日本と皇國の幻争正統記

坐久靈二

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第三章『争乱篇』

第七十四話『絶え間なく降る愛の詩(前編)』 序

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 八月二十八日金曜日夜、日本国は東京。
 とあるビジネスホテルに一台のタクシーが到着した。

「じゃ、行くか」
「ええ」

 さきもりわたるうることそろってタクシーに乗り込んだ。
 この週末、二人は付き合いだして初めてのデートに出掛けることになっている。
 といっても、このタクシーでデートに行くのではない。

ずこの住所に行ってもらえますか?」

 ことが運転席にスマートフォンを差し出した。
 画面に表示されているのは彼女の自宅の地図と住所である。
 そう、二人は一旦帰宅するためにタクシーを呼んだのだ。

『このままホテルから出掛けるのはちょっと味気ないと思わない?』

 きっかけは日曜日、ことがそう言いだしたことだった。
 長年共に過ごしながら、交際に至らなかった二人。
 臆病さと宿命によって生み出されていた強力な反磁性からようやく解放され、おもいを通じ合わせることが出来たのだ。
 待ちに待った初デートである、どうせなら一度日常に帰り、願い続けた形で始めたいではないか――そう合意した二人は、きゆうきよ外出の申請を金曜日からの三日間に延長し、一度互いの自宅に戻ることにしたという訳だ。

かしこまりました。今、ナビに入れますので少々お待ちくださいね」

 運転手がうる家の住所を入力する。
 ナビの画面に表示された地図に、わたるはふと懐かしさを覚えた。
 簡易的な図に過ぎないとはいえ、その敷地の大きさはまぎれも無く中学時代によく訪れたあの和風豪邸だ。

「やっぱり今もあそこに住んでいるんだね」
「当然でしょう、自宅なんだから」

 最後に訪れたのはことの父・うるつるの葬式だろうか。
 せきじつの暖かなだんらんが、香りまでよみがえってくる様だった。

せつかくだし、久し振りに上がっていく?」
「え?」
「冗談よ。言ったでしょ?」

 そんなことを話しながら見送る夜の街並には、これまで過ごしてきた懐旧の光と影が街灯と共に色付いていた。
 今日までの日常を明日に運ぶ人々には、それぞれの歴史があるに違いない。
 誰かと紡いだつながりや、独りで積み重ねた営みが。
 戦時中であるにもかかわらず、崩れなかったそれらが美しく色付いて、街に埋め込まれている。

 タクシーが信号に捕まった。
 運転手はミラーをのぞみ、そしてどうもくした。
 後部座席のわたる達を見て何かに気が付いたようだ。

「お客さん、さっきから気になっていたんですが、どこかでお会いしませんでしたか?」

 わたることもミラーに映った顔を見て気が付いた。
 二人は確かに、この運転手を知っている。

「運転手さん、もしかしてあの夜の……?」

 わたるは思わずたずねた。
 タクシーを運転しているのは、まさにわたるを海浜公園まで送り届けた、あの運転手だったのだ。

「お客さん、無事だったんですね。いやあ、ずっと気掛かりだったんですよ! 失礼を承知の上で、あれから何度もアパートの様子を見に行きました。ずっと郵便物がまりっ放しで、やっぱりなにかに巻き込まれたんじゃないかって……」

