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第二章『神皇篇』
第五十五話『帰還』 破
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その簡単な言葉を口に出すまでに、どれ程の躊躇いと、回り道と、言い訳と、諦めと、再起と、自己嫌悪と、捕らぬ狸の皮算用を繰り返してきただろうか。
航は遂に此処へと辿り着いた。
漸く、漸く航は魅琴に想いを告げた。
「よくもまあ、分かりきったことを散々勿体付けたものよね」
魅琴は呆れ果てた様に笑った。
「分かりきったこと、か……」
「ええ、もうバレバレよ」
航が魅琴への恋心を自覚したのは中学時代にまで遡る。
それだけ前から、長期間に亘って好意を完全に隠し通せる筈も無かった。
航はこれまで、時折魅琴に対して露骨に色目を使ってきたし、言い寄る相手に嫉妬を剥き出しにしてきた。
これで気付くなという方が無理だろう。
「ま、確かに今更だとは思うけどね。随分と待たせてしまったかな」
「本当にね。でも、航らしいわ」
「どういう意味だよ」
「だって貴方、基本的にヘタレじゃない」
二人はいつものように笑い合った。
もうこんな会話などで着ないかと思われたが、無事に元の鞘に戻ったようだ。
しかし、航は既に旧来の関係から踏み出している。
その答えの如何によっては、やはり二人の関係は決定的に変わるだろう。
航は恐る恐る、しかしある程度の確信を持って魅琴に尋ねる。
「そういう君はどうなんだ? 返事を聞かせてほしいんだが……」
「そうね……」
魅琴は微笑みを浮かべたまま考え込んだ。
航だけでなく、魅琴の方も何かと匂わせてはいた。
唯の幼馴染を相手にするには、彼女の態度はあまりにも親身だった。
何より、航の行方を探し求めて皇國まで乗り込むなど、よっぽどだろう。
互いに見つめ合った視線が一つの線に繋がる。
その表情は、まるで中高生の様に初々しい。
「貴方が勇気を出してくれたことは、とても嬉しいわ」
「それって……」
「ええ。使命が無ければ私の方から告白したかったくらいよ。ただ、そうする訳には行かなかった。そういう意味では、貴方がここまで時間を掛ける様なヘタレで良かったかも知れないわ」
魅琴の答えは、航の考えは正しかったと事実上告げるものだった。
しかし、それにしてはどこか釈然としない、回りくどい言い方である。
まるで何かを避ける為に迂回しているかの様だ。
そう、魅琴にはまだ一つ懸案を残している。
「けれども一つだけ、私は貴方の誤解を正しておかなくてはならないの」
「え?」
魅琴は再び愁いを含んだ影のある微笑みを浮かべた。
航には、ここへ来ての彼女の意図が今一つ掴めない。
胸に一抹の不安が去来する。
「昨日も謝ったけれど、私は空港で貴方に随分と酷い事をしてしまったわ」
「なんだ、その事か。済んだことだし、君の背負ってきたものは解った。もう充分、何故君があんなことをしたのか理解したよ。だからもう良いじゃないか」
「違うの」
魅琴は首を振った。
航が許している以上、このまま収めてしまうことは出来る筈である。
しかし、魅琴はそうしないらしい。
まだ彼女には、隠されたもう一つの心があるからだ。
「確かに、私は貴方を守りたかった。自分の使命に巻き込みたくなかった。だからああした。それは確かに一つの理由。でもね……」
魅琴は航から視線を逸らし、眼を伏せた。
「一方で私は、貴方への仕打ちを心の底から愉しんでいたわ」
「な、何を言って……?」
