……」
魅琴は横目に神皇の身体に視線を這わせた。
彼女には相手の状態を一瞥で気取る洞察力と習慣がある。
それもまた、彼女の才能の一つだ。
魅琴はこれから殺そうという相手の衣服の下、小さな身体に刻まれた無数の傷跡を読み取り、神皇の艱難辛苦へ思いを馳せた。
「今でも……臣民をどこか許せずにいるのですか?」
「いいや、許してはいる。嘗て憎んだことは否定出来ん。しかし、もう呑込めておるよ。朕が生まれたのは戦時中、それも結果として敗戦へ向かう、国家の総力戦の最中だ。臣民達は皆屹度、誰かのせいにせずにはいられぬ程に苦しかったのだろうし、その責は間違い無く統治者にあったと言えよう。それに、革命の後を思えば強く責めることも出来ん。故に、過去のことはもう割り切れておる」
言葉とは裏腹に、神皇の横顔には隠し切れない愁いが滲んでいた。
「だが、手放しに臣民を愛していると言えば嘘になろう。神和政府に革命される理由があったということは、裏を返せば臣民とは理由さえあれば何処までも残酷に体制を破壊し得るということだ。身を以て思い知って尚臣民を信じられる程に朕はお人好しでは無いし、無償の愛を注げる程に聖人君子ではない」
神皇の身体がゆっくりと宙へ浮かび、魅琴の遙か上方、柵上へと足を着けた。
そして、彼は両腕を広げた。
それはまるで統京の夜景を、皇國の国土を抱擁する様に。
「叶うならば、一片の曇りも無く愛したかった。遍く我が赤子の傍らに真に寄り添い、共に栄光ある皇國の未来を見続けていたかった……」
「しかし、陛下の御心はそれを望むべくもない、と……」
「誠に、誠に遺憾で、慚愧に堪えぬがな」
振り向いた神皇に、今度は魅琴から手を差し伸べた。
神皇はその手を取ると、羽毛が舞い上がる様な軽やかさで再び宙へ浮かび、魅琴と同じ地平へゆっくりと降り立った。
「陛下、個人としては貴方様に心よりの敬意を表しますわ。陛下の偉大なる人生にここで終止符を打つのは、少し心苦しくありますね。しかし、同時に祖父が常々申していた言葉の意味も理解できたような気がします。祖父にとって、日本人の君主として仰ぐべき帝は天皇陛下のみでした。私もまた、同じ気持ちです」
「うむ、否定はせん。だからこそ、近いうちに叡智へ皇位を譲り、自らは隠れるつもりであった。朕の見果てぬ夢は次代に託す他あるまい」
二人の手が離れた。
必然、両者は互いの腕を足した長さに間合いを取っている。
互いに見詰め合う視線は尚も穏やかであるが、軈て静かに焔を燃やし始める。
「では陛下、そろそろお命を頂戴いたしましょうか」
「此処で果てる覚悟のようだな。言っておくが、臣民と真の絆を結べず、近く全てを授け継ぎ去るべき命なれど、此処で爾にくれてやる程朕はお人好しではないぞよ」
魅琴と神皇、二人の周囲に風が荒ぶり逆巻く。
芙蓉の花弁が天に向かって舞い上がり、両者が互いに臨戦態勢となった情景変化を演出している。
「では、御相手いたそう。爾に下賜されるは、決して亡国の運命を覆せぬという挫折と絶望に塗れた死のみであると知るが良い」
幻想的だった星空はいつの間にか叢雲に覆われ、全てが過去へと変わっていく。
超常の領域の戦いが今始まろうとしていた。
宮は生まれ付き不思議な力を持った少年であったが、露西亜帝国との戦争から続く挙国体勢の戦時下で皇統の神格化に依る国威の発揚に利用された為、このような背景を持った人物の生い立ちに想起される蔑視や迫害などを受けることは表向き無く、概ね幸福な少年時代を送った。
皇族として華族に囲まれて育った宮は、この時期に後の人格を形成する多くの文化的素養を身に付けた。
国情は先行き不透明であったが、それでも宮は自らに大きな不幸が降り掛かるとは考えていなかった。
今や百年以上前の、遠い昔の話である。
最早当時の記憶は温もりと共に色褪せてしまった……。
宮の運命が変わったのは十四歳の時である。
神和維新政府は露西亜との戦争を終わらせることが出来ぬままに激動の世界情勢に呑まれ、世界大戦を同盟国陣営で戦い、敗戦に見舞われた。
更に、そこから露西亜と連動する様に八月革命が勃発し、神和維新政府は完全に斃れてしまった。
当時の共産主義革命による旧体制否定の度合いは凄まじく、国家の伝統の全てを破壊し尽くさん勢いがあった。
革命政府は神和維新によって築き上げられた國體――日本という民族観・国家観をも完全に否定し、ヤシマ人民民主主義共和国の建国を宣言。
