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第二章
大公爵夫妻
しおりを挟む「大丈夫、大丈夫だよ、泣かないで」
郁子の小さくしゃくり上げる声に混じって、懸命に彼女を慰める声がする。
鈴を転がしたような澄んだ声は、どこか稚く甘い。
彼女は、小さなひとだった。
百六十センチと少しという、平均的な日本女性の身長である郁子にも、随分小柄で華奢に感じられる少女だった。
そんな相手にしがみつき、ひくりひくりとしゃくり上げる自分は、なんてみっともないのだろうと思う。
けれど、そんな郁子を笑うことも呆れることもなく、ふんわりパフスリーブから伸びた細い両腕が、背中に回って優しくさすってくれる。
郁子が顔を埋めた相手の肩は華奢で、涙に濡れる頬をふわふわの黒いくせ毛がいたずらにくすぐった。
温かい小さな身体からは、ほのかに花のような香りがする。
その香りに包まれて、少しずつ落ち着きを取り戻し始めた郁子は、少女が紫色の花と同じ名を持っていたことを思い出した。
「……すみれ、ちゃん?」
「うん」
郁子は肩に埋めていた顔をそっと離し、おずおずと相手の顔を覗き込んで問う。
すると、目の前のかんばせが柔らかく綻び、頷いた。
その光景に、郁子は思わず息をのむ。
自分を見上げるキラキラの瞳といったら零れそうに大きく、昨日ルータスに聞いていた通りの珍しい紫色。
ちょんと可愛い小さな鼻に、桜色の唇はぷるりと瑞々しい。
その容貌たるや、思わず郁子も苦悩を忘れて頬を綻ばせてしまいそうな愛らしさ。
なるほど、市松人形を示してコンラート王妃アマリアスがうっとりと語ったのも頷ける、まさに人形のごとき可憐さだ。
ずびっと鼻をすすり大きく息を吸い込ん郁子は、たまらず叫んだ。
「なっ……何? この、とんでもなく可愛い生き物はっ……!?」
「私の妻だが」
それに、さらりと答えたのは低く落ち着いた美声。
その声の出所に顔を向けた郁子は、今度は一瞬ぽかんと口を開き、ついで盛大に顔を引きつらせて叫んだ。
「何っ……! この、恐ろしくお綺麗な生き物はっ……!?」
「うちのダンナさんですけどー」
黒髪のお人形の背後に立ったのは、彼女とはまるで対照的な白銀の髪をした長身。
すっと高い鼻に薄い唇。
切れ長の瞳だけが妻と呼んだ少女とお揃いの紫色。
完璧なシンメトリーの美貌はどこか作り物めいていて、何の感情も浮かべぬそれに、郁子は一瞬畏怖さえ覚える。
しかし、その恐ろしいまでの無表情は、振り向いた少女と顔を見合わせた瞬間、みるみる内に蕩けた。
郁子はそんな二人を交互に見ると、もう一度――今度は手紙で知った漢字のフルネームを思い出しながら、少女に尋ねた。
「野咲菫ちゃん?」
「うん、そうだけど、訂正」
「え?」
「菫・ルト・レイスウェイクです」
少しだけ身を離して立った郁子に向かい、菫はふんわりとしたワンピースをちょんと摘んでそう告げると、「これでいい? ヴィー」と、背後の銀髪の男を振り返った。
“ヴィー”とは、もしかしてもしかしなくても、ルータスの幼馴染みというグラディアトリアの先帝ヴィオラントの略称だろう。
とにかく神々しいほどの美貌の男は、少女の言葉に無表情のまま「うむ」と頷いた。
そんなやりとりを眺めていた郁子に向かい、菫は「あのね」と耳打ちをする。
彼女くらいの世代とこれまで関わることがなかった郁子は少し戸惑ったが、んっと背伸びをして近寄ってきた小さな顔があまりにも可愛らしくて、思わず自分からも耳を寄せた。
「手紙に旧姓で名前書いたこと、怒ってんの」
「旧姓って……野咲?」