「信じられないでしょう? でも、それもまた本心よ。ずっとね、やってみたかったの。もう一度貴方を滅茶苦茶に壊したかった。執拗に暴行を加えたのも、土下座させたのも、靴の裏を舐めさせたのも、唾を吐き付けたのも、ずっとずっとやってみたかった。夢が叶って、最高の気分だったわ……」
予想外の告白に、航は驚愕した。
この期に及んで何を言っているのか。
もうわざと露悪的に振る舞う必要など無いのに。
「どうして……そんなことを言うんだ?」
「貴方のことは好きよ。でも、だからこそ虐めたくなってしまう。嫐りたくなってしまう。辛そうな表情に愛おしさを感じてしまう。苦しめることに悦びを覚えてしまう。……それが私の紛れも無い本性なの。自分が最低の人間で、あの時最悪のことを考えていたんだって、ひた隠しにしたままでは航を騙してしまうことになる。このまま貴方の好意を受け取ってしまうのは誠意に欠けるわ。もう貴方を裏切れない」
絶句する航に、魅琴は再び眼を合わせた。
その微笑みにはどこか哀しげな諦観が混じっていた。
「だから、告白を撤回したって責めはしないわ。元々幻滅される為にあんなことをしたんだし、散々愉しんでおいて傷付けられた貴方の心変わりを認めないなんて、虫が良すぎると思うから……」
航は頭を掻いた。
ここへ来て彼は奇妙なことを考えていた。
「いや、なんかそんな気は薄々してたよ」
「え?」
「ぶっちゃけ君ってドSだよね? 僕も今まで散々そう言ってきたじゃん」
「あ……」
「そういうところも含めて、僕は君が好きだって言ってるんだよ」
意外な反応だったのか、魅琴は目を丸くしていた。
「い、いや……。それはそうだとしてもあれは流石に度を超しているでしょう?」
「まあ、そうは思うよ。でもま、そうか……。魅琴がそれを言っちゃうなら、僕も墓場まで持って行こうとしていた秘密を言わない訳にはいかないよな……」
「ひ、秘密……?」
魅琴は首を傾げた。
そんな彼女から、今度は航が視線を外している。
「どういうこと?」
「いや、どこからどう切り出したものか……。平たく言うと、僕もずっと隠していたことがあって、君も僕を誤解しているってことだよ」
「誤解?」
航が身体をそわそわし始めたのを見て、魅琴は更に怪訝そうに眉を顰めて首を捻る。
「実は、その……あの時一寸だけ愉しんでいたのは僕も同じなんだよね……」
「は? え?」
恥じらいから消え入りそうな小声で呟いた航、目を丸くして口を開けている魅琴。
「え、あの……能く解らないのだけれど、あの時っていつのこと?」
「昨日の……空港の……あの時です……」
航は顔を伏せて縮こまって答えた。
魅琴はまだ信じられない様子で、更なる羞恥の追撃を無自覚に加える。
「えっと……ごめんなさいね。貴方、今『僕も』って云ったわよね? 『も』ってことは、私も愉しんでいた時ということだけれど、昨日私が愉しんでいたのって航に滅茶苦茶な暴行を加えていた時だって話だったわよね? どういうこと? あの時、航も愉しんでいた、と? そんなことってある?」
「も、勿論一寸だけだよ? 感情の大部分では『酷い』と思ったし、傷付いたよ。痛かったし、怖かったし、辛かったし、悲しかった。挫折感と、敗北感と、屈辱感と、喪失感で一杯だった。夢なら覚めて欲しかったし、結果的に嘘の様なものだったから助かったよ」
「え……ええ、でしょうね。そう云われると、解ってはいるけれども胸に来るわね」
「でもさ、夢は夢でも百パーセント悪夢だとは言い切れないんだ……よね……」
「いや、それがなんでなのよ」
「解らないかなあ?」
航は羞恥心が限界を突破して思わず声を荒らげた。