皇族・貴族・資本家・財閥企業――旧体制の権威も、資産も、全ては新政府の裁断に委ねられ、老若男女を問わず徹底的に断罪された。
宮が世話になった汎ゆる人物は、宮が心を通わせた汎ゆる相手は、宮が慈しんだ汎ゆる世界は、苦役は破壊と殺戮によって塗り潰されていった。
宮もまた国威発揚に利用された背景を危険視され、幽閉されてしまった。
囚われの宮は語るも悍ましい拷問を心身両面に受け、何度も生死の境を彷徨った。
ヤシマ政府の中枢に居た或る男は、このときの宮の生命力を「まるで神に守られているかの様だった」と述懐している。
当時から成長の止まってしまった玉体には今尚、拷問によって刻まれた数多の傷が残されている。
とはいえ、宮は日を追うごとに確実に衰弱していき、遅かれ早かれ尊厳凌辱の末に惨めな死を迎えることは確実かに思われた。
宮自身もそう考えていたという。
そんな宮の運命を変えたのは、一人の男に残された一欠片の良心だった。
『殿下、一緒に逃げやしょう!』
宮を始めとした旧体制の政治犯を収容していた棲鴨監獄、其処から出る塵の集荷を担っていた男・水徒端泰造が、宮の脱走を手引きしたのだ。
後に彼の子孫である水徒端早辺子が、同じヤシマ政府の後継組織である武装戦隊・狼ノ牙から岬守航達を脱走させたというのは、果たして何の因果だろうか。
水徒端泰造は監獄から塵を運び出す振りをして、塵芥車の助手席へと宮を押し込み、埋め立て地へ向かう振りをして空港へ向かった。
途中で一般の自動車へと乗り換える際、宮はこの恩人に尋ねた。
『何故……余を助けた?』
『だって、貴方は何も悪くねえもの。偶々あの家に生まれたってだけの、俺の子と同じ年頃の餓鬼じゃねえか。そんな貴方が罪人として酷い目に遭わされてると聞いて、居ても立ってもいられなくなったんだ』
水徒端は港を指差した。
『あと少しだ。あと少しで、あそこから米国行きの船が出る。そいつに忍び込んで、海を渡っちまうんだ。米国は今、ソヴィエトやヤシマみてえな連中への警戒を強めてる。敵国の皇子様でも、ヤシマの連中よりはずっと真面な扱いを受けられると思う』
『……有難い。なんと有難い話か……』
宮はこのとき、生まれて初めて人の優しさに涙を流す程心を揺さぶられたという。
『この恩は生涯忘れぬ。どうもありがとう』
その後、水徒端泰造はヤシマ政府に捕えられたが、宮は一人米国への密航と亡命を成功させた。
⦿⦿⦿
その後、大智は独逸系米国人の家で住み込みで働きながら、二十年以上もの時を過ごした。
最早一国の皇族であったという出自など誰も気にも留めず、本人も無かったことにして生きていくのだと、そう思っていた。
しかし、そんな彼の許へ一人の男が訪ねて来たのだ。
『殿下、御帰還の準備を』
『誰だ?』
背の高い軍服の中年男と一人の少年――おそらくは父子だろう。
男はやや不遜な笑みを浮かべて名告った。
『小生は鬼獄魅三郎と申す者。此方は息子の入彌で御座います。殿下、機は熟しました。今こそ皇國を取り戻す時ですぞ』
『取り戻す……?』
『はい。今、ヤシマ政府の統治体制は崩壊寸前の状態に御座います。嘗ての神和政府の様に、政の大権を帝の手に再び収めるのです』
『その為に、故国へ帰れと……』
正味のところ、彼は乗り気でなかった。
今更帰ったところで、彼が愛した汎ゆるものはもう二度と戻らない。
今や故国はそれらを殲滅する選択をした者達の国である。
『殿下、嘗て御父上が己の赤子として安寧を祈った臣民達が貧困と飢餓、そして圧政に苦しんでおります。臣民を救えるのは殿下の持たれ給う御力のみに御座います』
大智は目を閉じ、考えた。
生まれ持っていた不思議な力が、嘗てとは比べものにならない程巨大に膨れ上がっているのは自覚している。
この力が多くの民を救い、国家に絶対的繁栄を齎す展望も見える。
彼は本来、棲鴨の監獄で虐待死していた筈だった。
しかし、神の思し召しの如き生命力で生き存え、神の加護の如き運命力で生き延びて、神の為し事の如き超能力を身に付けている。
まるで何かに導かれる様に……。
『我は日ノ本を治めるべき系譜の末裔、ということか……』
大智は決意を固めた。
斯くして彼は「鳳乃神大智」の名で帰国し、人心を一身に集めてヤシマ人民民主主義共和国の転覆と神聖大日本皇國の建国を為した。
そして彼は「神皇」を名乗り、神聖不可侵の帝として君臨。
数奇な運命により、一人の男は再び人間から神となったのだ。
⦿⦿⦿