 運転手は感情を入れてしみじみと語った。
 目に涙は浮かんでいないが、わたるの無事を心から喜んでいる気持ちが声や話し方から伝わってくる。

「ありがとうございます、彼を心配してくれて」

 ことが謝意を告げた。
 彼女がこうこくに乗り込む切掛となったのも、この運転手の証言だった。
 二人にとって、隠れた恩人と言って良いだろう。

「いやあお嬢さん、わたしは今とても感激していますよ。この仕事を続けてきて良かった」

 信号が変わり、運転手は前方との車間距離を充分に開けて発進させた。
 それにしても、奇妙な偶然もあったものだ。
 奇縁といったところだろうか。



    ⦿⦿⦿



 こうして二人は先ずうる家にタクシーを走らせてもらった。

「ありがとうございます」

 停車したタクシーから、先ずはことが降車する。
 その間、わたるは相変わらず堂々とした門を前にして、車内で感慨にふけっていた。

 わたるにとっては懐かしい外観である。
 ことつる、三人で夕食を囲んだ日々が昨日の事の様に思い出せる。
 しかしわたるは一つ、違和感に気が付いた。

「あれ? 竹が見当たらないけど……」
「あぁ……」

 ことは一つの感慨に耽る様に声を漏らした。
 その後ろ姿は少し寂し気だ。

「処分してもらったのよ。じいさまが亡くなって、じんかいの人達も訪れなくなった。一人で手入れをするには、竹の繁殖力は強過ぎるから……」
「へぇ……」
「残していたら大変なことになっていたでしょうね。竹は恐ろしく成長が早い上に貫通力がある。梅雨の時期が成長期らしいから、この道路を突き破っていたかも……」
「ははは、そりゃ大変そうだ」

 わたるかつうる家で食べたたけのこのことを思い出した。
 確かあの頃、ことは自分に収穫を手伝わせるというようなことを言っていた気がする。
 それはもうかなわないということだろう。

 しかし、それならばそれで一つの思い出として完結させ、記憶にんでおけば良い。
 二人はこれから新しい思い出をいくらでも作っていけるのだから。

わたる、また明日」

 夕日に照らされることの顔には、そんな過去と今が混ざり合っているようだった。
 きつ明日は、違う表情を見せてくれるだろう。

「ああ、また明日」

 わたるも挨拶を返した。
 二人は一旦、で分かれる。
 タクシーの扉が閉まった。

「じゃお客さん、例のアパートまででよろしいですか?」
「ええ、お願いします」

 タクシーはわたるのアパートに向かって走り出した。



    ⦿⦿⦿



 その後、程無くしてタクシーはわたるのアパートに到着した。
 わたることから受け取っていた交通費の一万円札を運転手に差し出す。

「ありがとうございます。自力で帰るって言ってたのに、結局送ってもらっちゃいましたね」
「ははは、お客さん、冗談がいや」

 わたるは海浜公園へ送ってもらったときの会話を思い出していた。
 もつとも、運転手としてはわたるがあれから一度もここへ帰ってきていないとは思っていまい。
 すがに此処からは、今も郵便物が溜まったままの玄関は見えない。

「はい、お釣りです。お忘れ物はないですか?」
「大丈夫です」
「では、どうかたつしやで」

 わたるは降車し、運転手に車外から一礼してタクシーを見送った。

て、と……」

 わたるは自宅の鍵を取り出し、扉へと一歩ずつ歩いて行く。

「いや、すごいことになってるな……」

 運転手の話通り、郵便受けには大量の郵便物が溜まっていた。
 おそらく、扉を開ければこれ以外にも地面に散乱していることだろう。

「ま、なんにせよまた生きてこの扉を開けられるんだな……」

 わたるは鍵を開けて部屋に足を踏み入れた。
 そして先ずは、郵便物の中から比較的重要と思われるものをけていく。

「これは選挙の葉書か。あと、六月分の家賃の催促状ね。いや、七月に帰国出来て良かったよ……」

 通常、賃借人失踪によって家賃滞納があった場合、二箇月の時点で訴訟提起がされる。
 その間に三箇月目の滞納があった場合、家主と賃借人の信頼関係たんが認められ、契約解除となる。
 このとき、家主は私物を売却することが一部出来るようになるらしい。
 わたるは七月中旬時点で連絡が取れるようになり、滞納がむをない事情があってのものと明らかになったので助かった。

 その後、政府からの補償金と特殊防衛課としての仕事で得た給料で滞納分と二箇月分の家賃を支払い、どうにか事なきを得た状態だ。
 そう思うとわたるは何だかんだですめらぎかなや政府に感謝せざるを得なかった。
 これは日曜日の選挙にも足を運んだ方がいいだろう。