「僕はMなの! だから君のドSなところも好きなんだって! 君の中に怪物が居るように、僕の中にも畜生が棲んでいるんだよ! 君が最低なら、僕だって最低だ!」
「え、ええ……?」
一気に捲し立てた航だったが、魅琴が引き攣った笑みを浮かべているのを見て我に返り、両手で顔を覆って蹲った。
「ごめん、滅茶苦茶恥ずかしい。消えたい……」
そんな航の様子に、魅琴は心底呆れた様に溜息を吐いた。
「ああ、貴方ってそういう人だったのね。ふーん……」
「はい……」
「まさか、執拗に暴行を加えたのも、土下座させたのも、靴の裏を舐めさせたのも、唾を吐き付けたのも、ずっとずっとされてみたかった?」
「暴行以外は……」
「あ、それは駄目なのね」
「唯痛い目に遭えば良いってわけじゃないから……」
「もしかして、知らない間に調教しちゃってたってこと?」
「多分……」
魅琴からの質問はある意味で言葉責めだった。
質疑応答の後、暫し奇妙な沈黙が流れる。
重い空気が壊れた、なんとも軽妙な沈黙である。
「ぷっ、あはははははは!」
魅琴は噴き出して笑い始めた。
それまでの愁いがすっかり消えた様な、腹の底から込み上げた様な笑いだった。
「おいおい、他人の性癖を笑うなよ。大体、こんな風に歪めたのは君なんだからな」
「あはは、ごめんなさい。だって、流石に笑っちゃうでしょう、こんなの。何だか自己嫌悪していた自分が莫迦みたい」
「そうか、それは良かった」
航もまた、すっかり蟠りが解けた様子の魅琴を見て嬉しさから笑みを零した。
それは季節外れの雪解け、といったところだろうか。
「良かった、航が変態で」
「お互い様だよ」
「正直、こんな莫迦莫迦しい救われ方があるだなんて夢にも思わなかったわ」
航は一息吐くと、改めて魅琴と向き合った。
「ま、だからあの時の君の気持ちは結構解るんだよね。愉しいけど悲しい、悲しいけど愉しい、一言では説明出来ない複雑な感情があったんだ」
「ええ、そうね」
「それにね、君は屹度『美辞麗句を並べ立てて理由を付けても、本質は暴行を愉しんだだけ』と思っているんだろう。でも、僕はもう一つの考え方があると思う」
考えが纏まってきた。
航の中で出た一つの答えが今、魅琴に告げられる。
「君は心の中でどんなに汚いことを思っていたとしても、結局は僕や日本を守る為に己を棄てて戦ったんだ。自分を殺してまで。同じく『御託よりも、内心よりも、実際の行動』であるなら、僕は寧ろそっちを選びたい。この僕がそう思っているんだよ」
「そうかしら……」
「第一、僕達の関係は最初からお互いの罪を呑み込んで、歩み寄って、理解し合って、許し合うところから始まっているじゃないか。あの時は僕が先に不躾なことをした、君が僕をボコボコにした。今回は僕が君に全てを背負わせた、君が僕をボコボコにした」
「私、貴方をボコボコにしてばかりね……」
「う、うん。まあそれは兎も角、また同じように絆を繋げば良いじゃないか」
今、航と魅琴は病室で互いに微笑み合っている。
その姿は丁度、出会った頃とかが見合わせだ。
あの時は航が入院し、魅琴が見舞いに来ていたが、今は魅琴が入院し、航が見舞いに来ている。
二人の関係はもう一度此処から始まるのだ。
魅琴は静かに息を吐き、大事な問いを投げ掛けてくる。
「それで? 貴方の気持ちは聞かせてもらったけれど、だから貴方は私にどうして欲しいの? どうせなら、そこまで聞かせてくれないかしら」
「ああ、そうだね」
航もまた、改めて深呼吸した。
しかし今度はそこまでの覚悟は要らない。
あとはもう、気持ちを素直にぶつけるだけだ。
「僕と付き合ってくれないか? 君と、唯の幼馴染から恋人同士の関係に進みたい」
航は魅琴に手を差し出した。