「そう。うちの旦那さん、けっこう細かいところに拘るの」
しかし、そんな女同士の内緒話が丸聞こえだったらしい銀髪の超絶美形――この屋敷の当主ヴィオラント・オル・レイスウェイク大公爵は、眉間にかすかに皺を作って両腕を組んだ。
「当たり前だろう。せっかく、そなたに私の姓を名乗らせることを許されたというのに、そうやすやすとノサキ家に返してたまるものか」
「はいはい、わかりました。どーも、すみませんでしたー」
「スミレ」
厳しい顔をして苦言を呈するヴィオラントに、郁子と頬が触れ合うほどくっ付いた菫が返したのは、まったく心の籠っていない棒読みの謝罪。
とたんに、小さな子供を叱るように名を呼んで、男は少女に向かって片手を伸ばしてきた。
その光景に一瞬おののき、わずかに後ずさった郁子の背が、とんと何かに打つかった。
それは、扉と郁子の間に立っていたルータスの胸だった。
はっとした郁子は慌てて彼から身を離すと、伸びてきたヴィオラントの手が菫を捕まえる前に、彼女を己の腕に庇うようにぎゅっと抱き竦めた。
「いくこさん?」
郁子の口元ほどまでしかない少女の細い身体は、腕の中にしっくりと収まり、見上げて問う表情のいとけなさを目にすれば、庇護欲がむくむくとわき上がる。
一方、妻を奪われた男の方は、アメジストのような瞳を不穏に細めた。
郁子はその凄まじい眼力に負けじと、彼を睨み返す。
室内の空気が、一瞬にして張り詰めた。
突然の異様な雰囲気に、郁子の胸元に抱き込まれた菫が、戸惑ったように二人の顔を交互に見比べている。
しかし、そんな場の空気などまったく気にしない人物が一人だけいた。
もちろん、ルータスである。
彼は、相変わらずのほほんとした様子で口を開いた。
「イクコ、スミレが気に入ったのか? しかし、さすがに彼女は譲ってもらえないと思うぞ。だろう? ヴィオラント」
「当たり前だ」
のんきなルータスの問いかけに、ヴィオラントは憮然と答えた。
二人は確かに幼馴染みらしく気安い雰囲気だったが、王族に生まれながらも威厳とはほど遠いルータスとは違い、ヴィオラントという男の威圧感たるや凄まじい。
ルータスと、腕の中に抱き込んだ少女がいなければ、郁子は腰を抜かすかさっさと回れ右をしていたかもしれない。
そんな緊張感漂う雰囲気の中、てくてくと扉から離れたルータスが郁子とヴィオラントの間に立った。
本人には仲裁に入ったつもりはなさそうだが、彼がクッションになって郁子に突き刺さる剣呑な視線はすこしだけ緩む。
それを機に、今だとばかりに己を奮い立たせた郁子は、男達に向かって口を開いた。
「菫ちゃんと、二人きりで話をさせて下さい」
とたんに郁子は、ルータス越しに胡散臭いものを見る目に射られた。
ルータスも、不思議そうな顔をして郁子を眺めている。
しかし、郁子が再度「二人きりで話したいんです」と訴え腕の中の温もりをさらに抱き寄せると、それまで黙っていた少女本人が口を開いた。
「うん、じゃあ、お庭で二人でお茶にしよ。私、いくこさんにケーキを焼いたんだよ」
「――スミレ」
「お天気いいし暖かいし、いいでしょ? ヴィー。女の子同士でお話したいの」
菫はそう言って、するりと郁子の腕から抜け出した。
そして、なおも難色を示す男の返事も聞かず、郁子と手を繋ぐように掌を絡めると、彼女を引っ張って開いたままだった扉を潜り抜けた。
「スミレ、見える場所にいなさい」
そう背中にかかった声からは不機嫌さは消え、代わりにひどく心配そうに聞こえた。
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