(そんなに時間がかかるものでもないし、ことにも相談しておこう)

 わたるはスマートフォンを操作した。
 自分の部屋で充電するのも三箇月ぶりだ。
 幸い電気・水道・ガス・携帯代は引き落としだったので、今もそれらは生きている。

 ふと、わたるの目に拉致される前夜のこととのやり取りが入ってきた。
 今思えば、あの頃の自分はかなりストーカー染みていた。
 だが改めて見れば、ことしい言葉にもそれなりの背景が見えてくる。
 わたるはほんの少ししみを感じながら、ことにメッセージを送った。

『日曜日は投票日だってさ』
『ちょっと投票所に寄っていい?』

 数秒後、立て続けに二つの返信があった。

『当然でしょ』
『明日ちゃんと投票所の入場券を持って来なさい』

 すぐさま、わたるはメッセージを返す。

『もし僕が気付かなくて持って来なかったらどうしてた?』

 ことからの返信はすぐだった。

『私から言うつもりだったわ』
『守らなかったら』
『わかっているわよね?』

 それを見てわたるは改めて「かなわないな」と苦笑した。
 そして、また悪い癖が下腹の辺りから込み上げてくる。

 あの時も辛抱たまらなくなって致してしまい、事後にだるさから眠ってしまったのだった。
 そして目を覚ましてシャワーを浴びた後、ふと海へ行きたくなってタクシーを呼んだのだった。

 ああ、駄目だ、また思い出してしまう。
 しかも今は、妄想のネタにも更に刺激的な思い出が増えてしまっている。
 幼い頃からの想い人にひどく痛めつけられた記憶に欲情する男などそうは居まい。
 それに、正式に付き合い始めてからことわたるへの好意を素直に、大胆に、そして挑発的に示す様になった気がする。

(こんなの、耐えられるわけないな……)

 しかしわたるおもむろにベルトに手を掛けたところで、彼の携帯が鳴った。
 水を差されたわたるは煩わしそうに応答する。

「もしもし?」
『もしもしわたる、今何してるの?』

 ことの冷ややかなこわいろわたるはどきりとした。

(まさか、バレているのか?)

 流石にそれは無いだろう――そう思いながらも、わたるは内心恐る恐るはぐらかす。

「な、何でもいいだろ?」
『まあ確かにそうね。でも、下らないことをして余計な体力を使ったせいで寝坊して遅刻した、なんてことになったら流石に幻滅するわよ』

 ことは「全てお見通し」とでも告げる様にくぎを刺してきた。

(いや、本当にバレている? なんで?)

 わたるは焦って冷や汗をかいた。

「どうしてぼくが余計なことをすると?」
『勘よ。でも、当たっている自信はあるわ。だって、わたしわたるがどういう男かく知っているもの。ムッツリ助平なマスき猿の変態君だってね』
「ぐ……!」

 反論できない。
 そういえば、わたることに隠し通せたましいことはただ一つ、性癖がことゆがめられたことくらいのものだった。
 後の情事はいつも何故なぜか筒抜けになっている。

きみぼくのことを本当に何でもお見通しだな……」
『そうでもないわよ。変態性は予想以上だったし』
「返す言葉も御座いません……」

 わたるは溜息を吐いた。
 電話口からはことの愉快そうな笑い声が聞こえてくる。

『ま、今夜は明日に備えて早く寝なさい。ちゃんと体力を温存しておいた方がいいわよ。ね?』

 意味深にささやく様なことの口調に、わたるは思わずかたを飲んだ。

『うふふ、明日、楽しみにしているわ。お休み、わたる
「あ、ああ。お休み、こと

 二人は寝る前の挨拶をして通話を終えた。
 わたることの言い付けを守り、どうにか興奮を抑えてそのまま眠りに就くことにした。
 今後このようにコントロールされる予感を少しだけ抱きながら……。
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