後は魅琴がこの手を取ってくれれば、航の悲願は叶う。
「ふふ、そうね……」
魅琴は悪戯っぽく、意地悪に微笑むと、航の手を取った。
のみならず、ぐいと引っ張って航の耳に唇を近付けた。
突然の、予想外の行動に戸惑う航に対し、魅琴は蠱惑的な眼をして囁く。
「『僕を奴隷にしてください』じゃなくて良いの?」
「そ、それは……」
「ふふ、冗談よ。でも、貴方が望むなら構わないわよ」
航は嘗て無いほどドギマギしていた。
あまりの高揚感に心臓の鼓動を感じる。
そんな航に魅琴は更に身体を寄せ、殆ど密着させる。
心地良い感触が航を包み込んだ。
「あの、そんなに身体を押し当てて、傷は痛まないの?」
「大丈夫よ。兎黄泉ちゃんの神為と貴方との会話で随分元気になったから。多少は痛むけど、貴方を感じられるならどうってことないわ」
「そ、そう。何よりだね」
「因みに私、生まれ付き人体のことは知り尽くしているから、どこをどうすればどう感じるかが手に取る様に解るのよ」
「つ、つまり……」
「ま、楽しみにしておきなさい」
固まる航を余所に、魅琴は身体を離した。
そして再び涼やかに微笑むと、真面目な答えを返す。
「恋人同士ね、願ってもないわ。是非、宜しくお願いします」
「おお、やった!」
「退院が楽しみね。デートしたり、共同作業したり、沢山二人の思い出を作りましょう」
「ああ。ま、暫くお預けなのは残念だけど、今はのんびりと身体を休めてくれ」
こうして、遂に航は魅琴と交際することになった。
彼の、二人の念願叶って、目出度し目出度し、といったところだろうか。
否、一つだけ航にはやり残したことがあった。
航は遂に此処へと辿り着いた。
漸く、漸く航は魅琴に想いを告げた。
「よくもまあ、分かりきったことを散々勿体付けたものよね」
魅琴は呆れ果てた様に笑った。
「分かりきったこと、か……」
「ええ、もうバレバレよ」
航が魅琴への恋心を自覚したのは中学時代にまで遡る。
それだけ前から、長期間に亘って好意を完全に隠し通せる筈も無かった。
航はこれまで、時折魅琴に対して露骨に色目を使ってきたし、言い寄る相手に嫉妬を剥き出しにしてきた。
これで気付くなという方が無理だろう。
「ま、確かに今更だとは思うけどね。随分と待たせてしまったかな」
「本当にね。でも、航らしいわ」
「どういう意味だよ」
「だって貴方、基本的にヘタレじゃない」
二人はいつものように笑い合った。
もうこんな会話などで着ないかと思われたが、無事に元の鞘に戻ったようだ。
しかし、航は既に旧来の関係から踏み出している。
その答えの如何によっては、やはり二人の関係は決定的に変わるだろう。
航は恐る恐る、しかしある程度の確信を持って魅琴に尋ねる。
「そういう君はどうなんだ? 返事を聞かせてほしいんだが……」
「そうね……」
魅琴は微笑みを浮かべたまま考え込んだ。
航だけでなく、魅琴の方も何かと匂わせてはいた。
唯の幼馴染を相手にするには、彼女の態度はあまりにも親身だった。
何より、航の行方を探し求めて皇國まで乗り込むなど、よっぽどだろう。
互いに見つめ合った視線が一つの線に繋がる。
その表情は、まるで中高生の様に初々しい。
「貴方が勇気を出してくれたことは、とても嬉しいわ」
「それって……」
「ええ。使命が無ければ私の方から告白したかったくらいよ。ただ、そうする訳には行かなかった。そういう意味では、貴方がここまで時間を掛ける様なヘタレで良かったかも知れないわ」
魅琴の答えは、航の考えは正しかったと事実上告げるものだった。
しかし、それにしてはどこか釈然としない、回りくどい言い方である。
まるで何かを避ける為に迂回しているかの様だ。