神皇は皇國の誇る巨大穀物企業「帝嘗」の会長でもある。
その本社は皇宮の敷地内に建っており、中腹の階層の屋根には庭園が設けられている。
研究開発設備も兼ねている庭園には芙蓉の木が植えられており、日が沈んだ後だというのに花が咲き誇っている。
しかしながら、この広々とした空間は社員が昼休みに少し運動をするにも打って付けかも知れない。
神皇はそのような場所に魅琴を案内した。
二人は柵越しに統京の輝く夜景を見詰めている。
眠りに就かない地上の銀河が果てしなく続く光景は、まさに皇國の栄華を映しているようであった。
「それにしても、残念ですわ陛下」
魅琴は柵に肘を掛け、小さく笑みを零した。
「部屋でお休みいただいていらっしゃれば、夢見心地のまますんなりと殺して差し上げましたのに……」
「はっはっは、朕は伊達に亡国と零落から返り咲いた訳ではないぞ。その辺りの感覚は極めて鋭いのだ」
夜の街を見下ろしながら、相変わらず二人は刺客と暗殺対象と思えぬ和やかな会話を紡いでいた。
「しかし、朕を暗殺する上でこの時間帯は極めて理性的な選択といえるだろう」
「理性的?」
「朕が皇國全土に神為を送り、そのエネルギーが重要な電力源となっていることは知っていよう。しかし朕も絶えず送り続ける訳にはいかん。故に、夜間に於いては昼間の蓄電と代替発電に依って電力を賄っているのだ」
「つまりこの瞬間なら、仮令陛下が身罷られても皇國臣民の生活基盤が突然絶たれる訳では無い、と……」
皇國に限らず、先進国に於いて電力は健康で文化的な生活の必需品である。
特に、病床に伏している者達にとって、突然の停電は命に関わる。
仮に魅琴が昼間、神皇が神為を直接皇國全土へ送っている時間帯に行動し、暗殺を成功させてしまったら、皇國全土で罪も無い弱者の命が脅かされる大惨事となっていただろう。
勿論、それでも神皇が消える影響が小さい訳はないのだが、やるならばこの時間帯が最も少ない被害で済むのも事実である。
「そう……でしたか……」
「謙遜かな?」
「いいえ、自分でも驚いています」
魅琴は単に、航と過ごした日々を思い返し、浸り込んでいただけである。
しかし、神皇の言葉に思い当たる節が皆無でもない。
彼女は空港へ向かう途中、無関係の皇國臣民を参級為動機神体の大群から守り、足止めされている。
つまり、今の麗真魅琴は無辜の民が無為に死んでいくことを良しとしない程度の利他的精神を持ち合わせているということだ。
やはり彼女は最早嘗ての邪悪な獣ではない。
知らず知らずのうちに、魅琴は根底から人間になってしまっていた。
誰かを愛することを覚えたが故だろうか。
「精神面でも立派な戦士に育ったようだな。爾の祖父は実に天晴れだ」
「彼を褒められると、少し奇妙な感じがしますね。親族には罵られてばかりの人でしたし、そのような評価に納得もしていますから」
「変なことを言ったかね?」
「そうですね。例えば私が祖父一人に預けられていたとしたら、もっと粗雑に陛下のお首を狙ったでしょう。あの人は御国のことしか考えていませんでしたから……」
魅琴の幼少期、彼女の祖父・麗真魅射は孫が生まれながらに備えた戦闘能力に歓喜し、凶暴性も問題としていなかった。
彼の名誉の為に擁護しておくと、一応は魅琴が一般人の航に凄惨な暴力を振るった際、戦いしか見ていなかったこれまでの接し方を後悔してはいる。
だがそれでも、魅射は魅琴の戦闘能力を護国に利用することを思い止まりはしなかった。
言葉の上で「やめても良い」と言いはしたが、それは結局のところ、逆に決意させる為の方便に過ぎなかった。
しかし現に、魅琴は人間になった。
そんな彼女の中に何かを見出したらしく、神皇は小さく笑みを零した。
「ならば他の肉親か、周囲の大人か、或いは友に恵まれたのだろうな。人間として、実に良い影響を受けたと見える」
「ええ、そうですね……」
魅琴は目を閉じた。
やはり自分の中には彼が、岬守航が深く息衝いているのだ。
それを思い起こすだけで、込み上げて来るものがある。
「私などには勿体ない程……」
「親しき者を遠くに想えるというのは羨ましいな……」
神皇は溜息を吐いた。
「朕などはとうの昔に、一人残らず殺されてしまったのでな」
神皇もまた郷愁の念を呼び起こしているのだろうか。
しかし魅琴と違い、彼の思い出はあまりにも遠い。
百二十年を生きた神皇が全ての肉親や朋友を喪ったのは十四歳の時である。