そう、魅琴にはまだ一つ懸案を残している。
「けれども一つだけ、私は貴方の誤解を正しておかなくてはならないの」
「え?」
魅琴は再び愁いを含んだ影のある微笑みを浮かべた。
航には、ここへ来ての彼女の意図が今一つ掴めない。
胸に一抹の不安が去来する。
「昨日も謝ったけれど、私は空港で貴方に随分と酷い事をしてしまったわ」
「なんだ、その事か。済んだことだし、君の背負ってきたものは解った。もう充分、何故君があんなことをしたのか理解したよ。だからもう良いじゃないか」
「違うの」
魅琴は首を振った。
航が許している以上、このまま収めてしまうことは出来る筈である。
しかし、魅琴はそうしないらしい。
まだ彼女には、隠されたもう一つの心があるからだ。
「確かに、私は貴方を守りたかった。自分の使命に巻き込みたくなかった。だからああした。それは確かに一つの理由。でもね……」
魅琴は航から視線を逸らし、眼を伏せた。
「一方で私は、貴方への仕打ちを心の底から愉しんでいたわ」
「な、何を言って……?」
「信じられないでしょう? でも、それもまた本心よ。ずっとね、やってみたかったの。もう一度貴方を滅茶苦茶に壊したかった。執拗に暴行を加えたのも、土下座させたのも、靴の裏を舐めさせたのも、唾を吐き付けたのも、ずっとずっとやってみたかった。夢が叶って、最高の気分だったわ……」
予想外の告白に、航は驚愕した。
この期に及んで何を言っているのか。
もうわざと露悪的に振る舞う必要など無いのに。
「どうして……そんなことを言うんだ?」
「貴方のことは好きよ。でも、だからこそ虐めたくなってしまう。嫐りたくなってしまう。辛そうな表情に愛おしさを感じてしまう。苦しめることに悦びを覚えてしまう。……それが私の紛れも無い本性なの。自分が最低の人間で、あの時最悪のことを考えていたんだって、ひた隠しにしたままでは航を騙してしまうことになる。このまま貴方の好意を受け取ってしまうのは誠意に欠けるわ。もう貴方を裏切れない」
絶句する航に、魅琴は再び眼を合わせた。
その微笑みにはどこか哀しげな諦観が混じっていた。
「だから、告白を撤回したって責めはしないわ。元々幻滅される為にあんなことをしたんだし、散々愉しんでおいて傷付けられた貴方の心変わりを認めないなんて、虫が良すぎると思うから……」
航は頭を掻いた。
ここへ来て彼は奇妙なことを考えていた。
「いや、なんかそんな気は薄々してたよ」
「え?」
「ぶっちゃけ君ってドSだよね? 僕も今まで散々そう言ってきたじゃん」
「あ……」
「そういうところも含めて、僕は君が好きだって言ってるんだよ」
意外な反応だったのか、魅琴は目を丸くしていた。
「い、いや……。それはそうだとしてもあれは流石に度を超しているでしょう?」
「まあ、そうは思うよ。でもま、そうか……。魅琴がそれを言っちゃうなら、僕も墓場まで持って行こうとしていた秘密を言わない訳にはいかないよな……」
「ひ、秘密……?」
魅琴は首を傾げた。
そんな彼女から、今度は航が視線を外している。
「どういうこと?」
「いや、どこからどう切り出したものか……。平たく言うと、僕もずっと隠していたことがあって、君も僕を誤解しているってことだよ」
「誤解?」
航が身体をそわそわし始めたのを見て、魅琴は更に怪訝そうに眉を顰めて首を捻る。
「実は、その……あの時一寸だけ愉しんでいたのは僕も同じなんだよね……」
「は? え?」
恥じらいから消え入りそうな小声で呟いた航、目を丸くして口を開けている魅琴。
「え、あの……能く解らないのだけれど、あの時っていつのこと?」
「昨日の……空港の……あの時です……」
航は顔を伏せて縮こまって答えた。
魅琴はまだ信じられない様子で、更なる羞恥の追撃を無自覚に加える。
「えっと……ごめんなさいね。貴方、今『僕も』って云ったわよね? 『も』ってことは、私も愉しんでいた時ということだけれど、昨日私が愉しんでいたのって航に滅茶苦茶な暴行を加えていた時だって話だったわよね? どういうこと? あの時、航も愉しんでいた、と? そんなことってある?」
「も、勿論一寸だけだよ? 感情の大部分では『酷い』と思ったし、傷付いたよ。痛かったし、怖かったし、辛かったし、悲しかった。挫折感と、敗北感と、屈辱感と、喪失感で一杯だった。夢なら覚めて欲しかったし、結果的に嘘の様なものだったから助かったよ」
「え……ええ、でしょうね。そう云われると、解ってはいるけれども胸に来るわね」
「でもさ、夢は夢でも百パーセント悪夢だとは言い切れないんだ……よね……」
「いや、それがなんでなのよ」
「解らないかなあ?」
航は羞恥心が限界を突破して思わず声を荒らげた。
「僕はMなの! だから君のドSなところも好きなんだって! 君の中に怪物が居るように、僕の中にも畜生が棲んでいるんだよ! 君が最低なら、僕だって最低だ!」
「え、ええ……?」
一気に捲し立てた航だったが、魅琴が引き攣った笑みを浮かべているのを見て我に返り、両手で顔を覆って蹲った。
「ごめん、滅茶苦茶恥ずかしい。消えたい……」
そんな航の様子に、魅琴は心底呆れた様に溜息を吐いた。
「ああ、貴方ってそういう人だったのね。ふーん……」
「はい……」
「まさか、執拗に暴行を加えたのも、土下座させたのも、靴の裏を舐めさせたのも、唾を吐き付けたのも、ずっとずっとされてみたかった?」
「暴行以外は……」
「あ、それは駄目なのね」
「唯痛い目に遭えば良いってわけじゃないから……」
「もしかして、知らない間に調教しちゃってたってこと?」
「多分……」
魅琴からの質問はある意味で言葉責めだった。
質疑応答の後、暫し奇妙な沈黙が流れる。
重い空気が壊れた、なんとも軽妙な沈黙である。
「ぷっ、あはははははは!」
魅琴は噴き出して笑い始めた。
それまでの愁いがすっかり消えた様な、腹の底から込み上げた様な笑いだった。
「おいおい、他人の性癖を笑うなよ。大体、こんな風に歪めたのは君なんだからな」
「あはは、ごめんなさい。だって、流石に笑っちゃうでしょう、こんなの。何だか自己嫌悪していた自分が莫迦みたい」
「そうか、それは良かった」
航もまた、すっかり蟠りが解けた様子の魅琴を見て嬉しさから笑みを零した。
それは季節外れの雪解け、といったところだろうか。
「良かった、航が変態で」
「お互い様だよ」
「正直、こんな莫迦莫迦しい救われ方があるだなんて夢にも思わなかったわ」
航は一息吐くと、改めて魅琴と向き合った。
「ま、だからあの時の君の気持ちは結構解るんだよね。愉しいけど悲しい、悲しいけど愉しい、一言では説明出来ない複雑な感情があったんだ」
「ええ、そうね」
「それにね、君は屹度『美辞麗句を並べ立てて理由を付けても、本質は暴行を愉しんだだけ』と思っているんだろう。でも、僕はもう一つの考え方があると思う」
考えが纏まってきた。
航の中で出た一つの答えが今、魅琴に告げられる。
「君は心の中でどんなに汚いことを思っていたとしても、結局は僕や日本を守る為に己を棄てて戦ったんだ。自分を殺してまで。同じく『御託よりも、内心よりも、実際の行動』であるなら、僕は寧ろそっちを選びたい。この僕がそう思っているんだよ」
「そうかしら……」