「聞き及んでおります。波瀾万丈の人生でしたね」
「うむ、誠に多くを見てきた。この地に営む臣民の光も、闇も……」
魅琴は横目に神皇の身体に視線を這わせた。
彼女には相手の状態を一瞥で気取る洞察力と習慣がある。
それもまた、彼女の才能の一つだ。
魅琴はこれから殺そうという相手の衣服の下、小さな身体に刻まれた無数の傷跡を読み取り、神皇の艱難辛苦へ思いを馳せた。
「今でも……臣民をどこか許せずにいるのですか?」
「いいや、許してはいる。嘗て憎んだことは否定出来ん。しかし、もう呑込めておるよ。朕が生まれたのは戦時中、それも結果として敗戦へ向かう、国家の総力戦の最中だ。臣民達は皆屹度、誰かのせいにせずにはいられぬ程に苦しかったのだろうし、その責は間違い無く統治者にあったと言えよう。それに、革命の後を思えば強く責めることも出来ん。故に、過去のことはもう割り切れておる」
言葉とは裏腹に、神皇の横顔には隠し切れない愁いが滲んでいた。
「だが、手放しに臣民を愛していると言えば嘘になろう。神和政府に革命される理由があったということは、裏を返せば臣民とは理由さえあれば何処までも残酷に体制を破壊し得るということだ。身を以て思い知って尚臣民を信じられる程に朕はお人好しでは無いし、無償の愛を注げる程に聖人君子ではない」
神皇の身体がゆっくりと宙へ浮かび、魅琴の遙か上方、柵上へと足を着けた。
そして、彼は両腕を広げた。
それはまるで統京の夜景を、皇國の国土を抱擁する様に。
「叶うならば、一片の曇りも無く愛したかった。遍く我が赤子の傍らに真に寄り添い、共に栄光ある皇國の未来を見続けていたかった……」
「しかし、陛下の御心はそれを望むべくもない、と……」
「誠に、誠に遺憾で、慚愧に堪えぬがな」
振り向いた神皇に、今度は魅琴から手を差し伸べた。
神皇はその手を取ると、羽毛が舞い上がる様な軽やかさで再び宙へ浮かび、魅琴と同じ地平へゆっくりと降り立った。
「陛下、個人としては貴方様に心よりの敬意を表しますわ。陛下の偉大なる人生にここで終止符を打つのは、少し心苦しくありますね。しかし、同時に祖父が常々申していた言葉の意味も理解できたような気がします。祖父にとって、日本人の君主として仰ぐべき帝は天皇陛下のみでした。私もまた、同じ気持ちです」
「うむ、否定はせん。だからこそ、近いうちに叡智へ皇位を譲り、自らは隠れるつもりであった。朕の見果てぬ夢は次代に託す他あるまい」
二人の手が離れた。
必然、両者は互いの腕を足した長さに間合いを取っている。
互いに見詰め合う視線は尚も穏やかであるが、軈て静かに焔を燃やし始める。
「では陛下、そろそろお命を頂戴いたしましょうか」
「此処で果てる覚悟のようだな。言っておくが、臣民と真の絆を結べず、近く全てを授け継ぎ去るべき命なれど、此処で爾にくれてやる程朕はお人好しではないぞよ」
魅琴と神皇、二人の周囲に風が荒ぶり逆巻く。
芙蓉の花弁が天に向かって舞い上がり、両者が互いに臨戦態勢となった情景変化を演出している。
「では、御相手いたそう。爾に下賜されるは、決して亡国の運命を覆せぬという挫折と絶望に塗れた死のみであると知るが良い」
幻想的だった星空はいつの間にか叢雲に覆われ、全てが過去へと変わっていく。
超常の領域の戦いが今始まろうとしていた。
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15歳になったローゼは師ディルと別れ、両親の仇である黒髪の女を探し出すため、そして悪政により荒廃しつつある祖国の現状を確かめるため旅立つ。
国境の街ビオレールで冒険者として活動を始めたローゼは、運命的な出会いを果たす。因縁の仇と同じ黒髪と漆黒の剣を持つ少年傭兵リョウ。自由奔放で可愛いが、何か秘密を抱えていそうなエルフの美少女ベレニス。クセの強い仲間たちと共にローゼの新たな人生が動き出す。
これは王女の身分を失った最強天才魔女ローゼが、復讐の誓いを胸に仲間たちとの絆を育みながら、王国の闇や自らの運命に立ち向かう物語。友情、復讐、恋愛、魔法、剣戟、謀略が織りなす、ダークファンタジー英雄譚が、今、幕を開ける。
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異世界帰りのハーレム王
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