「第一、僕達の関係は最初からお互いの罪を呑み込んで、歩み寄って、理解し合って、許し合うところから始まっているじゃないか。あの時は僕が先に不躾なことをした、君が僕をボコボコにした。今回は僕が君に全てを背負わせた、君が僕をボコボコにした」
「私、貴方をボコボコにしてばかりね……」
「う、うん。まあそれは兎も角、また同じように絆を繋げば良いじゃないか」
今、航と魅琴は病室で互いに微笑み合っている。
その姿は丁度、出会った頃とかが見合わせだ。
あの時は航が入院し、魅琴が見舞いに来ていたが、今は魅琴が入院し、航が見舞いに来ている。
二人の関係はもう一度此処から始まるのだ。
魅琴は静かに息を吐き、大事な問いを投げ掛けてくる。
「それで? 貴方の気持ちは聞かせてもらったけれど、だから貴方は私にどうして欲しいの? どうせなら、そこまで聞かせてくれないかしら」
「ああ、そうだね」
航もまた、改めて深呼吸した。
しかし今度はそこまでの覚悟は要らない。
あとはもう、気持ちを素直にぶつけるだけだ。
「僕と付き合ってくれないか? 君と、唯の幼馴染から恋人同士の関係に進みたい」
航は魅琴に手を差し出した。
後は魅琴がこの手を取ってくれれば、航の悲願は叶う。
「ふふ、そうね……」
魅琴は悪戯っぽく、意地悪に微笑むと、航の手を取った。
のみならず、ぐいと引っ張って航の耳に唇を近付けた。
突然の、予想外の行動に戸惑う航に対し、魅琴は蠱惑的な眼をして囁く。
「『僕を奴隷にしてください』じゃなくて良いの?」
「そ、それは……」
「ふふ、冗談よ。でも、貴方が望むなら構わないわよ」
航は嘗て無いほどドギマギしていた。
あまりの高揚感に心臓の鼓動を感じる。
そんな航に魅琴は更に身体を寄せ、殆ど密着させる。
心地良い感触が航を包み込んだ。
「あの、そんなに身体を押し当てて、傷は痛まないの?」
「大丈夫よ。兎黄泉ちゃんの神為と貴方との会話で随分元気になったから。多少は痛むけど、貴方を感じられるならどうってことないわ」
「そ、そう。何よりだね」
「因みに私、生まれ付き人体のことは知り尽くしているから、どこをどうすればどう感じるかが手に取る様に解るのよ」
「つ、つまり……」
「ま、楽しみにしておきなさい」
固まる航を余所に、魅琴は身体を離した。
そして再び涼やかに微笑むと、真面目な答えを返す。
「恋人同士ね、願ってもないわ。是非、宜しくお願いします」
「おお、やった!」
「退院が楽しみね。デートしたり、共同作業したり、沢山二人の思い出を作りましょう」
「ああ。ま、暫くお預けなのは残念だけど、今はのんびりと身体を休めてくれ」
こうして、遂に航は魅琴と交際することになった。
彼の、二人の念願叶って、目出度し目出度し、といったところだろうか。
否、一つだけ航にはやり残したことがあった。
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高校2年の夏。
高木華音【男】は夏休みに入る前日のホームルーム中にクラスメイトと共に異世界にある帝国【ゼロムス】に魔王討伐の為に集団転移させれた。
地球人が異世界転移すると必ずDランクからAランクの固有スキルという世界に1人しか持てないレアスキルを授かるのだが、華音だけはEランク・【ムゲン】という存在しない最低ランクの固有スキルを授かったと、帝国により死の森へ捨てられる。
しかし、華音の授かった固有スキルはEXランクの無限増殖という最強のスキルだったが、本人は弱いと思い込み、死の森を生き抜く為に無双する。
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